死霊ポロロッカクライム
田辺屋敷
第1話
世の中は『してはいけない』に溢れている。
社会、学校、スポーツなど、禁止とされている行為がそれぞれに設定されている。それらのルールによって世の中の秩序は保たれているのである。
だが、人間とは愚かなのだ。
鶴の恩返し
人は禁止されてしまうと、そこに得体の知れない誘惑を覚えてしまう。それはきっと本能に近いもの。もっと言えば、人間の業なのだろう。
ゆえに禁止された行為に及んでしまうのも、致し方ないことなのだ。
きっとそうなのだ。
だから――。
まだ肌寒い三月上旬。
夜の駅のホームにて、
人が本当に自殺を考える段階にまで来ている場合、止めるすべは現実的にないと言っても良い。何故ならば、もはやそこに救いを求めているからである。
そういう意味で、そのポスターは幸太郎の心には響かなかった。
死のう。死んでしまおう。
頭の中に木霊する言葉。
幸太郎にとって、あと考えるべきは死に方くらい。手段は多岐に渡ったが、自殺場所を求める幸太郎が最終的に行き着いたのは、とある立体駐車場の最上階だった。明かりはなし。電灯もない。それが気味悪さを増長していた。もしもこんな場所で人影を見掛けようものなら、幽霊の類だと勘違いしてしまうだろう。
幸太郎は駐車場の最上階に設置された落下防止のフェンスに手を掛け、空を見上げた。曇天。月も見えない。まさに自殺日和だなと思う。次にフェンス越しに下を見る。表通りから脇道に入った場所なだけに、人通りは思ったほどない。ギャラリーがいないのは、むしろ都合がよい。死ぬときはひっそりと死にたいのだ。
幸太郎は最後に自殺する原因を思い返す。
やはり原因は、父親に『するな』と言われたことを『してしまった』からだろう。
あんなことさえしなければ、自分にはまだ帰る場所が残っていたはずなのだ。なのに、してしまったばかりに、それを失ってしまった。
まったく以て愚かだったと悔やむほかない。
だが、そんな後悔は何も生まない。もはや取り返しなどつかないのだ。
「……行くか」
覚悟の決める深呼吸ののち、幸太郎はフェンスをよじ登ろうと足を掛けた。
そのとき。
幸太郎は不意に気配を感じて振り返った。背後二〇メートルほど先に人影があった。ぼろぼろの布を頭から羽織った謎の人物。それがゆらりゆらりと幸太郎に向かって歩き始めた。足元は裸足。ぺたりぺたりと近付いてくる。
「……な、んだ?」
得体の知れない脅威。何故かひどく不安に駆られ、脂汗が額に滲み、固唾を飲む。
そして距離が一〇メートルを切ったとき、偶然にも雲間から月が顔を覗かせ、闇を切り裂いてその者の顔を明かした。
「な、な、なん、だよ……」
見えない手に押されるように幸太郎は尻から地面にへたり込んだ。
その怯え様は、まるで未確認生物を目撃してしまったような感じさえあった。
だが、それもそうだろう。
相手の顔面が異様だったのだ。
顔面の左半分が溶けたように崩れ、短い角が額の皮膚を突き破って出てきており、真っ白な皮膚には青紫の血管が縦横無尽に走り、口からは肉食獣のような鋭い犬歯が伸びていたのだ。その姿は、まさに鬼や悪魔。
いったい何なんだ。いったい何者なんだ。
困惑する幸太郎だが、自分に危機が迫っていることを直感する。頭に警鐘が鳴り響いていたのだ。なので幸太郎は震える足に渇を入れて駆け出した。
逃げろ。
そうだ。今は一も二もなく逃げ出すべきだ。
あれは人間ではない。そんな相手が何をしでかすかなどわかったものではない。
だから逃げろ。
しかし、よほど慌てていたのだろう。それ以外に思い当たる節がない。
幸太郎は足を滑らせ、豪快に転がってしまった。
なにやってんだ、俺。
胸中で叱りつけるも、そんな猶予はなかった。化け物はすぐ背後に迫っていたのだ。
「……あ」
死ぬかもしれない。
幸太郎は漠然とそんなことを思った。
脳裏をよぎったのは、真っ白な背景に浮かぶ家族の顔。これが走馬燈というやつか。覚悟したわけじゃない。諦めたわけでもない。なのに「死ぬかもしれない」と思った。
しかし。
「いつ、私が外に出ていいと言ったの?」
化け物の背後からした、抑揚のない女性の声。それに反応した化け物が振り返った瞬間、その首が吹き飛んだ。凄い勢いで飛んでいった頭部は、二〇メートルほど先の地面で無造作に転がる。そして頭部を失った化け物が膝から崩れ落ち、その向こうにいた人物の姿が幸太郎の視界に入る。少女だった。白いセーラー服にコートを羽織った女子高生。
幸太郎はその少女の姿に見惚れた。
清流のようにさらさらとした長髪に、透き通った瞳。目鼻立ちは良く、美形とはこういう人を言うのだろうと思わせる整い具合。能面のような無表情も、今は彼女の澄んだ空気をより強調するようであった。
月明かりの下に佇むその姿は、純粋に絵になったのだ。
そう。すべてが絵になったのだ。
綺麗な髪も、線の細い体も、顔の造形も、右手に握られた木製バットも。
「……木製バット?」
幸太郎は化け物を見ても擦らなかった目を擦り、そして今一度目の前の光景を確認。だが、見えるものに変化はなし。それが現実だと目が訴えている。
「な――なに故!」
美少女にバット。そのアンバランスさに思わず声が洩れる。
少女が振り向く。しかし視線の先は幸太郎ではなかった。先ほど吹き飛んだ化け物の頭部。それが宙にゆらゆらと浮いていたのだ。
「しつこいわね」
そう呟くと、少女はバットを右に構えた。そこには強打者の風格。それと同時に化け物の頭部が動いた。少女に向けて凄まじい速度で飛んでくる。その口は開けられていた。そこから感受できるのは、害意。少女に食らいつこうとしていると、状況を飲み込めない幸太郎にも容易に理解できた。化け物の狙いは、少女の首だろう。飛んでくる直線上に少女の首があったからだ。しかし少女は動じない。まっすぐに相手を見据えながらタイミングを計り、振り被った。が、その瞬間、化け物の首が沈む。落ちたのだ。化け物の狙いは首ではなく、少女の足だったのだ。まずはその四肢を切り取り、じわりじわりと嬲ってやる。化け物の顔に浮かんだ笑みがそう告げていた。
一方、幸太郎も絶望していた。
あんな間近で方向を変えられては、打てるはずがない。
しかし。
「生憎、インコースとフォークは得意なのよ」
少女は左足を外側に開くと、そのままバットを振り抜いた。それは化け物の顔面をものの見事に捉え、弾き飛ばす。角度良好、飛距離充分。化け物の頭部は立体駐車場の外にまで飛んだところで、粒子となって霧散していった。
「ホームラン。……除霊、完了」
唖然とする幸太郎の前で、少女はそう呟いた。そして何かを言ってくるかと身構えた幸太郎を前に、何事も無かったかのように去ろうとする。
「いやいやいやいやいや、ちょっと待って!」
幸太郎が呼び止めると、少女は立ち止まった。
「なに?」
「なにじゃねえよ! 今のなんだよ! なんだよ、あの化け物! っつか、あんたはなにしたんだよ! っつか、なんでバット? 何者なんだよ、あんた!」
今までの鬱憤を晴らすように、幸太郎は矢継ぎ早に疑問をすべて吐き出した。
少女は相変わらずの無表情のまま、あっさりとした口調で答える。
「地元高校に通う二年生。成績は上の上で、運動は若干苦手。好きなスポーツは野球、贔屓の球団は広島。そして、夜な夜な除霊師として町を徘徊している健全な女子高生」
「最後は健全じゃねえよ!」
「そう。じゃあ私はこれで帰るから」
「いやいやいや、だからなんで行こうとするの? 俺の疑問を解いていこうよ!」
「なんで私がそんなことしないといけないのよ」
「いや、だって……。そう、俺は自殺しようとしたんだ。なのに、死ぬ前にあんなのを見せられたら、あれはいったい何だったんだって思うだろ? そんな疑問を抱えながらじゃあ死ぬに死にきれねえよ!」
「……あなた、死にたかったの?」
まっすぐに見据えられ、幸太郎はうっと言葉を飲んだ。
死にたい。そう思っていた。しかしあの化け物を見た瞬間、死ぬのが怖くなった。つまりそれは、心の底では死にたくないと思っていたからだ。それが本音なのだ。
「お、俺は……」
「あなたが本当に死にたかったのかどうかは、この際どうでもいいわ。とりあえずあなたが死ぬと悲しむ人がいるでしょ。家族とか。その人たちのために家に帰りなさい」
「……無いんだ。もう俺に帰る家なんて……。だから俺は死のうとしたんだ」
「そう……」
その時の少女は、無表情ながらも寂しそうに見えた。
「私のおばあちゃんにとって、おじいちゃんはとても大切な人だった。だからおじいちゃんが死んだとき、おばあちゃんもすぐにその後を追おうとした。でもしなかった。後追い自殺なんかしたら、あの世でおじいちゃんと顔を合わせられないと思ったから」
それはきっと彼女なりの制止の言葉なのだろう。
だけど。
「悪いけど、俺はべつに誰かの後を追うつもりはない。俺は、俺が死にたいから自殺するんだ。止めてくれるのはありがたいけど……」
「じゃあ、あなたの命を私のために使いなさい。死ぬ気概があるならそれくらいのことは出来るでしょ? もしもそうしてくれるのなら、あなたが抱いた疑問を解消してあげる」
「……えっと、ごめん。俺の話を聞いてた?」
「女子高生のために生きるのよ。男なら本望でしょ。それに、住む場所も提供するわ。私が一人暮らしをするアパートに住めばいい」
「なんか話が勝手に進んでませんか? って、つまりそれって……」
同棲ということか。それはずいぶんと魅力的な提案。少なくとも自殺するよりは魅力。
「それで、どうするの? 帰る所がない。でも、疑問があって自殺できない。そんなあなたはどうするの?」
「え、どうするのって聞かれても……」
たしかにどうすることも出来ない。訳がわからないことだらけで、何から尋ねるべきかすら定まらない。
だが、一つだけわかる。彼女に付いていかないと、何もわからないということだ。
「えっと、じゃあ、よろしく。俺、真木幸太郎」
そう言って握手をしようと手を差し出した幸太郎。しかし、気付けば少女の背中は遠くにあり、最上階から降りていこうとしていた。
「って、放置しないでください!」
幸太郎は意味がわからないまま、家に帰るという彼女についていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます