序 馬の王 (2)

 ◆  ◇           ◆  ◇



 高島と高向たかむくの若王、雄日子おひこと、河内かわち馬飼うまかい荒籠あらこが出会ったのは、ただすの森の果て。日が暮れかかって、薄暗くなった森の中だった。


 晩の休み場となった野原で、荒籠は雄日子がやってくるのを今か今かと待っていた。


 日は暮れてゆく。暗くなってしまえば、顔も気配も、わかりづらなくなるではないか。


「火を焚け。道にお迷いになっているのかもしれない」


 こんなに遅くなるのは、もしや高島の若王という男が森の奥で立ち往生しているせいではないか。


 集めた焚き木に火をつけるように部下に命じて、火がくゆる音を聞きながら耳を澄ましていると、やがて、大勢の人が近づいてくる気配がする。木々の奥にひときわ白い衣をまとった青年が姿をあらわすと、荒籠は野原の真ん中に立ちつくした。


 間違いない。この男が高島の若王、雄日子おひこという男だ、と――。


 雄日子のほうも、荒籠が待っていることは供の者からすでに聞き知っていた。


 すこしでも早くと足早になって山道を進み、野原に入った頃には、すでにその野原は休み場としての支度を終えていた。


 四方で火が焚かれて煮炊き場が仕上がり、天幕てんまくが立てられ、野原の中央は、人が大勢集まれるようにぽっかりと空いている。その真ん中に立つ青年の姿を見つけて、目が合うと、ほうと息をついた。


 この男か。ようやく会えた――と。


 歩みよった二人の距離が縮まると、その場で荒籠は草の上に片膝をついた。


「高島の若王、雄日子様。河内の馬飼のおびと荒籠あらこともうします。お会いできてよかった」


 ひざまずいて名乗った荒籠の前で、雄日子も腰を落とした。


「立ってくれ。そうか、あなたが荒籠か――。あなたに会うためなら高島を出るのは正しかったのだと、僕はいま思った。さあ――」


 二人が打ち解けるのは驚くほど早かった。出会って、そのまま連れだって火のそばにいくと、そのまま盃を交わしたほどだ。


 野原には、雄日子の護衛軍と、荒籠が率いていた馬飼の集団がすべて集まっている。


 たがいの主が酒を酌み交わしはじめるので、野原では宴の支度が急がれ、手仕事もそこそこに、手が空いた者から地面に腰を下ろして輪をつくった。


 お噂はかねがね――。と、当たりさわりのない話からはじまって、しだいに宴の輪が大きくなる。馬飼たちも雄日子の軍もたずさえていた食べ物を惜しげもなく出したので、旅先にしてはかなりの豪華な食事にありつくことになり、人の声も大きくなった。


 輪と輪がまじわって互いに話しこみはじめた部下を見やりつつ、雄日子と荒籠は隣り合って話を続けていた。


「すっかり仲良くなったようですね」


「そのようだな。――それにしても、よくここまで会いにきてくれた。帆矛太ほむたには僕を河内に招いてほしいと言伝ことつげさせたはずだったのに、よくわざわざ山背やましろまで――」


「なにをおいいです。あなたの身は大事なのですから、帆矛太に『高島へ来い』と告げさせれば、山背どころか高島まで俺が出向きましたのに――」


 荒籠がそういった時に雄日子は微笑を浮かべていたが、目は冷ややかで鋭かった。


 その目と目が合うと、荒籠はにこりと笑う。手にしていた盃を口元に運んだ。


「と、思っていたのですが、あなたのほうにもご事情があったようです。――雄日子様、あなたが次に目指すのは、樟葉くずはではありませんか」


 樟葉くずはというのは地名だ。雄日子と荒籠が出会った糾の森から、大河に沿って難波なにわへ向かう途中にある。


 雄日子はくすりと笑った。


「なぜそう思った」


「俺は帆矛太から、あなたが難波の津を目指しているとききました。高島を出て、淡海あわうみに沿って南下し、山を越えて川の上流から賀茂かもに入り、淀の川に沿って難波の津を目指す――。あなたがたどっていらっしゃるこの道は、物の流れの道です。高島から西の方角へなにか物を運ぼうと思ったら、たどる道のひとつ。つまり、あなたは物の運び方を調べておいでだったのだ。川に沿って難波へ向かうなら、もちろん水運を使おうと考えていらっしゃるはず。賀茂川と、宇治川です。その船が数多く出る湊は、河内の湖と淀の川をつかさどる一族や秦王はたおうの支配地にありますが、樟葉くずははその都と向かい合う場所にあり、三つの川の交差路を見下ろせる要衝になりうる場所。あなたはその地をご自身の目で見にいきたい、もしくは、そこに地の利のいいあなたのための湊が欲しい――ちがいますか?」


 雄日子は目を細めて、ふふっと笑った。


「そうだとしたら、あなたは僕になにか助言することはあるか?」


「あなたを守る武人全員に馬をお貸ししましょう」


「馬か。しかし、僕の軍には百人がいるが――」


 荒籠は多くの馬を育てる河内の牧をつかさどる一族の若長わかおさ。馬飼としては広く名の知れた男だ。


 しかし、馬は貴重だ。どれだけ凄腕の馬飼だとしても、百頭もの馬を急に差し出すことなど、できないのではないか。


 真顔をした雄日子に、荒籠は涼しげな印象のある一重の目を細めて、唇の端を上げた。


「一人に一頭などと貧しいことはいいません。一人に二頭ずつ、二百頭お貸ししましょう。そして、我が馬飼の移動の速さをその目でご覧いただきましょう。あなたなら、俺がいっている意味がわかるはずです」


「移動の速さか。なるほど――しかし……」


 雄日子は唇を閉じ、自分も盃を唇に近づけて軽く酒を飲んだ。


「まあいい。あなたを信じよう。しかし、二百頭の馬か」


「ええ、きっと。秦氏の都に着いたら、あなたにお貸しします」


 ゆっくりうなずいて、もう一度酒を舐めた後で、荒籠も真顔になって尋ねた。


「おききしたいのですが――どうして俺に会おうとしてくださったのですか。いくら馬飼がめずらしいとはいえ、飛鳥には俺よりよほど力をもった男が大勢おります。たとえば、大伴おおとも物部もののべ――。飛鳥をどうにかするなら、俺よりもまず大伴や物部の誰かとお会いになったほうがよかったのでは――」


 河内の馬飼は、馬のことならなんでも任せよとあたりに名をとどろかせている。大王おおきみの御用達で、飛鳥の列城宮なみきのみやにも出入りを許されており、馬にくわしいと広く知られていた。


 でも、馬飼の技については門外不出のものが多く、「妙な掟をかたくなに守る奇妙な異人の集団」と気味悪がられることもあった。


 飛鳥や難波、その周辺の国々では、血筋の貴い一族が敬われる。いくら馬飼がちかごろ目まぐるしい躍進を遂げて飛鳥の守りを助けようが、まず讃えられるのは、馬飼が主として仕える大伴おおとも物部もののべという、由緒正しい武人の一族だ。


 荒籠の懸念を、雄日子は一笑にふした。


「僕がこの世で一番会いたかったのは、あなたです。名前ばかりで能のない者には、あいにくさっぱり興味がないのだ」


 荒籠は、小さなうめき声を漏らした。うつむき、目尻ににじんだものを手の甲でぬぐい去ると、深く頭を下げた。

 

「やはり、俺の勘に間違いはなかった。俺はあなたに従い、この命も捧げます」

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