(5)

 岸野くんが、捜索チームの指揮で市街の方に移動した後。俺は瀬名川沿いを下って、処理場の周辺を見回ることにした。


 川の堤防を挟んで、川と太い側溝が平行に走っている。側溝は人が充分潜める幅があるが、重い鉄の蓋が隙間なくきっちり嵌っているので、その中には水道局の管理職員しか入れない。側溝は処理場の手前で巨大な升に水を落とし、そこで途切れる。そして、升の手前だけは蓋がはまっていない。升のところには、関係者以外立ち入れないように頑丈な鉄製の柵と鍵のかけられた門扉が設置してあるが、それは道路側にしか設けられていない。


 堤防を挟んだ反対側。そこは高さ数メートルのコンクリートの擁壁で遮断されているが柵はなく、擁壁の端部に設置された鉄梯子を上がって升の直上まで行ける。俺は、こっそりそこまで上がってみた。


「犬にはどう考えても無理だなー」


 小型の犬なら道路側の柵の間をすり抜けられるだろうが、升の縁は歩けても主線には降りられないだろう。川側からも犬がアプローチ出来る箇所はない。だが……升に繋がっている主線の側方には、いくつかの枝管がぱっくり口を開けていた。それらの径は、主線ほどではないが充分に太い。升の手前から三メートルほど飛び下りて主線に降りれば、そこから枝管までは梯子で上がれる。犬はともかく、人ならアクセス出来るな。


「うーん」


 ただ。怪我をするリスクを冒してまで、入り込むってことはちょっと考えにくいよなあ。それに枝管までは行けても、今度は主線から外に出る手段がなくなる。片道切符の行き止まりだ。第三者の侵入による事故を防ぐために、管理職員は清掃作業の時にだけ梯子をかけているんだろう。


「それにしても」


 下水管じゃないのに、えらい臭いなあ。溜まり水だと腐りやすいのかなあ。もう秋だというのに蠅の数も凄まじいし。俺は、さっさとそこを退散しようとした。その時だった。


「うー……っ」


 低い唸り声が、一番手前の枝管の奥から漏れてきた。それは……人の声じゃない。犬。犬だっ!


 俺は小石を落として、主線の水量を確認した。こつん!

 水音だけでなくて石が底に当たる音がするから、水があってもせいぜい十センチとか、そのくらいの水深だろう。排水溝なんだし、まとまった雨がない限り普段はそんなものなのかも知れない。四の五の言っていられない。携帯を濡らさないようにビニール袋で二重にくるんで、それを首から下げ、升の縁から思いきって飛び下りた。


 ばっしゃあん! 水深十センチどころの話じゃない。ほとんど水がない。着地の衝撃で足が痺れた。でも、そんなのを気にしている暇がない。泥を跳ね上げ、枝管の横の梯子を上って、唸り声が聞こえた管を覗き込む。


「うー!」


 唸り声が一際大きくなったかと思うと、もの凄い勢いで中にいた犬が吠えはじめた。


「わん! ぅわわわん! がうーっ!」


 管の中は真っ暗なはずなのに、ずっと奥の方に少しだけ明るくなっているところがあった。


「そうかっ!」


 犬は主線には入れないし、もし入ったが最後、出られずにそこで死ぬしかなくなる。だが、この枝管の先には路側から枝管に入れる隘路あいろがあるんだろう。もちろん、人間が出入り出来るサイズではない。この犬だけの専用出入り口だ。そこから出入りしてたってことなんだろう。


 さっき升の上で感じたとんでもない臭気。それは枝管の近くではさらに増幅されていて、堪え難いものだった。ああ。俺は。それでも確かめなければならない。真実を。そこに何があるのかを。


 かちっ。携帯マグライトを点けて、管の中を照らす。歯を剥き出し、激しく吠え続けて俺を威嚇する痩せ衰えた小さな犬の目がライトを反射し、炎のように光った。管の中に無数に散らばるパンや袋菓子。そのどれもが開封されていない。そして、それに埋まるようにして。


 折り曲げた膝に頭をもたれさせ、手を両脇にだらりと下げた五、六歳くらいの子供の腐乱した死体が。


 そこに……あった。


◇ ◇ ◇


 なぜだ! なぜだっ! なぜだああああっ!! なぜ犬畜生にすら分かることが、分からないんだあっ!!


 俺は側溝の底で四つん這いになって泥を握りしめ、大声で吠えた。


 この子が、何が原因でここで死んだのか。そんなことはどうでもいい! それより、なぜこの子はここにいなければならなかったんだ! この子の居場所はなぜここにしかなかったんだ! なぜ、友がわんこだけだったんだ! 親は何をしていた? なぜ誰も気付かなかった?


 おかしいっ! そんなのはおかしいじゃないかっ! 狂ってるっ! 何もかも狂ってるーーーーっ!!


 俺は大声で吠えた。どんなに泣こうが、喚こうが、吠えようが。この子の命はもう戻ってこない。ホームレスの事件の時にも苛まされた、言い様のない無力感。理不尽さに対する持って行き場のない怒り。どうしようもない悲しさ。

 俺は哭き、喚き、吐いた。自分が、この子をここに追いやった奴と同じニンゲンていうドウブツであることが我慢出来ない。それくらい……俺には……堪え難いことだったんだ。


◇ ◇ ◇


 俺は、錯乱する前に携帯で警察を呼んであった。警察の対応は迅速で的確だったから、岸野くんには悲惨な現場を一切見せなくて済んだ。それだけが、俺にとっては唯一幸運だったかもしれない。だが俺は警察の事情聴取が受けられないほど激しく錯乱していて、しばらく正気に戻れなかった。泥塗れで……激しく暴れたらしい。あちこち傷だらけ、あざだらけで。顔と手足に自傷防止用の布を巻き付けられ、留置室に入れられた。

 そして……。死体に寄り添うようにして吠えまくっていた泥棒犬も、ケージに収容されたものの、激しく吠え、暴れ、俺と同じように錯乱状態になっていたらしい。


 死体発見から一昼夜経って。やっと俺もわんこも少し落ち着いた。


 俺と顔馴染みの江畑刑事が、心配してひろとフレディに連絡してくれたらしく、俺が落ち着いたのを確認して二人が俺を迎えに来た。


「みさちゃん、大丈夫か?」


 心配そうにフレディが顔を覗き込んできたが、俺は返事が出来なかった。江畑さんが、ひろに声を掛けた。


「事情聴取は彼が落ち着いてからにします。状況から見て、たぶん事件性はないと思うので」


 事件性がない……か。俺はそれを聞いて、意識を失った。ひろの悲鳴と、血相を変えたフレディの顔だけが。俺の前を横切って……消えた。


◇ ◇ ◇


 俺は自宅ではなく、病院に運ばれた。そして、その日の晩から三日間、四十度を超える高熱を出したらしい。その間、意識がずっと戻らなかった。俺は……その時のことを何も覚えていない。風邪などの病的なものではなく、精神が被ったダメージによる心因性の発熱。俺を診た医師は、ひろにそう言ったそうだ。


 一週間入院して、やっと起き上がれるくらいに回復したが、俺は口が利けなくなっていた。言葉が……何も出てこない。俺は筆談でひろに訴えた。


『家に帰りたい』


 ひろはそれに無言で頷き、退院手続きを取ってくれた。


『もう一つ頼んでいいか?』

「なに?」

『あの犬を一旦引き取りたい。うちのマンションで犬が飼えないことは分かってる。だけど、このままなら殺処分されてしまう』

「うん……管理組合に事情を話して、一時預かり出来るかどうか掛け合ってみる」

『面倒かけてすまん』

「いいって」


◇ ◇ ◇


 俺が自宅に戻った翌日。検死が済んで安置されていた子供の遺体は、荼毘に付された。身元が分からない子供の遺骨は、このままでは無縁仏としてどこかに合祀されてしまう。俺は、それが不憫でならなかった。少し声が出せるようになった俺は、心配して俺を訪ねてきた梅坂ばあちゃんに掛け合ってみた。


「唐突な……お願いで……申し訳……ないん……ですが」

「ああ」

「もし……あの子の……身寄りが……判別……しなかったら。あの子の……遺骨を……秋子さんと……一緒に……して……あげて……もらえませんか?」

「……」

「誰にも……看取られずに……死んで……その後も……一人で……さまよう……のは……かわいそう……です」

「そうだね」

「せめて……娘さんの……友達として……一緒に……眠ってくれれば……と」

「分かった」


 ばあちゃんは、そう言って俺の背中をばしんとどやした。


「早く元気になんな! そんなへなへなじゃ、あたしも憎まれ口叩けなくて調子が出ないよ!」

「は……い」


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