ハイキングに行こう

水円 岳

第一話 早春賦

「おはようございます。成島なるしまさん」

「はい?」


 突然声を掛けられて、はっとする。


「もう慣れました?」


 事務の酒井さかいさんか。


「そうですね。まあ、ぼちぼち」

「なんにもない田舎で、しかも山仕事でしょう? 辛くありません?」

「ああ、平気ですよ。私はもともと田舎の出ですし、これまでも山仕事はしてましたので」

「あら」

「そうでもないと、こんなとうの立った親父を中途採用しちゃくれんでしょう」

「何を言ってるんですか。まだそんなにお若いのに」


 私は苦笑する。


「若くはありませんよ。もう立派な親父のトシです」

「ええー?」


 信じられないと言う顔をする酒井さん。田舎のおばさんたちは、みんなこんな感じで遠慮がない。根掘り葉掘り身辺調査をされちゃ敵わないので、席を立つ。


「さて。じゃあ、現場に出ます」

「昼には戻られます?」

「いえ、弁当持ったので、整備が済んだら適当にどっかで食います。道具を置きに夕方ここに戻りますけど、何時になるか分からないので、鍵は閉めといてください」

「はあい、分かりました」


◇ ◇ ◇


 腰鉈、腰鋸を下げて。しゅろ紐の束と小さな折り畳みスコップ。それに、弁当と水筒をザックに入れて背負う。基本的に持ち物はいつもそれだけだ。私の仕事場は、事務所の裏山。宿舎も事務所のすぐ脇にあるから、まさに職住接近と言うことになる。


 旗山はたやま自然公園。だいぶ薄くなってきている看板の墨の文字。その下の矢印に導かれるようにして、民家の軒先を縫って山に近付く。集落の切れ目から山道が始まる。そこから先が公園の敷地だ。


 自然公園と銘打っているが、たいした山ではない。雑木林にちょっと毛が生えたようなものだ。ただ、このあたりは昔の古戦場の跡で、それにまつわる史跡が多い。昨今の歴史ブームを背景にして、奥山の中にまで人が入り込む。連休に入れば、こんな田舎にもたくさんのハイカーが押し寄せてくる。


 農林業以外の現金収入が乏しい村では、観光客の落とすカネは喉から手が出るほど欲しい。しかし過疎の進む村には、お金も人手もない。当たるかどうか分からない観光開発に、一世一代の博打など打てない。せいぜい山道を小ぎれいにして、ハイカーの道案内や解説をするガイドを置くくらいが関の山だ。村の財政と人的資源を鑑みると、そのためだけに正職員を張り付けるのは厳しい。それで、安月給でも働いてくれそうな非常勤職員を求人したってわけだ。


 非常勤とはいえ、職のない村に降って沸いた求人。年寄り中心に応募はかなりあったようだが、一番若い私が採用された。私は独り身だし、草花にもそこそこ詳しい。これまで山仕事をしてきた経験もあるから、公園管理だけではなくて村有林の山仕事も手伝える。馬力はありそうだし、年齢を考えればそこそこ長く働いてくれそうだ。人事担当者は、そう考えたんじゃないかと思う。でも、私にとっては幸運だったと言えるだろう。もし不採用だった場合には、この山に入り浸る手段を別途考えないといけなかったからね。


 私は木道の状態や落石がないかどうかを確認しながら、ゆっくりと山道を上がる。旗山自然公園は村立だが、昔は庄屋一族の持ち山だったらしい。代々続いて来たその家の跡継ぎが途絶えて、当主が離村する際に村に寄贈されたと聞く。駅近くにある庄屋の屋敷は、そのまま史跡に指定されている。この山は生産の場としてはしょぼしょぼだが、庄屋一族にとっては稼ぎの対象ではなく、鎮守の森の扱いだったのだろう。


 さらに。この山はかつて、山岳宗教の修験者出立の地となっていた。山中にある滝で水垢離をして心身の穢れを落とし、修行の無事を祈ってから山へ分け入っていく。そのための、かどとしての聖地だ。それゆえ、平凡な雑木林でありながらどこかに威厳をたたえており、また道は細い踏み分け道のみで車は乗り入れ出来なかった。


 額の汗を拭いて、林内を見回す。山里は春が遅い。まだ桜が咲き出すには少し早い。しかし、林床ではスミレやアマナがちらほらと花を揺らしている。


 沢伝いに上り詰めていくと、中腹にこの辺りの武者が滝行に励んだと言い伝えられている滝があり、そこで道が二手に分かれる。滝裾の木橋を横切って左手に入っていくと、暗い木立の中を三十メートルほど行ったところで行き止まりになる。そこには小さな古いほこらがある。かつては、山仕事の人たちが作業安全を祈念する場所だったのだろう。


 右が本道で、山体を半周するような形でぐるりと遠回りしながら頂上に到る。頂上は広場になっており、電波塔がある関係で史跡としての風情は今一つだ。でも眺めはいいし、桜も多い。花見の時期には人でいっぱいになる。


 この自然公園の一周コースが九十分。せいぜいその程度の山だ。アップダウンが取り分けて激しいわけでもない。稜線伝いにもっと奥にも入れるが、ほとんどは民有地で娯楽施設や史跡もない。ただスギやヒノキの造林地が延々と続くだけ。だから、ここはある意味袋小路のような公園なのだ。


 頂上に辿り着いた私は、ベンチに腰を下ろして弁当を食う。この辺りでは一番標高の高い場所だけに、そこそこ見晴らしはいい。しかし、元々は谷底の村。十重二十重に山が折り重なる中では、視界が開けるという爽快感はない。


 空を仰ぐ。薄い雲を通して、じわりと生暖かい日差しが下りてくる。少しずつ春の気配が忍び寄ってきた。春花も咲き出したことだし、これから少しずつ入山者が増えてくることだろう。私は水筒のお茶を一気に飲み干して、ゆっくりとベンチから立ち上がった。


 村役場の昼のサイレンが鳴る。今日も早弁になっちまったな。

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