土雲の招き (3)

「それは……勝手なことをいってごめん、そうじゃないかもしれない。わたしがそう思っているだけかもしれない――とりあえず、石媛のせいなのは間違いないよ。石媛が土雲媛の宝珠を手放したせいだ」


 雄日子はくすくす笑っていた。


「なら、戻ったら忍び込めるか。暇をやろうか」


「一人じゃ――」


「なら、藍十が一緒だったら? 藍十は、僕が飲んだのと同じものを身体に入れたから、おまえの里にいけるんだろう?」


「藍十か。そうだね、藍十がいれば一人よりも心強いけど……」


「それか、僕が一緒だったら? 三人もいれば、どうにかなるか?」


 思わず、雄日子の微笑を見つめ返した。素っ頓狂な声も出ていった。


「えっ――」


「それとも、百人くらいの武人の群れでいこうか。たしか、もう山の毒気は薄れてきているのだろう? 前に、僕が山に登れたのはそのせいだと、おまえはいっていただろう。それなら、僕や藍十のほかも、おまえの里にいけるだろう」


 驚きすぎて、言葉がなくなった。ぽかんと口をあける。


「あの……」


「できるかどうかはまだわからないが、手を貸してやりたいとは思った。すこし考えてみるから、待っていなさい」


 雄日子はのんびりと笑っていたけれど、その笑顔はぼやけて見えていく。


 目頭が熱くなって、みるみる涙がこみ上げていた。



 助けてくれるの? 手を貸してくれるの? 

 あなたは忙しいし、とても大きなものを守らなくちゃいけないのに、そんなことができるの? 

 できないかもしれないけれど、手を貸したいと思ってくれたの?



 いろいろと想いが渦巻いて、言葉にならなかった。


 涙がこぼれそうになる寸前の顔で唇をふるわせていると、雄日子が吹き出した。


「とてもかわいい」


 笑われると、やっぱりさっきの話は本当だったのだとほっとする。すると、胸の底に妙な気持ちが疼いた。


 ありがとう――と身体中で思っているし、本当にうれしかったから、せめてこの気持ちを伝えなくちゃと思う。


 でも、ただ「ありがとう」というだけでは足りないと思ったし、そうかといって、うまい言葉がすんなり見つかるほど、セイレンはお礼をいうのに慣れていなかった。


 でも、伝えないわけにはいかないし、黙っている間に時は過ぎていくし――困った、早くしないと――と焦りばかりが募る。


 どうしよう、どうしようとそわそわしていると、雄日子が笑うのをやめて、セイレンの胸元に目をやった。


 いつのまにか両手が上がっていて、雄日子の胸をいまにも突きそうな高さにかまえていたせいだ。


「なんだ、その手は」


「えっ?」


 いわれて、はじめて気づいた。


 胸の高さにかまえた両手は、掴みかかるように指がひらかれていた。手元を見下ろしてから、次に目が向いた先は、雄日子の胸元。衣越しにもよく鍛えられたししが張って見える胸が、やたらと丈夫そうで、温かそうにも見えて、そこに両手をついて押しやってしまいたい、と妙に胸がむず痒い。


「その、飛びつきたいなあと思って……」


 雄日子はしばらくセイレンの手を見下ろしていたが、ははっと声を出した。


 しばらく息を詰まらせるように笑った後で、雄日子は両腕をひらいていって、胸元をあけた。


「どうぞ」


 許してもらったらしい。


 ならば、と、じわじわ両手を押し出してみたが、寝具の上であぐらをかく雄日子とはすこし離れていたので、肘を伸ばしきっても手のひらは胸に届かなかった。


 だから、膝をついて、そろそろとにじり寄った。膝が敷布の上に乗ると、さらり、ざらりと、膝頭が布と擦れ合う音が鳴る。数歩進んで、雄日子の脛のあたりに膝が触れそうになるまで近寄った。


 かなり近づいたので、そこで両手を伸ばせば、手のひらは雄日子の胸に触れるはずだ。でも、どうも踏ん切りがつかない。


 両手をかまえたままじっとしていると、また雄日子に笑われる。


「おまえは本当に小さな獣みたいだな。どうぞ? 飛びつきたいなら飛びついてくればいい」


 ここまできたんだから――と、雄日子は肩を揺らして笑っている。


 まあ、たしかにそのとおりだ。ここまで近寄ったのだから――と思いきって両腕を伸ばしてみた。


 前にも、混乱に任せて藍十の胸をどんと突き飛ばしたことがあった。いまも同じようになるだろうと思ったのに、突き出した手のひらは胸を逸れて、背中の向こう側にいこうとした。


 昔、小さな頃にフナツに抱きついた時のように雄日子の胸に頬をくっつけていて、そこに頬が触れたと思うなり、優しい壁に包まれたと安堵した。


 こんなふうに男に抱きついたのなど、はじめてだ。


 戸惑いはあったけれど、抱きついてしまうと、「ありがとう」という気持ちがよみがえってくる。身体の中から溢れ出て、ふるえが来るくらいだ。目が潤んで、嗚咽もこみあげた。


