第2話「ブヒる」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、様々な奇人変人がいる。ここは、人類をなめきったような怠惰な人間や、人を食ったような妖怪などが集まっている掃き溜めだ。

 そういった文芸部の中で、最後の良心とでも言うべきが、三年生で先輩の雪村楓さんだ。三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ってきたという、純粋培養の美少女さんだ。


 ちなみに、その楓先輩を慕っているのが僕、榊祐介である。二年生になる僕は、厨二病まっさかりのお年頃。部室でやっていることといえば、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことである。

 だって、仕方がないじゃないですか。文芸部でしょう。言葉の勉強をすることは大切ですよ。これは立派な部活動です。僕はそういった言い訳をしながら、今日も備品のパソコンで、怪しげなサイトを巡回して、言語学習にいそしんでいる。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえてきて、僕は振り向いた。今日も素敵なご尊顔。文学少女は、かくありき。とっても美人で可憐な先輩が、頼りがいのある僕に声をかけてきた。


「何ですか先輩?」


 僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の執筆活動のために、それが必要だったからだ。そのことが、僕と先輩の仲を進展させるとは、神のみぞ知る展開だ。ノートパソコンを手に入れた先輩は、それをネットに繋いだ。最初は、オンラインの辞書を利用するためだった。それがいつしか、ネットの言葉の海を泳ぎ始めることになった。そして、現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「私のまったく知らない言葉があるの。カタカナのあとに、『する』が付いて省略されたみたいだから、外来語が名詞化されてそれが動詞に変化したものだと思うの。でも、どうしても意味が分からず、使い方も判然としないの。サカキくんは、ネットに詳しいでしょう? 教えてくれないかしら」


 ふむふむ。僕は頼られている。さあ、胸を貸そう。何でも相談を聞いてあげるよベイビー。そういったキザな言葉は胸にしまったまま、僕は先輩に声をかける。


「あの、どんな言葉なんですか?」

「ブヒる、という言葉なの」


 先輩は、ちょこんと僕の横に座り、懇願するような目で見上げてきた。

 うわっ、まぶしい、僕がブヒりそう。楓先輩は僕の嫁! そんな、現実には言えないような言葉が、口から飛び出しそうになる。でも、ぐっとこらえたぞ。すごいぞ僕の自制心。

 しかしまあ、難しい言葉を拾ってきたなと思う。萌えの何たるかを知らない先輩に、一から説明するのは困難だ。僕はちらりと先輩の顔を見る。先輩に、オタクが抱く「萌え」の心を、どのようにして分からせればよいのだろうか。


「先輩は、何か可愛くて大好きなものはありますか?」

「うーん、分からないけど、赤ちゃんとか可愛いんじゃない?」


 先輩は、嬉しそうに笑顔を見せる。楓先輩の眼鏡の下の目が、優しげにゆるんでいる。

 うわっ、素敵すぎる表情だ。僕は、自分の顔が赤くなっていることに気付く。だって、仕方がないよ。僕と先輩の赤ちゃんを想像してしまったんだもの。そう、赤ちゃんができるってことは、その前に子作りがある。それはリア充爆発しろ的な、何かの行為を伴うということだ。

 僕は、楽しそうにしている先輩の顔をじっと見る。先輩は、きょとんとした顔で、僕を見上げている。先輩、僕は今萌えていますよ。僕は、先輩の萌え豚です。猛り狂うほどブヒっています。しかし、その思いを高らかに告げて、「ブヒる」の説明をするわけにもいかない。


「あのですね、先輩。世の中には、可愛い対象を愛でることに、人生を捧げている人たちがいるのです。その人たちは、通常の恋愛に背を向けて、孤高の道を歩み、人類の最果ての地に向かいながら、そこで慈しむ対象を手に入れるのです。

 そういった、孤独の末に手に入れた、人類の至宝と言うべき慈しみの心を、『萌え』と言うのです。そういった、萌えの心を育んでいる人の中で、特に前衛的で献身的な人々が、その自虐と揶揄を込めて、『萌え豚』と呼ばれることがあるのです。そういった人々が上げる、愛の絶唱や絶叫が『ブヒる』という行為なのです」


 先輩は、人差し指を、形のよい唇に当て、じっと考え込む。自分の頭の中で、それがどういった行為なのか、一生懸命に考えているのだろう。僕は、そんな先輩の顔をじっと見る。真剣な先輩の顔は美しい。僕の間近にあるその顔は、僕の心を鷲づかみにして、めろめろにする。


「なかなか高尚な感情と行為なのね。奥手の私には、残念ながら、まだ分からないけど」


 えへへ、という様子で、先輩は頭をかく。ああ、ここに女神がいる。僕はそう思い、自分の中の感情を必死に制御する。


「私は未熟者だから、ブヒるという境地には達していないみたい。でも、ネットマエストロのサカキくんは、もしかして、もうブヒっているの?」

「はい、もう、絶大に!」


 何を言っているのだ僕は。僕は心の中で、ブヒイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ! と絶叫を上げる。


「とっても素敵ね。慈しみ、愛情を注げる対象があるということは」


 先輩は僕を、尊敬するような目で見る。

 ……僕の心に、そこはかとない罪悪感が芽生える。


「おい、サカキ。てめえ、何適当なことを言っているんだよ!」


 僕は、背後から、頭を叩かれた。三年生の先輩、吉崎鷹子さんだ。喧嘩が強くて、女番長と呼ばれている、長髪で目付きの鋭い、暴力女だ。そんな鷹子さんが、なぜ文芸部に属しているかは、謎でしょうがない。


「何ですか、鷹子さん。そもそも、鷹子さんは、ブヒるって、言葉の意味を知っているんですか?」

「えっ? ……ちっ!」


 あれ? 何? どうしたの? 鷹子さんは、しまったという感じの顔をして、目を逸らした。その様子に、楓先輩も不思議そうな顔をしている。


「ああ、まあ、何だ。私は、ブヒるなんて、低俗な言葉は知らない。それに、ブヒってなどいない。ああ、断じていない」


 うーん、変な言い回しだな。何か、隠しているような気がするぞ。


「それよりも、部活動をするぞ! ここは文芸部だ! おらっ、文章を書け!」


 なぜ、突然? 何だかよく分からないまま、その日、僕は、反省文と称して、鷹子さんに、自分がブヒっている二次元キャラクターについて、原稿用紙十枚ほど書かされてしまった。

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