王の妻問い (1)
大津の宮での滞在を終えると、雄日子の軍は二手に分かれた。
雄日子は予定どおりに高島を目指し、
荒籠が向かった先は、
雄日子は、美濃からさらに川を下るようにも命じていた。
「美濃の王に話をつけて、いけそうなら
雄日子が命じるのを目の前できいて、セイレンは思った。
(守り人か。どんな人なんだろう)
雄日子には、七人の守り人がいるらしい。
息長も、その先にある美濃も尾治も、とても遠い場所だ。
でも、荒籠は微笑んで頭を下げた。
「御意」
大津の宮を先に出たのは、雄日子の一行だった。
湖に沿って北上する雄日子たちを、荒籠たちは門の前で見送っている。
しばらく道を進んでから振り返ると、荒籠たち馬飼が、それぞれの馬にまたがって真逆の方角へ向かうのが見えた。
息長の都へ馬でいくには湖をぐるりと回っていかなければいけないそうで、その次に向かう美濃という国などは、息長の地からさらに奥地、山深い場所へ進まなければいけないと、セイレンは藍十からきいていた。
振り返ってばかりいると隣を進む藍十にからかわれるので、ふくれて前を向いたが。
「お、セイレン。荒籠様が遠くにいかれて寂しいなあ」
「それは寂しいよ。人が減るんだもん」
大津に入ってからも、道行きはのんびりしている。
大津から高島までは、すべて雄日子の手が及んだ域なのだという。
「それだけじゃないよ。
藍十がそういうので、淡海という湖を眺めてみるが――。道の東側に広がる大きな湖は、
湖に沿って道は彼方まで続いていたし、対岸には、荒籠が向かった息長一族の都だけでなく、数多くの里や船着き場が見えていた。湖上には、数えきれないほどの舟が浮いている。
いつどこに敵がひそんでいるかもしれない山背や
一緒に歩く武人たちも、懐かしい故郷の風景に口元をほころばせている。
ただ、雄日子の周りだけが慌ただしい。
ひと組目が離れていったらまた次の客が――と、次々やってくる貴人たちに笑顔を向ける雄日子の後ろ姿を眺めて、藍十が苦笑した。
「忙しそうだなあ――荒籠様が隣にいた時もずっと話しておられたけど、あの時はいまよりずっと楽しそうにされていたよなあ」
「そうだね……」
セイレンも同じ印象をもった。
荒籠といた時の雄日子は、もうすこし愉快そうに笑っていた気がした。
大津の宮を発ってはじめの休息地は、湖を眺められる浜だった。
冷たい水が湧く泉があって、そこで喉を潤すことができる。
大津から高島までは、そう長い旅ではない。
高島の宮にたどりついてしまえば雄日子はいまよりずっと忙しくなるだろうし、話すならいまだと、セイレンは雄日子のもとに向かうことにした。
チトネとツツも、一緒に大津を旅立って軍にまぎれている。高島にいけば、故郷の山も近くなる。高島についたら故郷に帰る暇がほしいと、早く頼んでおかなければいけなかった。
雄日子は、砂浜の隅に立つ桂の大樹の下にいた。
長雨の時季で蒸し暑い日だったが、大樹の下には大きな影ができていて、わりに涼しい風が吹いている。
雄日子は幹にもたれて休んでいて、風を浴びるようにぼんやりしていた。
寝る時にも必ず守り人を枕元に座らせるほどなので、ふだんなら休息時にも雄日子の周りから人が消えることはないから、大樹の下に一人でいるのは、そのようにしろと雄日子が命じたからかもしれない。
その証拠に、赤大はセイレンが近づこうとするとすぐに顔を上げて、渋顔をした。
気づくのが早かったのは、雄日子を見守っていたせいだ。渋面をしたのも、近づいてはいけないと制しているからだ。
目が合うと、赤大はうなずいた。仕草は、「ああそうだ。雄日子様をお一人にしてさしあげろ」といわんばかり。
(仕方ない。また今度……)
いまは近づけないと踵を返そうとした時、雄日子の顔があがって、セイレンを向いた。
「どうした」
ぼんやりしていたが、笑っている。
ひっきりなしにやってくる客の相手をして疲れているはずだが、雄日子はいつもどおりに笑っていた。
「うん、ちょっと話があって――」
咎められなかったことをいいことに、赤大に遠慮しつつ、セイレンも大樹の陰に入って膝をつく。
雄日子は幹に背中を預けて両足を投げ出していた。
雄日子と目の高さを合わせると、ちょうど湖の様子がよくみえる。
陽の光がすくない曇り空のもと、湖の水面はにぶい鼠色に濁っていて、水上を行き来する舟の帆の白さもどことなく翳っていた。
水底を泳ぐ魚を追って、水面に近い
湖上の風景を振り返った後で雄日子の微笑を見やると、セイレンの唇からため息がもれた。
そうか、この男は、この水景を眺めていたんだ。移動の合間も、自分の領地の様子をたしかめていたんだ。この男に休みはないのだなあ――そう思うと。
「あの、前に話したことなんだけど――」
「あぁ、うん」
雄日子はあいづちを打ったが、いつもより受け答えがぼんやりしている。
だから、気が引けた。
「ごめん、また来るよ。忙しいんだろう? わたしならいつでもいいから」
「いや――」
雄日子は投げ出していた足をゆっくり引き寄せて、あぐらをかく。座り直したのは、話をきく姿勢をとったからだ。
「おまえの育ての親を助けにいく話だろう。いまでいいよ。そのことなら、ずっと考えていた」
「そうなの?」
驚いた。毎日大勢と話して、やらなければいけないことは山積みのはずなのに、自分がした些細な話を覚えていてくれたとは、思わなかった。
