天と土の霊しきもの (2)


「雄日子が〈箱〉で襲われるかもしれない。どうしよう――」


「いいから落ち着け、な?」


 藍十の手はぎりぎりと肩を掴んでくるが、セイレンはかえって大声を出した。


「落ち着けないよ。いまそいつが運んでたやつは、ひと吹きで百人殺せる薬だよ。いくら雄日子でもあんなものを吹かれたら生きていられないし、赤大あかおおとか日鷹ひたかとか……あいつらだったらひと息で死ぬよ。藍十だって、地下に入り込んだ時はすこし息を吸っただけで倒れたじゃないかよ!」


「落ち着け、いいから!」


 小声だったが、藍十の声は叱りつけるようだった。


 剣幕におされてようやく口を閉じると、正面にある藍十の目が、思いきり睨んでくる。


 黙れ、落ち着け――。


 藍十の目は、そういっていた。


 一度、藍十は目を細めた。なにかを迷うような――みずからにも「落ち着け」といい聞かせるような仕草だ。


 鳥が羽音を響かせて空に飛び立っていったり、人が大勢駆け回るような気配がしたり、里の入口があるあたりで起きた騒ぎは、おさまることなく続いている。


 しばらく経ってから、藍十は口をひらいた。


「おまえがいったら、その〈箱〉から、雄日子様を助けられるのか」


「――わからない。わたしも死ぬかもしれないから。でも、雄日子と一緒にここにきた奴のなかじゃ、わたしが一番〈箱〉にくわしいだろう? この里のことだって――登るのが一番らくな道を教えたのはわたしだったし、気をつけなきゃいけないことだって、わたしがみんなに教えただろう?」


 藍十は息を飲むように黙った。暗い表情をした。


「そうだ。ここにおれたちがこられたのは、みんなおまえのおかげだった。……なら、おまえは雄日子様のところにいくか。――ツツはその女の居場所がわかるっていってるし、その女はおれが助け出してやる。だから、おまえは、雄日子様を守るほうにいくか」


 つばを飲みながら、セイレンはじわりとうなずいた。


「――いく」


 藍十の手は、まだ離れなかった。


 藍十はそれまでよりも厳しく追及する目をして、真正面から睨んでくる。


「なあ――こたえてくれ。おまえにとって雄日子様はなんだ」


「突然なんだよ。どうしたの」


「いいからこたえろ。おまえにとって雄日子様はなんだ」


 なぜいま、そんなことを訊くのか。奇妙には思った。


 でも、藍十の目は真剣だったし、両肩を掴んでくる手も痛いほどだ。それに、藍十のほうもなにかを迷っているふうだ。


 だから、思ったままをこたえた。


「――雄日子は、守らなくちゃいけない人だ。あの人がいなかったら、とても大きなものが守れなくなるから。あの人は、ほかの誰にもできないことを代わりにやってくれる人だから、守らなくちゃいけない人だ」


「自分の命に代えても守れるか」


「死ぬ気はないけど……ぎりぎりまではやる気だよ。藍十もそうでしょう? あぶなくても、死んでしまう気はないでしょう」


 藍十は前に、一人で騎馬軍に立ち向かったことがある。


 でも、その時も、藍十に負けてやる気はなかったはずだ。藍十にとっては一番生き残りやすい方法を見つけて、試しただけだったはずだ。


 藍十の表情がわずかにゆるんだ。


「わかった。なら、おれと同じだ。――いいか。おれは、雄日子様のためなら命を賭けられる。おれと同じように思って雄日子様を守りたい奴も大勢いる。それを覚えていてくれ」