「ありがとう、雄日子。ありがとう……」


 小声でつぶやくのがやっとで、これでは足りないと、背中に回した腕にぎゅっと力を入れた。


「べつに――おまえの望みならかなえばいいと思っただけだ。おまえには樟葉くずはで戦を手伝ってもらったし、かなえるすべがないわけでもないと思ったし――」


 とても近い場所から、雄日子の声が降ってくる。

 

 ふと、頭のうしろのほうに温かいものが触れた。雄日子の手のひらが添えられていて、その手はさらりと一度髪を撫でて、離れていった。


「なら、こうしようか。もしもおまえの大事な女を助けられたなら、その後はずっと守り人として僕を守ってくれるか。それなら、僕にも手伝う理由ができるし、おまえもそれくらいのほうがあとくされがなくていいだろう」


 そんなわけにはいかないと思って、驚いた。


「わたしはあなたの守り人だよ? あなたは偉い人じゃないかよ。あなたに助けてもらうお礼がそれじゃ、足りないよ。だって――」


 雄日子の守り人でいたいと思っているから、ここにい続けるのは自分の望みでもあるのだ。


 それに、雄日子は取り引きをするように話したけれど、セイレンは雄日子に仕えている身なのだから、対等ではない。取り引きができるような間柄ではないはずだ。


 それに、昼間のことを思い出すと悔しくて、涙をこらえるのが苦しくなる。


 今日、セイレンのもとを訪れたハルフは、自分を騙そうとした。


 「石媛を助けたいから手を貸してくれ」といったが、石媛が囚われたのは災いの子のセイレンのせいだと考えているようだったし、石媛を助けるためなら、セイレンが代わりに死んでもいいと、あの男の目はいっていた。


 「双子の姉の代わりに死ぬために故郷へ戻ってこい」と頼まれたようなものだ。


 でも、雄日子は話を聞いてくれたし、手を貸そうかとまでいってくれる。


 そうか。ここでは、わたしは災いの子じゃないのだ。力を貸したら返ってくるし、罠にかけられて殺されるのを待つこともないのだ、そう思うと――。


「ここにいてもいい……?」


 泣き声の一歩手前のような、か細い声が出ていった。頭の後ろのほうに、もう一度温かいものが触れる。頭のまるみをそうっと撫でる、雄日子の手のひらだった。


「どうぞ。僕の望みだ」


「ありがとう――」


 もう満足だ。十分だ。


 背中に回った腕を指し抜くと、目尻にわずかにこぼれた涙をぬぐう。


「ごめん、ありがとう。落ち着いたよ」


 雄日子の胸元にあった顔を起こしていって、互いの顔が見えるまで離れてから、謝った。


 いまのは、なぐさめてもらったようなものだ。雄日子は主で、自分は仕えている身なのに、とてもおかしいことが起きたとも思った。


「もう終わりか? もうすこし抱いていたかったかな。――なんでもない。とても気分がいい。うまく寝つけそうだ。おやすみ」


 いまのが夢だったかのように、雄日子はいつものように敷布の上に横たわっていく。


 もとの姿勢に戻ってさっそく目を閉じていくのを、セイレンはぼんやりと目で追っていた。


 雄日子が寝ついたなら、寝ずの番がはじまる。


 気持ちを切り替えて守りに徹しようと、枕元に席を戻して姿勢を正した時。ふと、声をかけた。


「ねえ……雄日子、ごめん」


 寝入ろうとしていた主を起こすのは気が引けた。


 雄日子のまぶたが開いていくのをたしかめて、セイレンはおずおずと尋ねた。


 この男をそばで守るのを楽しみはじめてから、ひそかに気兼ねしていたことだった。


「わたし、あなたのことを雄日子様って呼んだほうがいい?」


 いま、セイレンは「雄日子」と呼び捨てにしているし、かなり好き勝手にやらせてもらっている。悪態をつこうが態度が悪かろうが、雄日子はセイレンには怒らなかったし、前に「素直でいろ」といわれたこともあって、許しは得ている。


 でも、守り人としてそばで暮らすうちに、それがとんでもないことだとわかってきた。


 ここへ来たばかりの頃は、藍十も日鷹も赤大も、「雄日子様と呼べ」「口が悪い」とセイレンを叱ったが、いまでは「そのとおりだ。口が悪い」と自分でもわかる。


 雄日子は、歩けば周りの人が足を止めて道を譲るし、話しかける前には一礼をされるか、前でひざまずかれる。


 この男を相手に思うままに不機嫌になったり、文句をいったりするのは自分だけで、それが、かなり特別なことだというのは身にしみていた。


 敷布の上で目をあけた雄日子は、一度目をまるくした。


 それから、微笑んだ。


「いまのままがいい。――おやすみ」


 答えるなり雄日子はまぶたを閉じてしまったが、セイレンは、もう一度身体がふるえた気がした。


 前にこの男からもらった珊瑚の髪飾りよりも、よっぽど欲しくて誇らしいものをもらった気がして、うれしかった。





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