番外編【書籍化感謝】
双子の約束 (1)
物語がはじまる少し前の土雲の里を舞台にした物語です。全2話。
本編のネタバレはほぼありませんので、未読の方も安心して読んでいただけると思います。
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気づいたら、もういなかった。
いってしまったのだ。
――あの、ばか!
セイレンが胸で繰り返したのは、その言葉ばかり。
ばか、まぬけ、と風に向かって文句をいいながら、セイレンは走った。
土雲の里と、山の下の里の境には、糧となる獣を狩る「狩場」がある。里から続く裏道をすべり落ちるように駆けて、狩場へ入るなり、崖ぎわぎりぎりの狩場の端へ。
狩場で狩りをする時は、ふだんなら獣道を使う。獣道は、森で暮らす獣が踏み歩いて仕上がった
セイレンが狩場の縁を目指したのは、その獣道を避けるためだ。糧を得ようと狩場をうろつく里人の誰かと出くわすわけには、いかなかった。
足でよく踏まれた道を逸れれば、背の高い草が増え、蜘蛛の巣のように生い茂る葉っぱを掻き分けて進むと、どうしても葉が擦れてガサゴソと鳴ってしまう。どうか、このうるさい音に誰も気づくな――。セイレンは背後を気にしつつ進んだ。
狩場の端へたどり着くと、山の麓へと続く崖の底が見える。崖の急斜面に群れる木の幹の隙間に、山の下へと続く一本道も見えていた。
そこで足を止めて、セイレンは息をのんだ。眼下の一本道のあたりに、ひらりとはためく赤い布を見つけたのだ。
――やっぱり、いた!
――ばか、あいつは本物のばかだ!
とっさに、崖の斜面に駆けこんだ。人が足を踏み入れることがほとんどない場所なので、落ち葉が深く積もって柔らかくなっていることは、知っていた。だから、思い切り飛び込んで、身体の向きをうまく操りさえすれば、落ち葉の上をすべりながら崖を降りられる。
かなり勢いをつけてくだるので、途中で木の幹に身体をぶちあてさえしなければいい。
崖をおりた先をすこし進めば、山の下へと続く道に出る。さっき崖の上から見下ろした一本道だ。
道の真ん中に立って前後を振り返ってみるものの、探していた娘の姿はなかった。この道をとおってはいないようだ。
と、いうことは――。背中に汗がつたった。
「正気かよ、あのばか。森に入っちまったのかよ」
道の左右には、手つかずの森が広がっていた。
森の奥、木々がつくる緑の天蓋の隙間からは、ちょうど太陽の光がすがすがしく差していた。森の奥のほうが明るく、進んでもよさそうな場所にも見える。――そんなものは幻だと、セイレンは知っていたけれど。
土雲の一族が住み着くまで、その山は人が入れない霊山だった。だから、木を切る
はっと、思い出した。
――そういや、でっかい猪が出るから気をつけろっていってた奴がいたな……。
狩りをする時には恐ろしい獣に気をつけなと、話していた里者がいた。その時のことがよみがえると、迷う暇はなかった。セイレンの足は、道を逸れて森の奥へと入った。
ここまでくれば、音や気配に気をつかう必要もない。なにしろ、すでに土雲の里を抜けているのだ。
「どこいっちまんたんだよ、あのばか! もう知るかよ、あんないい加減な奴!」
八つ当たりをするようにも行く手をふさぐ梢を思い切りかき分けて、細い獣道を駆ける。
獣道は、森を行き来する獣の足がつくった道だ。ねぐらや餌場が違えば、生き物の数だけ道がいくつもできて、交差もする。
セイレンがたどってきた小さな道も、すこし先で二股に分かれていた。
「あいつ、どっちにいきやがった?」
道は右と左に分かれている。右か、左。どっちだ?
悩んだのは一瞬だ。すぐに、左を選んだ。
進んでいくと、また分かれ道に出くわす。「どっちだ?」とまた迷ったけれど、つぎも左を選んだ。
道が分かれても、そいつの姿を見失っても、そいつがいく方向なら、わかる気がした。
――あいつがいきたいところは、わたしがいきたいところと同じだからだ。
そう、セイレンは胸の底から信じていて、なんの疑いももたなかった。
分かれ道を何度となくたどって、とうとう森の木々の向こうに、赤い衣を見つけた。
でも、様子がおかしい。これほど追いつけないのだから、そいつにしてはなかなかの速さで進んでいると思っていた。それなのに、セイレンが見つけた赤い衣は、わずかたりとも動かない。
赤い衣をまとった娘は巨木の幹を背にして立っていて、なにかと向かい合っている。その理由に気づいて、セイレンは目を見張った。
赤い衣をまとった娘――石媛の前に、大きな獣がいたのだ。猪だった。
「石媛、動くな」
叫ぶなり、腰にさげた吹き矢筒を口もとにかまえた。その時には、武具帯から引き抜いた木の矢を詰めて、支度を終えている。
声が届いたのか、石媛がセイレンのほうを振り向く。目が合うなり、そばまで駆け込んで、吹いた。
相手は大型の獣だ。吹き矢では太刀打ちできないかもしれない。
これでだめなら、つぎは〈雲神様の箱〉だ――。
胸元にさがった石飾りをたぐりながら、猪の鼻先に狙いをさだめて、さらに駆け寄る。
でも、細い木矢の先に塗った毒は、しっかり効いてくれたようだ。猪は動きをとめて、その場にまるまってしまった。