 どうしていまそんなことをいうのだと、奇妙に思う部分はぬぐえない。


「わかってるつもりだよ?」


 はじめ、雄日子を優しくない、嫌な男だと感じていた頃にはわからなかったけれど、いまは「あの男は守られなければいけない」と理解したつもりだった。


 藍十が眉をひそめて笑った。


 肩を掴んでいた手も、離れていった。


「じゃあ、いけ。雄日子様を守ってくれ。頼んだ」


「わかったよ――じゃあ、ごめん。ツツ、藍十をお願いね。フナツのところに連れていってあげて」


 離れ間際にツツに顔を向けると、ツツは笑っていた。


「大丈夫。セレンが、こっちだよって」


 ツツの、ものを見ない目は虚空を向いている。その目は愉快そうに細められていた。


「楽しい。うれしい。セレンがここにいるの」






 茂みの裏に藍十たちを残して、セイレンは集落の内側へと躍り出た。


 しばらく離れていたとはいえ、十五になるまで暮らした里だ。


 どこになにがあるのかも、人の目につかずに門に回るにはどこをとおればいいかも、身体は覚えている。


 家を一軒越え、二軒越え、倉を過ぎ、道を横切って草園を抜け――走っていると、ちょうど飼い熊の檻のそばを抜けたあたりで、見覚えのある里者に出会った。


 男が二人いて、セイレンと同じ方角――里の門に向かって駆けているところだ。


 男は身構えて、大声を出した。


「災いの子だ……やはりおまえもここに――」


 二人の男は腕をふりあげて、走り込んだセイレンを力づくで阻もうとした。でも、その動きの雑なこと。男の力を振りかざしたところで、その腕が動くはずの道筋はかんたんに読めたので、難なくよけられた。


 男はセイレンを引っ叩こうと腕を振り上げたが、腕が上にあがったぶん戻ってくるまでに時間がかかるということも、腹のあたりが空くのも予想がついた。


 腕をよけるなり、セイレンは膝で腹を蹴りあげる。


 もう一人の男も同じように腕を振り上げたので、脇腹に踵を打ち込むと、二人は相次いで地面に倒れる。


 すぐに吹き矢を吹いて痺れさせたが、出くわしてから男二人が倒れるまでは、三つか四つ数える程度。


 あっというまの出来事で、セイレンのほうが驚いた。


「そっか――こいつら、藍十とか赤大よりも弱いんだ……藍十すごい、赤大もすごい」


 この数か月のあいだに稽古をつけてくれた二人に感謝を唱えつつ、走り出す。


 これなら、土雲の里で一番戦うのがうまいといわれていた男、ハルフが相手でもどうにかなりそうだ。


 勝てると思うと、自信も湧く。すこしでも早くと、駆け足も早くなる。


(雄日子のところにいかなくちゃ)


 それしか、頭になかった。






 駆けていると、しだいに里の様子がおかしいことに気づいた。


 家にも館にも里者の気配がなく、走っているのを時おり見かける程度。それも、みんな同じ方向――門の方角へと向かっている。


 もう一つおかしいこともあった。


 里には火がついていた。この家は誰の家、この家はあいつが住む家と、どの家を見ても、そこに暮らす連中の顔を思い出すことができた。


 でもいま、その家々には赤い炎がついている。


 土雲の家は細い木を集めてつくられるので、火がつくとあっというまに燃える。かまどのまわりの壁や屋根には火移りを防ぐ薬汁を塗るが、そのほかの部分は火に弱かった。火の勢いが強かったのか、壁一面が黒焦げになっている家もあった。


(火をつけさせたのは赤大かな)


 前に、賀茂かもという宮で敵に囲まれた時のことを思い出した。


(土雲が戦おうとしたから応戦したのかな。応戦って……戦うってなんだよ。土雲は〈箱〉をもってんだぞ。あんな奴らと戦ったら、赤大たちがどれだけ矢を撃ったってすぐに殺される)


 ますます早くと足が動いた。


 火がついた里のなかを大きな歩幅で駆け続けると、ようやく果てのほうに見慣れた一団を見つける。


 馬を下りたのか、雄日子を守る百人の武人たちは、全員地に足をつけて立っていた。


 武人の群れは誰もかれも、大きな弓矢をかまえている。


 群れの前のほうに赤大あかおお角鹿つぬががいて、雄日子も二人のそばにいた。


 近づいていくあいだにも、ひゅんっ、ひゅんっと音がして、矢が放たれる。


 矢を放ったのは雄日子の背後にいる武人で、その矢の先にあるのは土雲の家々。矢には火がついていたので、火矢があたった場所から、その家もまた燃えていく。


 火矢が放たれた先は家だけではなかった。集落の周りに広がる森にも向けられていて、長雨の季節で風も森も湿っているはずなのに、火がつくと面白いように燃え上がる。火はまるで生き物のようにふくらんで、大木の緑の葉を炎の色に塗り替えていく。


 ごう……と、風が唸っていた。火に温められて風が生まれて、土雲の里は、下から上に向かって吹く風に覆われていた。


 雄日子を守らなくちゃ――と、駆けてきたけれど、雄日子はそれほど危機に瀕していなかった。


 むしろ、雄日子のほうが土雲の一族を攻めていた。


 炎が家を焼く音がぱちぱちと響いている。


 黒い煙と白い煙が混じって青空へ昇っていき、時おり、どん……と大きな音が鳴る。焼けた梁が落ちて、柱が倒れる音だ。


 雄日子が連れてきた武人たちの両脇にも、大きな焚火ができていた。


 目の前で焼け落ちていく家ほどの大きさがある焚き台で、炎の後ろに回った武人が、懸命に焚き木を足している。そばには牙王がいて、祈りの文句を捧げていた。


 牙王の声に操られるように、火は烈しく燃え盛った。めらめらと揺らめく炎は風も空気も焦がして、上へと昇る風をつくっていた。


(風が、ない)


 はっと気づいた。いま雄日子の周りには、地から天へと昇っていく上向きの風しかなかった。


 里にも森にも火がついていて、燃え盛っている。雄日子の軍の両側にも焚き台がつくられて、巨大な炎が天を焦がす生き物のようにうねっている。


 こわごわと目を向けてみると、雄日子の視線の先には土雲の里者がみんな集まっていて、口に〈箱〉をかまえていた。


 たぶん、土雲は雄日子を追い払おうと、山魚様のうろこの薬を使ったのだ。でも、雄日子の周りは炎の熱と天へと立ち昇る風で囲まれている。


(雲が、炎に消されてる――。雲が効いていない)


 怖くなって、頭上を振り仰いだ。真上には鷹が三羽いた。


 炎の熱が起こした風に、こっちへおいでと手招きをするように、三羽の鷹は同じ場所ばかりをぐるぐると旋回している。


斯馬しばだ……)


 その鷹のなかにいる男は斯馬だと、行き道に雄日子は話していた。


 雄日子は炎のなかに立っていて、誰かに微笑みかけていた。雄日子の笑顔の先にいたのは、土雲媛。土雲媛は、ハルフやセイレンの母の土媛、それに、すべての里者が身を寄せ合ってうずくまる人の群れの真正面にいて、雄日子を睨みつけている。


 土雲媛は相手をとり殺すように顔を歪めていたが、その正面に雄日子は悠然と立ち、笑みを浮かべていた。


「武具を捨てろ。僕に仕えると誓えば、命は助けてやる。従わないのなら、皆殺しにする。――そなたらのようなふしぎな一族が僕の都のそばにいると思うと、とても怖いのだ」


 雄日子の声は張り上げるようではなかったけれど、セイレンの耳に突き刺さるように届いた。


 その時セイレンは、雄日子と対峙する土雲媛や、睨み合った護衛軍と土雲の一族を一望できる、すこし離れた場所にいた。


 一度、雄日子はセイレンに気づいて、目を向けた。


 すぐに土雲媛のほうを向き直したので、目が合ったのはほんのわずかなあいだだったが。その時、雄日子は苦笑していた。


 「おまえならわかるだろう?」と諭された気もしたし、「怒るなよ」と頼まれた気もしたし、「わかったなら、おまえも僕に従え」とおさえつけられた気もした。


 ふいに、藍十の顔が目の裏に蘇った。ここしばらく藍十の態度がおかしかった理由にも気づいた。


(あいつ、知ってたな――)


 たぶん、知らなかったのは自分だけだ。


 きっと今回のことは、セイレンがフナツを助けにいきたいと願ったことはきっかけでしかなくて、雄日子の狙いは、土雲の里を焼くことだった。


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