リンデン氏の書棚

リンデン氏の書棚

『いいかい。この本に書いてあることは絶対に声に出して読んではいけないよ。もし声に出したら――』

リンデンのおじさんに借りた本を手に、ルキアはさっき彼に言われたことを思い出していた。声に出して読んではいけないなんて。いったいどうしてなんだろう。そんな疑問を胸に彼女は豪華な装飾が施された表紙を捲った。






ルキアがその本を見つけたのはリンデンのおじさんの家に遊びに行った時だった。古本の収集が趣味である彼の家には数え切れない程の本がある。そんな彼の家は幼いルキアにとって秘密基地のようであったのだ。


その日もいつものように彼女は彼の家を探検していた。色とりどりの背表紙が並ぶ本棚に彼女は目を輝かせる。と、一冊の本がルキアの目に飛び込んできた。背表紙が特別派手というわけでもない。異常に分厚いわけでもない。他となんら変わりのない本なのに、なぜか目が離せない。彼女はその本に吸い寄せられるように近づいていく。そしてそれを本棚から取り出した。

「綺麗……」

彼女の口から思わず感嘆の声が漏れる。なぜならその本の表紙があまりにも綺麗だったから。背表紙とは似ても似つかぬ豪華な装飾。臙脂色の地に六芒星が金の糸で刺繍されている。ルキアがその表紙に見とれていると

「何を見ているんだい?」

後ろからリンデンのおじさんが声をかけてきた。

「あ、おじさん!! この本借りて帰ってもいいかな?」

ルキアは彼に向かってその本を突き出し尋ねる。朝も昼も夜もずっと眺めていたい、ずっとずっと自分の側に置いておきたい。気に入ったものには手に入れなければ気が済まない彼女はそう思ったのだろう。彼はそんな彼女の性格をよく分かっている。しかし、すぐに首を縦に振ることは出来なかった。なぜなら彼女の持っている本はとても危険なものだから。彼は頭を抱える。

「ねぇ、ダメ?」

首を傾け、可愛らしくそう言うルキア。そんな顔で言われたら断れないじゃないか。彼は溜め息をつくと

「分かったよ。ただし、いいかい。この本に書いてあることは絶対に声に出して読んではいけないよ。もし声に出したらどうなるか分からないからね」

そう忠告し、彼女がその本を持ち帰ることを許した。

「うん、分かった!!」

満面の笑みを向けるルキア。彼が彼女の声を聞いたのはそれが最後だった。


「うっ……」

本を開いたルキアは、苦虫を噛み潰したような顔でそう声を漏らした。それは、その本の中身が文字で埋め尽くされていたから。頭がおかしくなりそうな程の文字の量に、ルキアは目をしょぼつかせた。元来長い文章を読むのが好きではない――むしろ詩や絵本が好きな彼女は、その本を閉じてしまおうかと思った。でも、せっかくリンデンのおじさんのところから借りて来たのだし。読まないのは勿体無い。そう思い、彼女は文章を声に出しながら本を読み始めた。こうすればいくらかマシかもしれない、と幼いながらに考えた結果だろう。しかしルキアは大切なことを忘れていたのだ。……そう、リンデン氏の忠告を。


初めこそ、面倒くさそうに声に出しながら読んでいたルキアだが、いつの間にか声を発することも忘れ、すっかり本の世界に魅了されてしまっていた。本の中に広がっていたのは、産業の発展により産みだされた物――高層ビルや自動車のない、自然に囲まれた美しい世界。人々は幸せそうに笑い、ルキアの住む世界には存在しない空想上の生き物たちが辺りを駆け回っている、そんな世界。"楽園"という言葉がこれほどまでに合う場所は他にないのではないか。そう思うくらいに素晴らしい世界だった。そしてその世界で繰り広げられる素敵な物語。何気ない日常の風景から、世にも不思議な出来事まで様々で。彼女はどっぷりとその不思議な世界観に浸かってしまった。


「ふわぁ……」

ルキアがようやく三分の一を読み終えた頃、彼女の口から眠そうな声が漏れた。それもそのはず。彼女がいつも寝る時間はとうに過ぎ去っていたのだから。それでも彼女はまだその世界に浸かっていたいようで。眠い目を擦りながらページを捲った。

「あれ?」

しかし次のページには何も書かれていなかった。不思議に思い、次も、その次も開いて見るが真っ白なページが続くばかり。一気に興が冷めた彼女は、本を閉じて投げ置くと、電気を消して眠りについた。


ルキアが完全に夢の世界へ旅立った頃。彼女がリンデン氏から借りてきた本がひとりでに開いた。カーテンも窓も締め切っているから、風のせいではない。エアコンはついているが、本を開かせる程の風力はないだろう。と、奇妙な音が部屋に響く。しかし、彼女はその音に何の反応も示さず、ただ穏やかに眠っていた。そんな彼女に、その本の綴じ目から生えてきた蔓の長い植物が襲いかかろうとしている。そうして、ついに彼女の腕に蔓が触れた。ルキアはそれでも微動だにしない。それをいいことに、蔓はどんどんと伸びていき、あっという間に彼女を包み込んでしまった。そして、蔓は彼女もろとも本の中へと取り込まれていった。ベッドにはただ本が一冊あるだけだった。



翌日、リンデン氏はルキアの家を訪れた。インターホンを鳴らすと中からルキアの母親が現れた。

「あら、リンデンさん」

「こんにちは。あの、ルキアに会わせていただきたいのですが」

リンデン氏がそう言うと、母親は訝しげな顔をして彼を見た。

「リンデンさん、うちにはルキアなんて子はいませんよ」

その言葉を聞いて、彼は全てを悟った。あぁ、ルキアはあの本を声に出して読んでしまったのだな、と。

「そうですか。あ、この前訪ねた時に忘れ物をしたようなので、お邪魔してもよろしいでしょうか」

「えぇ、どうぞ」

彼は母親の許可を得ると、ルキアの部屋へと向かった。


ドアを開けると、そこには以前彼が訪れた時と同じ光景が広がっていた。彼は部屋の中に足を踏み入れると、ベッドの上に置いてある本を手にとる。そしてページを捲ると口元に笑みを浮かべた。なぜなら文章の書いてあるページが増えていたから。ルキアとはまだこの世界で仲良くしたかったけれど、まあいいだろう。あちらにいくのが少し早まっただけ。これで永遠に一緒にいられるのだから。他の、彼の好きな人たちと一緒に。

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