天と土の霊しきもの (3)

 一方、神の土穴のなかのこと。石媛は、ひどく息苦しかった。


 身体がふくれあがっていく気分で、自分の気配ごと、まるごとなにかに重なっていくような。足元を離れて去っていたはずの影が戻ってきたような――。


「セイレン――」


 つぶやいたのは、双子の妹の名だ。


 足元を見下ろしても、そこに影はなかった。石媛がいた場所が、陽の光が入らない暗闇だったからだ。


(胸騒ぎがする。とてもうるさい。胸が高鳴っている。なんだろう……)


 こうして神の土穴に閉じ込められてから、ひと月近くになる。


 一日の大半を光が入らない場所で過ごす暮らしをしていると、暗闇に目が慣れてくる。


 前は真っ暗でろくに物が見えないと思っていたけれど、そうでもないと感じるようになったし、感覚が研ぎ澄まされていくようで、匂いや音、指先の感覚や、気配に敏くなった気がした。


 神の土穴という名のすこし湿った暗闇のなかで、石媛の侍女として一緒に暮らしたフナツは、生まれつき目が見えないめしいだった。暗闇で暮らしていると、フナツの感覚がもともと研ぎ澄まされていたこともよくわかった。


 目を頼りに動こうとする石媛にはとうてい真似ができないほどで、フナツは食事が置かれた場所をやすやす探しあてたり、石媛の手元まで運んだりもできる。


 いま、石媛が感じた胸騒ぎも、フナツのほうが強く感じたらしい。


「おかしい、妙な――」


 フナツが気にしたのは、祠の真奥にある岩の裂け目あたりだった。腰掛けにするのにちょうどいい大きさの岩があって、その岩は、この祠――いや、土雲の里のなかでもっとも大切に扱うべき、聖なる母の石とされていた。


 その岩は、大地の神が染み出てくる岩の裂け目の正面に置かれていたし、神がこの祠にお出ましになった時の腰掛けになるのも、その岩。


 フナツは祠の奥をしきりに気にしていたが、石媛が気になったのは祠の外だった。出口をふさぐ厚織りの布越しに、淡い光がやんわりと染みている。薦布の向こう側には、昼間がきていた。


 光だ――そう思うと、石媛が思い描くのは、雄日子という名の青年の顔だ。


 その青年に出会ったのは、爽やかな陽射しが天から降りそそぐ緑の森のなかで、目が合うと、青年は石媛を向いて微笑んだ。その時の笑顔――。


 あの美しい人についていけるなら、禁を犯してもかまわないと、心のままに従ったことも思い出す。


 そうやって思い出に浸るのが、いまはただ一つの楽しみだった。


「きます――石媛様、隠れて」


 いつになくフナツの声が張っている。そればかりでなく、暗闇のなかで器用に石媛の居場所を見つけて、ぐいっと手をひいた。


 フナツは石媛を自分の背中にかくまおうとしたが、そのようにフナツに守られたことがはじめてだったので、石媛は目をしばたかせた。


 そのすぐ後のこと。石媛も「きた」と、暗闇の奥に目を向けた。


 神の土穴の奥にある岩の裂け目に、黒い煙が集まっていた。


 地面の底のいたるところから湧きあがったものが、たった一つの抜け穴を探して立ち昇って、結びついていくようだった。


 散らばっていたものがうまいことひとつにまとまると、地面の深い底から湧きあがった気配は、岩の裂け目を伝って抜け出てくる。


 それが、大地の神を名乗る青年の来訪の合図だと、石媛はもう覚えていた。いまがはじめてのことでもない。でも、いつもと同じことが起きようとしているのに、フナツはみずからの身を挺して石媛を守ろうとする。


 どうして――なにか、まずいのだろうか。


 理由がわかったのは、岩の裂け目から黒の煙がすべて出きって、青年の姿をつくりあげた後だった。


 いつものように、暗闇の奥に、青年が降り立った。青年は足首までを覆う袴姿をしていて、背中まで下りた黒髪には小さな飾りが八つほどついている。


 しかし、様子がおかしい。いつもなら、岩屋のなかに石媛が大人しく座っているのを見つけると、いくらか愉快げに目を細めてそばに寄ってくるのだが、いまは目もくれない。


 それに、気配も違う。黒い炎か無数の黒蛇を身にまとっているふうで、目に見えない牙で噛みついてくるようだった。フナツはその、目に見えない牙から石媛を庇おうとしていた。


 青年は激怒していた。姿を現してすぐに、石媛とフナツの前を横切っていく。


「おのれ、あいつがいる……」


(あいつ……?)


 青年は早々に祠の入口をふさぐ薦布を跳ねのけて出ていくので、土穴のなかにはすぐに静けさが戻る。


 あとに残されたのは、石媛を庇おうと両手をひろげたフナツと、その後ろでしゃがみこむ石媛。フナツは、石媛を背中に庇ったまま動こうとしなかった。


 物を見ないくせに、フナツの目は祠の入口を見つめている。フナツの目に、涙が浮かんだ。


「石媛様、今日は恐ろしいことが起きるかもしれません」


「恐ろしいこと?」


 フナツが脅えるのも、石媛を守るような仕草をするのもはじめてのことだったし、涙を流すところなどをみるのも、もちろんはじめてのことだ。


 なにをそんなに――と石媛はふしぎに思った。


 青年が跳ねのけてしまったせいで、入口をふさぐ布はよじれていて、暗がりだった岩屋には陽の光が射しこみ、明るい外の景色が覗いている。石媛のほうは不安などいっさい感じておらず、久しぶりに外の景色を眺めることができたせいか、胸がすっと晴れた心地もしていた。

 

「石媛様、そこに、まだ人がいます」


「人?」


 フナツの細い指が向いた先――薦がめくれあがった入口の奥に目をこらした時。陽の光が溢れた隙間に、人の顔が現れた。背の低い子どもが、ちょこんと顔を出している。


 六つくらいだろうか。痩せていて、目の色は白みがかった灰色。光を感じることができないのか、顔は石媛とフナツのほうを向いているが、瞳はどこかべつの虚空を向いている。


 岩屋のなかを覗いて、子どもはにこりと笑った。


「フナツ……フナツでしょ?」


 次いで現れたのは、背の高い青年。しっかり鍛えられた武人の身体に、色みのすくない白の衣装を身につけている。気に掛かることでもあるのか、しきりに岩屋の外を振り返っていた。


「チトネのやつ、さっきの黒いやつを追いかけていっちまったぞ……。もう、どうなっても知らねえからな。こっちはこっちですることがあるんだし――」


 ぶつぶつと言い訳をするようにいってから、青年は、先に土穴に足を踏み入れた子どもの後を追って、岩屋に入ってくる。


 子どもはまっすぐにフナツのそばに寄って、目がみえない者同士の挨拶をかわすように、小さな手でフナツの細い手首に触れている。


「フナツ。僕はツツ。この前、話した」


 ツツと名乗った子どもの後ろに、青年もやってくる。青年はフナツのそばに片膝をついた。


「あんたがフナツか? セイレンが迎えに来てるんだ。一緒にきてくれ」


 青年が意志を問うことはなく、いうがはやいかフナツの手をとって抱き上げようとした。


「セイレン様が――お待ちを、あなたは……」


 身体を掴まれるとフナツは暴れたので、青年は「悪い悪い」といって、名乗った。


「おれの名は藍十っていって、セイレンの――なんていうか、仲間かな。兄貴みたいな感じで、よく世話を焼いてるよ。あんたはセイレンの育ての親なんだろう? あんたが岩屋に閉じ込められたってきいて、セイレンが落ち込んでて、それで、助けにきたんだ。もういいだろ? つれていかせてくれよ」


 藍十と名乗った青年は人が良さそうににこりと笑って、フナツをいいくるめてしまう。


 フナツが抵抗しなくなると、次に藍十は石媛のほうを向いた。


「で、あんたのほうは石媛? セイレンの双子の姉上かな」


 突然のことが続いてぼんやりしていたが、問われるままに、石媛は「はい、そうです」とうなずいた。


 藍十は苦笑した。


「へえ、本当に双子なんだ。セイレンとそっくりだな。――で、あんたもここから出たいか? その、セイレンは、あなたは一族のお姫様だから、いくかいかないかはあなたにきいてくれって――雄日子様のところにくるなら一緒につれていくけど、どうする?」


(雄日子様?)


 石媛は夢中でこたえた。


「はい、いきます」


「そうか。じゃあいこう。急ぐよ。あんたは走れる? フナツは目が見えないから、走るなら運んでやってくれってセイレンからきいてるんだけど――」


 藍十はもうフナツを背負っていた。


 走りやすい姿勢を探しつつ、藍十は何度かフナツを背負い直す。


 そのあいだに岩屋の奥のほうになにかを見つけたようで、動きを止めた。その時、藍十の目が向いていたのは、神の土穴の真奥。地の底まで続く岩の裂け目の前に置かれた、大岩だった。


「あれ……なんだ。もしかして、セイレンがもってる、あの箱の飾りか」


 その岩は、岩屋でもっとも大切に扱われるべき、聖なる母の石だ。


 その大岩の表面には、十近い数の出っ張りがある。


 岩の栄養をいただいて生まれ出た茸が群れるようにも見えるが、いずれも石で、形は角ばっていたけれど、表面には小さな凹凸や穴が無数に空いている。


 色は岩と同じ黒色をしているので、大岩が生んだ子どもか、種のようにも見えた。


 形はどれも似ていたが、大きさは違う。ほんの生まれたてという小さなものから、紐をとおして首にかけるとちょうどいい飾りになる大きさのものまで、さまざまある。


 その岩が目に入ると、石媛はすこし迷った。


 ここを出るべきか、ここに留まるべきか――。


 その岩は、土雲の民を守る聖なる石だ。〈雲神様の箱〉を生み出す母の岩で、代々の土雲媛が守り続けてきたものだった。


「これは――」


 土雲の民、一人ひとりのために〈雲神様の箱〉を生み落とす聖なる母の石は、大地の神の加護を与える母神のようなものだ。


 いずれ土雲媛を継いだ後は、おまえもこの母の石を守るのだと、石媛は幼い頃からよくきかされていたし、そうなるべきだと覚悟もしていた。


 でも、いま石媛は、その役目を捨て去ってもここから出たかった。どうしても、この湿った暗がりを出て、前に森で出会った雄日子という青年に会いにいきたかった。


「これは――〈雲神様の箱〉という神具を生み出す岩で、私たちがずっと守ってきたものです。土雲の里に子どもが一人生まれるたびに、一つずつ実がなるように〈箱〉が生まれて、十年かけて育って大きくなり、やがては箱飾りになって、子どもが十になった時にその子の手に渡るのです。その子に、雲の神様の加護があるように。でも――」


 ぽかんと目をみひらいた藍十を見上げて、いった。


「いきます」


 言葉を口に出して心を決めた時、石媛の身体の真ん中あたりがふわりと疼いた。いつかも感じた――。そう感じる疼きで、気がついた時、石媛の指は胸元にさがった〈雲神様の箱〉に触れていた。


 

 おいきなさい。

 怯んではいけない。

 前へ進みなさい。

 私が助けてあげるから――。


 

 空耳か、見知らぬ神の啓示か。胸が高鳴るような胸騒ぎが、急にふくらんだ突風のように身の内に渦巻いた。


 だから、石媛は笑顔になって、藍十の顔を見上げた。


「お願いします。私を連れ出してください」


 

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