第55話「断面図」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、性的なことに興味を持ちすぎた面々が集まっている。そして日々、己の性癖を磨くために精進している。

 かくいう僕も、そういったエロスに染まった人間の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 そんな、汚れた面々ばかりの文芸部にも、汚れを知らない人が一人だけいます。怪しい娼館に迷い込んだ、清らかな乙女。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえて、僕はそっとブラウザを最小化した。そして何食わぬ顔で、笑みを浮かべて振り向いた。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、いつものように僕の右隣にちょこんと座る。

 危ない危ない。ぎりぎりセーフだった。エッチな二次元掲示板を見ていたとばれたら、淫乱紳士だと思われてしまう。そんなことになったら、僕の爽やかイケメンのイメージが崩れてしまう。


「どうしたのですか、先輩。また、ネットで新しい単語を見つけたのですか?」

「そうなの。サカキくんは、ネットに明るいわよね」

「ええ、知の巨人と呼んでいただいて構いません」

「その、サカキくんに、聞きたいことがあるの」

「何でしょうか?」


 僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、たくさん書くためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。切っ掛けは、オンラインの辞書を使うためだった。そのついでに、ネットもさまよった。その結果、そこに未知の言語空間が広がっていることに気付いた。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「断面図って何?」


 ……ふわああぁぁぁっつ! 僕は、素っ頓狂な声を上げそうになり、その場で固まってしまう。

 あの……。断面図って、普通の意味の断面図のことではないですよね? それならば、辞書を引けば分かりますものね。それではない、特殊な用途で使われる意味ということですよね。断面スレとかで使われる、二次元的意味合いの断面図のことですよね……。


「ほうっ。面白いことになったな!」


 どこからともなく声が聞こえた。僕はその声に緊張する。僕は、その声の主を知っている。というか、この文芸部のご主人様だ。そう、その人物とは、僕の天敵、三年生で部長の、城ヶ崎満子さんである。


 満子部長は、古い少女マンガに出てきそうな、お嬢様風のゴージャスな容姿をした人だ。しかし、この姿に騙されてはいけない。その中身は、気高くも真面目でもなく、エロに染まった品性劣悪なものだからだ。

 満子部長が、そういった困った性格をしているのは、その出自のせいだ。満子部長は、父親がエロマンガ家で、母親がレディースコミック作家という、サラブレッドな家に生まれた。そういった家庭環境であるために、両親から受け継いだ、深遠にして膨大なるエロ知識を保有している。そして性格はSであり、僕をこの部室で、ちくちくといたぶるのを趣味としているのだ。


 その満子部長の声が、いずこからか聞こえてきた。僕はその場所を探して、「ぶっ!」と声を上げる。


「満子部長、どこに隠れているのですか!」

「サカキの股の間だ!」


 僕の机の下から、ぬっと現れた満子部長は、「よっこらせ」と言いながら、僕の左隣に座った。


「いや~~~、面白そうな話が始まったようだからな。こっそりと机の下に潜り込んで、耳をそばだてていたのだよ」

「面白そうな話が始まったって、いつから潜り込んでいたんですか!」

「すごいだろう。私もびっくりだ」


 どこまで本気か分からない受け答えをして、満子部長は声を立てて笑う。

 それにしても、どうしよう。一番、からんできて欲しくない相手が、この話にからんできた。エロマンガにおける断面表現は、ネット全盛時代以前から存在していた。しかし、特に名称として読者に共有されていたわけではない。

 ネットという文字表現の文化が花盛りになることにより、同一ジャンルの画像を効率よく収集する目的で、様々な呼び名が共有されて、固定化されていったという背景がある。


 断面図は、エロマンガやエロイラストにおける特有の表現手法である。いわば、エロの拡張現実、エロティック・オーグメンテッド・リアリティである。通常の性的な図像に対して、その結合状況を透視した断面図を重ね合わせる。そのことにより、その棒状および先端部分の快感的触感を想起させて、快楽的効果を増大させる。そういった絵画的手法である。

 しかし、そんな淫猥な説明を、純真可憐な楓先輩にするわけにはいかない。僕はどうするべきか必死に考える。


「なあ、楓はエロマンガを読んだことはあるか?」

「な、ないもん。そんなエッチな本!」


 ぶっ! 僕は心の中で盛大に噴き出してしまう。

 ザ・タブーの異名を取る満子部長は、楓先輩に直接的に断面図の話をしようとしている。その入り口段階で、楓先輩はすでに赤面して、耳まで真っ赤に染めている。駄目だ。僕は、先輩のホワイトナイトとして、満子部長というデーモンの手から、プリンセスである楓先輩を守らなければならない。