「……ごめん、忙しそうなのに――ありがとう」
「ああ、どうしようかと迷っていて――」
「それは、迷うよね。わたしだけじゃなくて、いろんな人があなたにお願いをしにきているんでしょう? みんなの願いをかなえなくちゃいけないのに、わたしのお願いなんか――」
育ての親を助けにいきたいから助けてくれ――なんて、とても身勝手な相談だ。
これ以上この男に考えさせて、疲れさせるわけにはいかないとも思う。
「あのね、すこしだけあなたのそばを離れてもいい? 一緒にいってくれる人を見つけたから、どうにかなりそうなんだ。でも――もしできれば、藍十を連れていってもいいかな。藍十に手伝ってもらえると助かるんだけど……」
おずおずというと、雄日子は「いや――」と首を横に振った。
「高島に戻ったら、僕も一緒にいこうか。百人連れていくよ」
「え――百人?」
はじめに話した時も、たしか雄日子は「百人の武人と一緒にいこうか」といったが、それは、その時に雄日子がいった案のなかでも一番手がかかる方法だ。
雄日子はまだ悩んでいるふうで、しばらく黙ってから話を続けた。
「そうだな――正面から入って、おまえの姉上に妻問いすることにしようか。もともと、僕がはじめに山を登った時に差し出せと頼んだのはおまえの姉上だった。僕がもう一度同じことをすれば、向こうも、僕がおまえの育ての親を連れ出しにきたとは疑わないだろう。僕がしばらく目をひくから、そのあいだにおまえは藍十を連れて、育ての親と姉上を助け出せ。うまくいけば、そのまま帰ればいい」
「あの……」
驚いて、胸がつまりそうだった。
百人連れて、正面から入って、雄日子がみずから目をひいて、そのあいだに藍十と――と、かなり細かいところまで考えていたらしい。
自分が頼んだことのくせに、セイレンはそこまで考えていなかったというのに。
涙が込み上げそうになるのをこらえながら、「ありがとう……」といった。
「あの――妻問いってなに?」
「娘を僕に仕えさせろと命じることだ」
「土雲媛が『うん』っていったら、わたしと石媛を取り替える?」
意味がわからないなりに、そういうことが起きたらどうしようと不安になる。
しょんぼりと眉山を寄せたセイレンに、雄日子は笑った。
「まさか。注意を逸らすための嘘だ。そういう顔をするな。ただ……」
雄日子はそこで言葉を飲んだ。笑顔も消えて、呆けたような真顔になる。
セイレンはまた驚いた。
雄日子はいつも笑っている男だ。この男から笑顔が消えるのは、誰に気をつかうこともなく落ち着いている時か、余裕がなくなった時だろうと思っていたのだが。
「どうしたの……」
セイレンのほうが不安になる。
雄日子は我に返ったように目をしばたかせて、くすりと笑った。
「セイレン、いまの暮らしは楽しいか」
「楽しいよ。――っていうか、それ、やたらと何回も訊くよね」
「まあな。おまえがここにいる理由はそれしかないと思っているからな」
雄日子は一度、ははと笑う。しばらく愉快げに笑っていたけれど、やがて目元から力が薄れゆき、すこし気が抜けた笑顔になった。
「荒籠がいなくて寂しいな」
「だから、なんで荒籠」
「あいつがここにいたら、僕のもとで暮らすのがもっと楽しいだろう」
「べつに――どうしたの? 今日はへんなことばかりいうね」
雄日子はそれにこたえなかった。
「おいで」
そういって右腕をかかげるので、いわれるままに姿勢を低くして雄日子の手が届く場所まで近寄ると、かかげられた右手が、頭の後ろに添えられる。そのまま、雄日子の肩のあたりに抱き寄せられた。
目をぱちくりとさせた。いったいなんだこれは――とも思う。
頬が雄日子の肩に乗って、額のあたりは雄日子の頬に触れている。自分の髪が、雄日子の耳元できれいに結われた黒髪をつぶすほどきゅっと当たっているのも感じた。
セイレンの顔を自分の肩に乗せたまま、雄日子はセイレンの髪を軽く撫でて、自分のもとに寄せていた手のひらから力を抜いていった。
セイレンの顔を首元から離したものの、とても近い場所にとどめて、じっと見つめている。雄日子の右の手のひらはまだセイレンの頭の後ろにあったし、セイレンを見つめる顔はぼんやりした笑顔のままだ。
頭の後ろ側から親指がそっと伸びてきて、耳のふちを撫でて、そうかと思えば頬に伸びる。弧を描くように頬をなぞっていく親指の腹がくすぐったくて、セイレンは頬をぴくりとさせて首を引っ込めようとした。
「なに」
文句をいうと、頬にあった親指は離れていく。
「さあな。――話は済んだ。もういっていいよ」
頭の後ろを押さえられていた手も離れていき、虚空をとおって、いつのまにか雄日子の腰のあたり――草の上に降りていた。
手のひらの行方を追ってから、もう一度目を合わせた。
雄日子はぼんやり笑っていたけれど、さっきまでとすこし違った。
目がどこか遠い場所を向いているような、腹の内側が見えないような、硬い表情をしていた。
それで、セイレンはふしぎに思った。
雄日子はもともと優しくもないし、腹でなにを考えているのかがわかりにくい男だ。
でもいま、「見えないな」と思ったということは、これまでは見えていたのかなと、かえってそれに驚いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます