糾の森 (3)

 緑の森を歩いて戻ってくる藍十は、気難しい顔をしていた。


「藍十。赤大は――」


 歩きながら、藍十は首を振っている。横にだ。


「賀茂の王宮まで戻ってみたが、いなかった」


 戻ってくると、藍十あいとお雄日子おひこの正面で森の土に片膝をつく。


「雄日子様、ひとまずここを離れて、北へ向かいましょう。実は――帆矛太ほむたが残した草文字を見つけました」


「帆矛太の?」


 雄日子の表情がこわばる。


「帆矛太って誰? 人の名? 敵?」


 セイレンが尋ねると、藍十は目を丸くした。


「いいや、敵じゃないよ。帆矛太は、雄日子様の守り人の一人なんだ。用があって先に高島を出て、都に――飛鳥へ向かっていたんだが」


 雄日子から聞いたばかりだったので、セイレンはその都の名をよく覚えていた。


「飛鳥って、大和っていう大国の大王おおきみが住んでいる都だっけ?」


「ああ、そうだよ、セイレン。それで、藍十。帆矛太の印はなにを意味していたのだ。荒籠あらこのことはなにか記されていたか」


 荒籠――。


 それも、はじめて耳にする名だった。


 雄日子に問われて、藍十は話を続けた。


「はい、雄日子様。草文字を見つけましたが、北の森の隠れ場に潜んで五日待つという印と、めいを果たしたとの印がついていました」


「命を? 本当か?」


「はい」


「なんと――。難波へ向かう手間が省けてしまったな」


 雄日子は、ふるえるように笑った。


 珍しい表情だと、セイレンは驚いた。驚いたような気配も、聞き返すような仕草も――。


「嬉しそうだね? その荒籠っていう人に、あなたはそんなに会いたかったの?」


「実はな、セイレン。雄日子様が高島を出たのは、荒籠様っていう人に会いにいくためなんだ」


「えっ。人に会うために旅をしてんの? 人に会いにいくくらい、一人でいけばいいじゃないか! それなのにあなたは、百人も連れて――! っと、その――」


 思わず本音を口に出してから、手のひらでぱっと口をおさえる。雄日子は苦笑した。


「おまえは本当に正直だな。――まあ、藍十がいったとおりだ。僕は、その荒籠という男が僕に会いたがっているという話をきいたから、高島を出たのだ」


「その人、どんな人なの? 偉い人?」


「偉い、偉くないというのは、人の感じ方によるからな。僕はわからないけれど――」


 雄日子は微笑んで、話を続けた。


「荒籠は、河内かわちという場所で、馬を育てる牧を司る豪族の若頭で、たとえば、僕や、昨日会った賀茂王かもおう乙訓おとくにのような、王と呼ばれる身分の男ではない。そうではなくて、馬を使う戦や商いや、僕たちのように、移動するのに馬を使う輩の馬屋に出入りをしている。だが、話を聞く限り、僕は、その荒籠という男が、いま一番多くのことを知っていて、一番冷静にこの世を見ていると思うのだ。だから、僕はその男と会って、話をしたいのだ。なぜ僕に会いたいと思ったのかと、尋ねてみたいのだ」


「尋ねてみたいって――たったそれだけの理由で旅をしてるの!?」


 やはり、よくわからない話だ。


「もしかして、あなたがいまに大王になるって話とつながりがある?」


 そういうと、雄日子は唇の端を吊り上げて笑った。


「そうかもしれないし、関わりがないかもしれない。まあよい、藍十。帆矛太の草文字には、ほかにはなんとあったのだ」


「五日待った後、難波の方角へ向かうとのことです。帆矛太は、雄日子様が通る道を知っていますから、荒籠様を見つけた後、道中にあたるここへ戻ってきたのでしょう。もしも出会えなければ難波へいき、河内の、荒籠様の牧で待つとのことでしょう」


「わかった。では、北へ向かおうか」


 雄日子の返答は早く、すぐに立ちあがった。






 三人が進み始めた方角には、原生の森が広がっていた。


「雄日子様、このあたりはただすの森と呼ばれているところです。北側に高い山が見えますが、あそこは暗部山くらぶやまという霊山で、帆矛太が待っているとしたら、あの山と糾の森の境目にある隠れ場だと思います」


 藍十の指がしめす角には、よりいっそう濃い緑色をした森が広がっている。


 森を成す木々はほとんどが樫で、年代を重ねた幹や枝は滑らかな弧を描いて伸びている。樫の大木の隙間には伸び始めたばかりの若木がぽつぽつと立ち、背の低い草花が群れていて、見通しは悪かった。


 三人の先頭に立つ藍十は、木々の隙間をよけるように進んでいった。


「しばらくは追手も来ないでしょうから、街道に戻ってもいいのですが、少し先に道幅が狭い谷があるのです。見通しが悪く、逃げ場もないので、待ち伏せされたら厄介な場所です。賀茂と大和の残党がまだいるかもしれませんから、その谷を越えるまでは森を進みましょう」


 雄日子を気にして、藍十の歩みは早すぎなかった。でも、進む方角がぶれることはない。藍十は、古い森の中でも進むべき方角を知っているようだった。


「藍十、おまえ、このあたりに詳しいのか」


 尋ねると、藍十は足を止めずにこたえた。


「そんなに詳しくはないけど、何度か来たことがあるからさ。二度だったかな。雄日子様の守り人は、雄日子様の代わりに、異国へ雄日子様の言葉を伝えにいくこともあるから、その時にな」


「それはそうと、藍十、賀茂の王宮の様子はどうだった?」


 雄日子から尋ねられると、藍十は少し黙ってから答えた。


「ことごとく焼かれていました。応戦するために赤大がやったのでしょうが――。まるで、戦の後のようでした」


「――乙訓おとくにはどうなった」


「外から見ただけなので詳しくはわかりませんが、それらしい姿は見えませんでした。館衆やかたしゅう、武人、侍女――人の気配そのものがほとんどありませんでした。夜のうちに火から逃げたのでしょうが――。馬屋はからでした。米が蓄えられていた倉も荒らされていました。――これは、赤大でしょう。旅のための食糧と馬を補ったのでしょう」


「そうか――」


 雄日子の声に力はなく、ぼんやりしてきこえた。


 でも、なぜか――。ふっと頭の中で火花が散ったように、セイレンは雄日子の表情を追いかけたくなった。


 セイレンは、雄日子の背後を守るために最後尾を歩いている。


 見えるものは、先頭をいく藍十と雄日子の黒髪だけ。でも、食い入るように見つめた先で、雄日子が一度、横を向いた。


 セイレンが見た雄日子の横顔は、微笑んでいた。


 一目見ただけで目を奪われる表情――そう思った。


 唇の端は笑っていたけれど、目が冷たい。まるで氷か、魔物。人ではない妖かしの生き物のように――。




 この男は、人なのだろうか――。




 そんな疑問がふと胸に弾けるほどで、見てはいけないものを見てしまった気になった。


 先頭をいく藍十が、うっそうと茂る草木を掻き分ける音が響いている。がさり、がさ――。後ろを歩く雄日子のために道をつくりながら、藍十は話を続けた。


「飛鳥にいるはずの大和の軍が、賀茂で待ち伏せしているなんて――雄日子様が高島を出たことを知っていなければできないことです。高島の離宮に着いた時に、呪いの獣がひそんでいたことといい――大和にはかなり腕のいい窺見がいるようですね。それにしても、快く迎えてくれる連中もいれば、大和と結託して待ち構えている連中もいる。戦をしながらでしか旅ができないなんて――覚悟はしていたことですが、難波までの道は険しそうですね」


 憂いを語るように、藍十がぽつぽつと話す。


 それをききながら、雄日子は、セイレンが見つめる先で肩を揺らした。忍び笑いを漏らしているような仕草だった。


「そんなことはないよ、藍十。僕に従う奴か、そうでないのかを見極めるためにはいい旅になった――僕はそう思っているよ」


「……本当に、雄日子様を尊敬しますよ。どんな厄介事でも、いいことに変えておしまいになるんだから――。降って湧いた争いなんか、凡人のおれには厄介としか思えませんよ」


 ふう――。藍十の吐息が聞こえた。


 その吐息は、本物だ――。


 そう思うなり、セイレンは藍十の肩を掴んで、揺さぶりたい気分になった。


(ちがうよ、藍十。ちがう――。わからないけど……雄日子は、本当に厄介事だなんて思っていないんだ。そうじゃなくて――)



 ふいに、白昼夢ひるゆめを見たような、ふしぎな感覚を覚えた。


 ふっと目の裏に浮かんだのは、苦渋に歪められた雄日子の顔。牙王にかけさせた呪いを解いてほしいと、頼みにいった時のことだ。


 その時、考えるのに疲れたような苦しげな顔で、雄日子はこういった。

 




『僕は、これまで、なにかをし損じたことがない。先を読んで、悪いことが起きそうならその芽を先に潰すか、避けるかしてきたからだ』




 その時は気にならなかったが、思い返してみれば、そんなふうに苦しそうな顔をする雄日子はとても珍しいのだ。雄日子は、たいていいつも微笑んでいるから――。


(どうして、こんなに急にあの時のことを思い出したんだろう)


 それは、奇妙だった。でも、それ以上に思うことがある。


(どうしてあの時、雄日子はあんなに苦しそうな顔をしたんだろう。賀茂の王宮が焼けてしまった話だって、笑いながらきいてるのに。――そうじゃない。そうじゃなくて……。どうしよう、雄日子って、思っていたよりもずっと、とんでもないことを考えているのかもしれない。こんな男についていったら、わたしはどうなってしまうんだろう――)


 行く手には、うっそうとした森が広がっている。


 太陽の光を浴びていきいきと輝く葉の数々や、濃い緑の天井越しに射し込む淡い色の光。


 森の風景は美しいが、糾の森という名のいにしえの森は、奥へ進むのが少し不安になる森で、木々も草木も思い思いに生えていて、まるで蜘蛛の巣のように、細い枝葉が交差して見える。


 今は、道に詳しい藍十が進む方向を教えてくれているが、もしもこの森を一人で進めといわれる日が来たら――。


(こんなところを進んで、戻れなくなったらどうしよう――)


 怖くなって、無口になっていたせいか。先頭にいる藍十が、振り返った。


「どうした、セイレン。ついてきてるかどうか不安になるからさ、たまには話に加わってくれよ。――どうした? 顔色が悪いけど……」


「そう? なんでもないよ、なんでも――」


 口にしてはいけない。胸に湧いた不安は、誰にも気づかれてはいけない。


 自分でやらなくちゃ、どうにかしなくちゃ――。


 むしょうにそう思って、ごまかした。



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