「楓先輩。レオナルド・ダ・ヴィンチをご存じですか!」


 僕は、颯爽と声を出す。


「うん、知っているよ。ルネサンス期を代表する芸術家であり、科学者である万能人よね。『モナ・リザ』の作者としても有名よね」

「そうです。そのダ・ヴィンチは、解剖学にも卓越した知識と経験を持っていました」


 楓先輩は、満子部長から顔を逸らして、僕の方を見る。よし。暗黒世界から光の世界に楓先輩を連れ戻した。僕は、まるで科学者のような顔つきをして、説明を続ける。


「ダ・ヴィンチは、西洋絵画に解剖学的知識を導入した手法で作品を作った人物です。そのため、数々の精密な解剖図を残した人として知られています。

 ダ・ヴィンチの目的は医学ではなく、芸術でした。そのため、彼の描いた素描には、単なる解剖死体とは異なるものが、数多く残されています。


 それは、様々な動きをしている人間の、解剖状態を描いているというものです。人体の躍動を、その内部の構造まで見通して表現するために、ダ・ヴィンチは通常の死体を描くのではなく、生きた人間を透視するようにして描く試みをしたのです」


 僕は、右隣の楓先輩を見下ろす。僕の説明に聞き入っている。そして、聞き逃すまいとして、僕に体を密着させている。先輩の顔が、唇を重ねられそうな距離まで近付いている。紳士な僕は、その接近に欲情することなく、涼やかな表情をして相対している。

 よし! 先輩の信頼と尊敬を獲得しているぞ! 左隣の満子部長は、完全に沈黙している。満子部長は、紙とサインペンを持って何かを書いている。しかし、そういった行為は、僕の圧倒的な説明の前に、無意味に終わるだろう。敵は、僕の幻惑の台詞にひれ伏している。このまま僕は、勝利に向けて前進を続けよう。


「楓先輩!」

「うん。サカキくん」

「そういった、人体透視的な表現は、現代にも生きているのです!」

「そうなの?」

「ええ。マンガやイラストといった、平面的表現の世界では、その絵の視覚的効果を最大限に高めるために、人体の一部を透視させて、断面図的に描く手法が使われているのです」

「そうなのね。具体的には、どういった感じなの?」


 ……詰んだ。

 具体例を見せて欲しいですと? いや、確かに見せることはできる。楓先輩が僕のところに来る直前まで見ていた画像掲示板は、断面スレだった。そこには、数々の断面図が掲載されており、レオナルド・ダ・ヴィンチも真っ青な透視世界が広がっている。

 しかし、それらの断面図と、ダ・ヴィンチの素描には大きな違いがある。ダ・ヴィンチの描いたものは、解剖学に裏打ちされた、リアリスティックな内容である。しかし、僕の見ていた断面図は、妄想力の爆発した、エロティシズム溢れる性的な表現なのだ。


 僕は、渋い顔をして考える。どうすれば、この窮地を脱することができるのか。


「なあ、楓。つまり、こういうことなんだよ」


 うん? 満子部長が急にしゃべり始めて、一枚の紙を持ち上げた。そういえば、満子部長は急に黙り込んで、紙にサインペンで何かを書いていた。いったい、何を書いていたのだ? 僕は満子部長の持っている紙を見て、絶叫しそうになる。

 そこには、マンガ家の娘らしい、美麗なタッチで描かれた、実物大の断面図があった。満子部長は、女性の内面と、そこに侵入した何ものかが描かれた紙を、楓先輩のお腹に張り付けようとしていた。


 やめろ~~~! 僕は心の中で絶叫する。それとともに僕の桃色の脳細胞は、ワッフルワッフルと期待と喜びの声を上げている。


 僕は手を伸ばして、満子部長の手の中の紙を奪おうとする。一瞬のことだった。僕の腕は満子部長にからめ取られて、脇固めを極められていた。そして満子部長は、僕を片手で固定したまま、楓先輩の下腹部に、サインペンで描いた断面図を張り付けた。


「ほら、断面図」

「きゃ~~~~~~~っ!」


 楓先輩は、驚きと羞恥で大声を上げた。その声は、学校の校舎をゆらすほどの大きさだった。


「サカキくんのエッチ!」

「えええええっ! 僕ですか!!!」


 楓先輩は、断面図を描いた満子部長よりも、断面図になった自分の姿を見た僕の方に、おともだちパンチを見舞ってきた。


 その日、楓先輩は、僕と満子部長を正座させて一時間ぐらい説教した。どうして、僕が説教されるのでしょうか。満子部長は自業自得だけど、僕は巻き込まれただけですよ。

 僕は、ちらりと隣の満子部長の顔を見る。満子部長は、僕と楓先輩の羞恥の表情を見たためだろう、とてもとてもご機嫌だった。

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