河の都 (1)

河内かわち馬飼うまかい荒籠あらこ――)


 その人が笑った顔を思い出すと、早朝の森の凛とした風景とひやっとした朝の風も一緒に思い出した。


 聞いたのは一度か二度、それくらいのはずなのに、その人の名前はいまも耳に残っている。名前だけではなくて、その人の声や気配もだ。


「なあ、先頭は河内かわち馬飼衆うまかいしゅうらしいな。道案内をしてもらえるとはありがたい」


「へえ、あの方が若長わかおさ荒籠あらこ様――。意外とお若いんだな。雄日子おひこ様と同じくらいか? そういえば荒籠様は、昨日の宴で馬を二百頭用意すると豪語なさったらしいよ」


「そんな数の馬をどうやって用意するんだ。高島にいる馬をかき集めても百頭だぞ。あの方の牧はまだ遠いのだろうに――」


 一行が道を進んでいるあいだも、話し声が耳に入ってくると、セイレンは隣を歩く藍十あいとおを見上げた。


「二百頭の馬を用意する? あの荒籠って人、そんな約束をしたの?」


 藍十はぽかんとセイレンを見下ろしてから、苦笑した。


「これから秦王はたおうの都をとおるから、秦王につてでもあるのかな。でも、二百頭っていったらすごい数だ。秦王の馬をまるごと借りる気なのかな。そんなことができるのかな」


「荒籠ってあの人だよね。雄日子の隣にいる人」


 セイレンと藍十に任されたのは、雄日子の後方の守り。五人ほど向こうで雄日子が馬にまたがって進んでいたが、その隣には一緒に旅をすることになった馬飼の男がいて、並んで馬に乗っている。


 二人はときどき向かい合って口をひらいたり、目を合わせたり、馬上で話しているように見えた。


 馬飼の荒籠という男は、体格も背そのものもすこし雄日子より大きい。黒髪は首のうしろでゆるく結んでいて、雄日子が身につけているような華やかな髪飾りもない。


 衣装は簡素で、見慣れない道具を数多く身につけている。肩から革帯のようなものを斜めに渡していたり、小物入れがいくつも連なった帯を締めていたり――。腰にも小さな道具をぶら下げていたが、なんに使うのかさっぱり想像つかないものもあった。


「わたしの武具帯みたいだね」


 自分の両腕に巻かれた覆いを見下ろして、笑った。そこには、荒籠の革帯のように吹き矢や薬が所狭しと並んでしまわれている。


「あの人、朝からずっと雄日子と話してるよね。なんの話をしてるのかな」


「へえ――? おまえがそういう噂話に興味をもつとは思わなかったぞ。ていうか、人の名前を覚えるのが苦手なくせに、荒籠様の名前はよく早々に覚えたよな。おれはともかく、日鷹ひたかの名前はしばらくうろ覚えだったろ? ここにいる連中だって半分も名前を知らないんじゃないか? ていうか、興味なかったろ」


「そういえば、そうだね」


 いわれると、たしかに。


 セイレンは人の名前を覚えるのが苦手のようで、雄日子の護衛軍にいる男たちの名もほとんど知らない。顔の見分けはつくのだが、名前となるととんと頭に入らなかった。


「あの荒籠っていう人はじかに話したからかなあ。今朝、川で会ったんだ」


「荒籠様に?」


「うん。疾風はやてをね、つよくて元気な馬だっていってたよ。荒籠って呼んでいいっていわれた」


「えっ、おまえ、荒籠様も呼び捨てでいいっていわれたの?」


「うん。雄日子のことを雄日子って呼んでるのに、自分が『様』をつけて呼ばれるのは申し訳ないって。あの人は荒籠様っていう感じなんだけどなあ――」


「雄日子様も荒籠様も呼び捨てかよ。おまえ、最強じゃねえか」


 藍十は、くっと息を詰まらせるようにして笑った。






 賀茂かもを発ってから進んだのは、広大な野。見渡すかぎりが草地だった。腰丈の草の中に、人の足で踏まれたり火で焼かれたりしてできた道があって、雄日子の軍はその道で長い列をつくる。


 しばらく進むと、緑一色だった前方の草原に黄色や桃色の花が群れるようになる。その向こうに、きらきらと輝くものも見えた。水面だ。


水海みずうみ?」


 背伸びをしていると、藍十が「見たいなら、疾風はやてに乗ったら?」という。


 疾風の鞍にまたがると、背の高い男たちの頭より目の位置が高くなるので、一気に視界が開ける。


 草原を進む雄日子の軍の先頭には、騎兵が二十人ほどいた。どの騎兵も馬飼で、荒籠と似た格好をしている。


 馬飼の顔が向く先には花々が咲き乱れる美しい原っぱがあり、その向こうには水が見える。水面がとても広かったので、高島で見た淡海あわうみを思わせるが、水辺は横に伸びていて、草原に筋をつくっていた。


「えっ! あれ、川?」


「川だよ。桂川かつらがわかな」


「ものすごく大きいよ? 鴨川かもがわよりずっと大きいよ?」


 ここまで来る間も、一行は川のそばを歩いた。でも、目の前にあらわれた川はその川よりずっと川幅が広い。


「もうすこしいったら、もっと大きな川があるらしいよ」


「もっと大きな川? ええっ?」


 目の上に手で笠をつくって、セイレンは馬上からその川を眺めた。広い野の真ん中を流れるその川は、ゆるい弧を描いて滔々と流れている。日没間近の強い西日を受けて、水面は金色に輝いていた。


「すごいね。わたしが住んでた山には小さな川しかなかったよ!」


「あぁ、そういうことか。なら、おまえに早く海を見せてやりたいよ」


「海って? 淡海みたいなもの?」


「あんなもんじゃない。もっとでかいよ」


「淡海がもっともっと大きくなったもの? ……よくわからない」


「海を見たい?」


「うん、見たい」


「おまえ、いい顔してるよ。目がきらきらしてる。――楽しい?」


 藍十がぷっと吹き出す。表情はいくらか心配げだった。


 それでセイレンは、昨日の晩に藍十にしがみついて泣きじゃくったことを思い出した。


 

 ここを去ろうか――。わたしがここにいては、いけないのではないか――。


 

 そんなふうに塞ぎ込んだことは、もう忘れていた。胸の底からすっと立ちのぼる思いもある。



 わたしは、ここにいたい。

 たとえそれが悪いことでも、一族を裏切るようなことでも――もうすこしいろんなことを知りたい。



 セイレンは唇をきゅっと横に引いて、笑った。


「うん、楽しい。ありがとう、藍十」







 桂川という大河に沿って進むと、道が二股に分かれる。一行が進んだのは、大河から遠ざかるほうの道だった。


「秦王の離宮に向かうみたいだな」


「秦王の離宮?」


「ああ。このあたり一帯を治める小王の名を秦王っていうんだ。ほら、見えてきた」


 藍十が指さす方角に、大きな屋根をもった館が二つ三つ見えてくる。


 やがて、草原は見渡す限りの農地にかわり、草原を貫く道も広くなりまっすぐ伸びるようになる。


「もしかして、今晩はあそこに泊るの? ――また、賀茂かもの宮みたいに夜中に襲われたりしないかな……」


 前と同じように襲撃にそなえて休むのだろうか――。そう思って緊張したものの、不安そうにしている者は周りに誰一人いない。


 雄日子と荒籠は相変わらずで、時おり笑い合いながら話を続けていた。いや、雄日子は状況が良かろうが悪かろうがたいてい笑っているが、そのまうしろで雄日子を守る赤大あかおお角鹿つぬがも、周りに注意を払っているふうではなかった。


 なにより――。セイレンは、隣を歩く藍十の顔を見た。藍十にあるのは、いつもの明るい印象。いつ賊に襲われるかという状況なら、藍十はこんなふうに笑わないはずだ。


「ぴりぴりしてないね。あの宮には戦の気配がないの?」


「ああ……ここは秦氏の都だからな。秦氏はもともと高島と仲がいいんだよ。気を抜いちゃいけないけど、敵か味方かわからない賀茂ほどは警戒しなくていいかな。今回は荒籠様も一緒だしな」


「味方ってこと?」


「まあ、そういうことだ」


「でも、どうして荒籠様が一緒だといいの?」


「荒籠様はあちこちの国に呼ばれて旅に出ているから、顔が広いらしいよ。もしもなにかあったとしても、荒籠様が秦王にうまくいってくれるんじゃないかな」


「ふうん――。味方の国に敵の国か。異国っていうのもいろいろあるんだね」


「そりゃ、あるよ。どんなところでも仲がいい奴と仲が悪い奴はいるだろ?」


「まあ、そうだね」


 セイレンの頭にふっと蘇った顔があった。一人は長老の爺、もう一人は目を閉じた女人の顔。シシ爺とフナツという名で、土雲の里でセイレンの面倒をみてくれた人たちだ。


(敵と味方か――。あの里ではわたしには敵ばかりだったんだな。味方はシシ爺とフナツだけ。――二人は元気かな。シシ爺はともかくフナツは……わたしがいなくなって大丈夫かな)


 フナツはセイレンの育ての親。母と齢が近い女人で、めしいだった。生まれた時から目が見えないそうで、ほかの者ほど働けない。だから、セイレンの世話という役目をあてられたのだ。


 目が見えないとはいえ、いき慣れた道ならすべて覚えていたので、山歩きも野良仕事もできる。セイレンの世話もしっかりこなして、粥や団子をつくって食べさせてくれた。


(会いたいな――。ひどい目にあっていなきゃいいけど……)


 土雲の一族では、身体が弱い者は厄介者と扱われる。罵られたり、困っていても見て見ぬふりをされたり、災いの子と扱われたセイレンと同じくフナツも似た扱いを受けていた。


 セイレンの世話がなくなったぶん、暮らしは楽にはなっているだろう。でも、気にかかる。


(大丈夫かな。いまならわたしがフナツの世話をしてあげられるのに。ごめん……)


 様子を見に山に戻ったところで、「雄日子の守り人になれ」と里を追い出されたのだから、どうせ追い返されるだろうが――。


 セイレンは、ため息をついた。

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