目子媛 (1)
大地をへだてる大きな壁のようにそびえたつ、峰々のはざま――。
山々からこぼれた雫が集まって一筋の小川となり、幾筋も集まって大河をなし、さらにべつの山からの雫を集めて仕上がった大河とのあいだに、
湖国を出て、伊吹の山を越えて美濃の国に入った
「船に乗られたらよいのに。尾治まであっというまに着きますよ」
美濃と尾治は、水の道でつながっている。美濃の山から流れ出る大河の河口にひろがるのが、尾治の国だ。
「心配なさいますな。馬なら預かりますよ」
世話になった美濃の宮の人から勧められたが、荒籠は首を横に振った。
「いいえ、そう遠い距離ではないので。道もしっかりしているし、尾治には海がありますから」
美濃の山から流れる川は、海へと注ぎこむ。だが――。
「海?」
なんのことやらと、ぽかんと真顔をした美濃の人に、荒籠は微笑んだ。
「海の水からは塩がとれるでしょう? 塩は、馬のごちそうなんです」
川は路だ。
大河や支流のそばには湊が点々とあって、荷の積み替えの拠点になっていた。
時には馬を走らせ、時には鞍から降りて手綱を引きながら、馬飼の一行は川筋に沿って下流へ、海の方角を目指した。
大河の幅が広くなり、流れが穏やかになっていくと、湊や集落が増えていく。
尾治王はいま、
門を守る番人に、高嶋の若王、雄日子の使いで訪れたと荒籠が告げると、真っ先にやってくる男がいる。
「荒籠様?」
その男は、名を
顔見知りだが、その男は、荒籠が雄日子の手伝いをしていることをまだ知らなかった。
「荒籠様が、雄日子様のお使いで?」
目をまるくした瑚弛の前で、荒籠は胸の合わせから布包みを取り出した。
「久しいな。春から、雄日子様のもとで世話になっている。元気そうでなによりだ。これを渡しておこう」
布の内側にくるんできたのは細い木簡で、肌身離さず守りながら湖国から運んできたものだ。
「これは――」
瑚弛は頭上に掲げて拝し、字を読んだ。
瑚弛が仕える男、湖国の若王、雄日子からの書簡だった。
――荒籠に託した。従いなさい。
「先にすこし話せるか」
荒籠が尋ねると、瑚弛は門を守る番兵を気にする。
「ええ、もちろん。しかし、手早く」
瑚弛の年は三十半ばで、雄日子の守り人の一人だ。長年務めあげ、赤大の相談役も担っている。
男盛りの手練れで、御使いや斥候の役目も無難にこなし、二年前から尾治への赴任を命じられていた。
東国からの船が着く尾治の港湾や、平野を潤し大水を防ぐ治水の技を学ぶという名目だが、瑚弛が任じられた最も大切な使命は、尾治の国を肌で知って帰ることだ。尾治側にとってもそれは同じで、瑚弛を通して湖国を知ろうと、滞在を許されていた。
瑚弛は客人として扱われたが、異国者である以上は、常に見張られる立場である。
二人で肩を並べて番兵から離れるやいなや、瑚弛の目が荒籠を向いた。
「あなたがいらした理由をお伝えするのに、
瑚弛は、目配せでこう尋ねていた。
あなたがここを訪れた理由は?
尾治王へどうお伝えすべきでしょうか?
言ってまずいことはありますか?
「わかっている」と荒籠はうなずき、唇を開いた。瑚弛が懸念するように、口裏を合わせるなら急ぐべきだが、大切なことほどゆっくり話すべきだ。
「雄日子様が、樟葉に侵攻なさった。――大丈夫、すべてまるくおさまった。樟葉は落ち、王の娘を妃に迎える話もついた」
「とうとう……では――」
瑚弛も、雄日子の狙いが淡海の下流域であることはよく知っていた。赤大たちが、難波を目指して旅をする支度を進めていたことも。
「ああ。樟葉だけではなく、
「それは、つまり、大王と戦を――」
「覚悟はされているだろう。だから、俺が遣わされた。もともと美濃は雄日子様の祖母君の故郷で、湖国と縁が深い国だ。途中で美濃に寄り、美濃王にいまの話を伝えた。同じ話を草香様にしたいと、やってきた」
頭と頭を寄せ合いながら小声で話していたが、瑚弛は苦笑した。
「そりゃあ、盛りだくさんですな。大変だ」
荷ほどきの間もなく、謁見の場に通されることになった。
熱田宮の館の柱は太く、巨大な屋根を支えるに十分だ。王宮の周りには、そこまで太い木が茂る森がなかったが、きっと――と荒籠は思い当たった。
(美濃の山から川を下ってきた柱だろうか。美濃と尾治は、むかしから縁深い国だ)
宮の造りや、兵や侍女のふるまい方、器や衣服などの暮らしの道具に、宮へ至るまでの道の開け具合、畑の広さ、農具や、市の様子――旅先の景色をたしかめる癖が、荒籠にはついていた。
旅先の暮らしになじむには、まず知り、慣れるべきだ。
荒籠の場合は、べつのことにも役立った。
異国で、さらに異国の話をするには、その話がどれだけその国にとって珍しいことなのかを計っておかねばならない。国の景色は、ちょうどいい物差しになった。
尾治王の到着を待つあいだに、広間をぐるりと眺めた。
上座の奥の壁に、細かな針仕事が加わった飾り布が垂れている。
(東国の模様かな)
尾治の東には、
海路で吾妻を目指すなら、旅立ちの港は尾治にあったので、尾治は東域へ続く門のような国だ。
熱田の王宮には、荒籠の目に珍しいものが溢れていた。
(はじめて見るものが多いな。取り引きをする相手が前と変わったのだろうか。それに、豊かだ。雄日子様が尾治を
しばらくして、足音が近づいてくる。
一人は瑚弛で、もう一人は瑚弛よりも豪奢な身なりをした男だった。尾治を治める男で、名を
「おお。久しいな、荒籠!」
館に足を踏み入れるなり、
草香は壮年で、若い頃に武芸の鍛錬に勤しんだ名残か肩幅が広く、がっしりした身体をしている。顔を合わせて、荒籠は深く頭をさげた。
(すこし、老いた)
前に会った時よりも、草香の顔はすこし細くなっていた。
でも、目のぎらつきは変わらない。やや垂れた大きな目は、笑っていても睨んでいても、目が合えば相手を威圧する。草香は、王の華をもつ男だった。
「まずは、手土産を――俺をここへ遣わした雄日子様からの贈り物です」
珠飾りに飾り剣、
「なるほど。いつもと勝手が違うようだ。おまえが湖国からの使者としてここへ来たことも理解した。しかし、どういう風の吹き回しだ。馬飼は大王に仕えていたのではなかったのか。――いや、おまえたちは誰にも仕えようとはしなかった。だからこそ、おまえたちを至上の客人ともてなしていたのだが」
「はい」
荒籠はうなずき、胸の合わせに手を入れた。
懐から取り出したのは小さく畳んだ布で、それを荒籠は床に広げて、丁寧に撫でてしわを伸ばした。
男の上半身くらいある大きな布で、墨で模様が書かれている。
「絵地図です」
「なんと――」
草香が身をのりだす。草香の背後に控えていた群臣や、給仕にきていた侍女たちも背を伸ばして布を覗きこんだ。
「見事な……」
地図というのは、そうそうお目にかかれるものではない。
地図を描けるほど異国を行き来する人はそう多くはなく、行き来したからといって、天上から俯瞰する鳥になったかのような目線で冷静に大地や川の姿を絵にしたためられる人は、稀だ。
だから、地図は貴重だ。とくに、噂話を頼りにしてつくられただけではない、確実な地図は。
「おまえが描いたのか」
「はい」と荒籠はうなずいた。
「俺たちがいるのは、このあたりです」
荒籠が指さしたのは、布の右下の端。尾治の都を示す点があり、そこから北へと続く線をたどって、荒籠の指が布の中央あたりへと移っていく。
「この絵地図に描きましたのは、ここ、尾治から西の方角です。俺の指がいまたどっておりますのは、尾治と美濃をつなぐ
荒籠の指が、そこから左側へ向かって布の織り目を撫でていく。絵図に描かれた山を越えて、布の中央、尾治の西側に大きく描かれた湖へといきついた。
「これが、
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