難は切り抜けた。セイレンはほっと息を吐き、さあ文句をいってやろうと、石媛の顔を探した。
「あんたはばかか? 一人じゃなんにもできないくせに、一人でいくなんて――!」
でも、言葉は途中でとまる。
幹を背にして立っていた石媛は、きょとんとしていた。
里で織られる一番上等な布に赤の染め具を贅沢に使った色濃い服を身にまとったその娘は、セイレンと同じ顔をしていた。
同じ顔、同じ背丈、同じ手の形。
自分そっくりの手で、石媛は、胸にさがった石飾りをつまんでいた。
息を吹き入れようとしたところ、というふうに唇に寄せていて、やってきたセイレンをぽかんと見ている。猪と差し向ったはずだが、そこまで怖がっているようにも見えなかった。
はあ――。セイレンは、息をついた。
森の中をそよ吹く風の向きをたしかめる。風向きを調べてみたが、〈雲神様の箱〉をつかうのにちょうどよい流れで、問題なかった。
「そうだよなぁ。わたしが助けにこなくたって――」
石媛は、自分がここにやってこなくても、〈雲神様の箱〉を使って獣の相手をしたはずだ。
いつも、こうだった。
どことなく頼りなく見える石媛は、セイレンに心配ばかりさせるくせに、やることはまあ、そこそこやる。
なにしろ、いずれ一族の長になる奴だ。最上の技を身に着けられるようにと、いろんな連中から躾けられている。
ほうっておいてもどうにかなったはずなのに、どうしてこんなに心配して、息を切らして探しにきたんだか。しかも、こんなばかのために。
肩を落としていると、目の前で石媛が笑った。
「あぁ、助かった。きてくれたのね、ありがとう。やっぱりセイレンは強いね」
花が咲いたような、きれいな笑顔だった。
石媛は、素直だった。口にする言葉も飾り文句ではなくて、顔にあるのも、胸の底からの想いを伝えるような愛らしい笑顔だ。
セイレンは、ふいっと横を向いた。
――本当に、面倒くさいことこの上ない奴だ。
「強いって、あのねえ。わたしはね、あんたを守るために鍛えたわけじゃないんだよ」
目を逸らして文句をいうのが、やっとだった。
「ここまできたんだもん。一緒にきてくれるよね?」
ちゃっかりと笑った石媛につれられて、セイレンも森を抜けることになった。
でも、石媛はやっぱりどこか頼りない。
「どっちかなぁ。どうやっていくんだっけ」
「あのなあ。迷いにきてるのかよ」
「迷いたいわけじゃないよ。前もこの森を通ったんだけど、その時はハルフとシシ爺と一緒にきたから――あ、こっち!」
石媛の声が明るくなる。
ガサガサと緑の茂みをかき分けていくうちに、森の端が近づいていた。
日の光が強くなっていって、森のなかも、だんだん明るくなっていく。
とうとう、森を出た。
「うわあ……」
石媛が幹の向こう側を覗いて、息をのんだ。
「ああ、きれい……」
石媛がため息をつく。
セイレンもため息をついた。石媛とはべつのため息だ。
「そんなにきれいかなぁ。ただの景色じゃないかよ」
森の先に広がっていたのは、山の下の里だ。土雲の一族は、霊山の上に里をつくって暮らし、霊山が霊山ではなくなると、べつの霊山を探して移り住む。つまり、霊山の上でのみ暮らす一族だ。二人でやってきた山の下には、野原や川辺に暮らす人たちの里があった。土雲の一族のように旅をして暮らすこともなく、何代にもわたってこの場所に住み続ける人たちの居場所だ。
土雲の一族では、ときどき山の下の土や水を調べに山を下りる習わしがある。セイレンもその役を任されて、五度、六度は、一人で山を下りたことがあった。
子どもの頃は、里を出ることをかたく禁じられていたので、山の下の里のことは恐ろしい場所だと思っていた。でも、行き慣れてしまえば、そうでもない。
「土雲の里と同じじゃないか? 人が住んでるだけだよ」
坂だらけの山の上と、平らな下の里だから、景色もなりわいもそれなりに違う。でも、それだけだ。
セイレンはそう思ったけれど、隣でぼんやりと立つ石媛の横顔を覗き見ると、どきりとした。石媛の目は、きらきらと輝いていた。そのうえ、涙まで浮かべている。
――そんなに?
驚いて、もう一度、森の向こう側を眺めてみる。すると、どうしてか、さっきよりも壮大な景色に見えた。
木々が群れる森の向こう側にあったのは、一面見渡すかぎりの野原だった。
野をいろどる緑の色は、山の上とはすこし違った。よく知っている緑の色よりも淡くて、清らかだった。
野原には川が流れている。その川も、山里のものとは違う。山里を潤す清流は、滝をもったり苔むした岩で流れがせき止められて水がよどんだりするけれど、野原を流れる川は幅が広くて、平たく、野原を這う神の蛇のような姿で流れている。水面がきらきらと輝き、川ごと光って見えたせいで、銀色の大蛇が草の野をゆるゆると泳いでいるようにも見えた。
野の果てのはるか彼方から吹いてくる風は、ここにはない香りを乗せていた。花の香りか、薬草か。ふしぎな香りのついた風だった。
――この風は、どこから吹いてきたのだろう。
――この野の果てには、どんなふしぎが待っているのだろう――。
いつのまにか、胸が高鳴った。
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