(4)

「さて」


 俺は二冊の手帳を重ねて尻ポケットにねじ込むと、すぱっと立った。


「岸野くん。実はね、探偵をするには、一般の人には必要のないもう一つの特別な素養がいるんだよ」

「え? それって、なんですか?」

「耐えられないほどの悲しみや人間の汚さから、決して目を逸らさないってことだ」

「う……」

「これから、岸野くんには全面協力してもらう」


 俺は視線を床に落とす。


「間に合えば……いいけどな」


 二か月。犬の不思議な泥棒行為が始まって二か月だ。それが数日ならまだ救いがあったんだ。だが、二か月だ。たぶん、俺が決して望まない結末が待っているだろう。でも、俺たちは……いや俺はそれをこなさないとならない。


 俺は、岸野くんに指令を出した。


「岸野くん。犬の後を追いかけるのは無理だ。犬は、俺らには追っかけられないような退路を用意してあるんだろう。現場で捕まえられなきゃ、エサを運ぶ先を押さえるしかない」

「はい!」


 がたんと椅子を鳴らして、岸野くんが立ち上がった。


「犬が潜みそうな場所。それを片っ端から当たって、潰していくことにする。除外箇所が多いから、ある程度の人数さえ居れば一日でだいたい当たりは付けられるだろう」

「えー? 大丈夫?」


 俺は、ひろにさっきの市街図を見せた。


「小型犬が自由に行動出来る範囲は限られている。犯行箇所を外縁として円を書き、その中だけまず潰す。そこから外はまだ考えなくていい。次のステップだ」

「あ、そうか」

「それと、人が住んでいる民家の軒下なんかは犬の出入りが目に付きやすいから、最初から除外だろう。マンションやアパートも除外でいい」

「はい!」

「資材置き場。空き家、廃倉庫。犬が潜めるってだけじゃなく、そこに『人間が入れて雨露をしのげる』っていう条件でチェックしていってくれ!」

「分かりましたっ!」

「岸野くんは捜査チームを作って、情報を束ねてひろに連絡して。俺も出る」

「わたしは、地図を潰していけばいいのね?」


 ひろが、地図を持ち上げて確認した。


「そうだ。十五分おきに経過報告を入れる。岸野くんも、それを頼む」

「分かりました!」

「よし、ミッション、スタート!」


 先にうちから飛び出していった岸野くんの背中を見送って、俺もジャケットを手に取った。


「ねえ。みさちゃん」

「ん?」

「あのさ、前にみさちゃんが人探ししたっていうのはホームレスの人だったんでしょ?」

「ああ」

「今度のもそう?」

「いや……」


 俺は……俺は最悪のケースを考えたくない。だが……。


「ひろ。ここはJRや私鉄の駅からはかなり離れているし、基本一般居住区域で、商業施設も非常に少ない。ホームレスが住み着くことの出来そうな場所もない。この辺りにホームレスが出没するって話は聞いたことがないだろ?」

「……うん」

「たぶんそうじゃないと思う。だが、それ以上は俺にもまだ分からない」


 閉じた手帳で自分の尻をぽん叩き、その後尻ポケットにねじ込む。


「行ってくる」

「気をつけてね」

「ああ」


◇ ◇ ◇


 岸野くんは、友達やクラスメイト、部活の後輩たちに一切ネガな話を振らず、話題の泥棒犬を捕まえるぞと発破をかけて、捜索チームを立ち上げた。十数人の協力者が手分けして、犬の出没エリアをしらみ潰しに調べて行った。


 俺は市街地から少し離れた、川沿いの側溝や排水路の周辺を徹底的に調べて回った。人が住めるところに隠れると、快適さは上がる反面、見つかる危険性も高くなってしまう。だから、住むには適さないところにあえて隠れる。それしかないってこともあり得るんだ。そして、俺はそこで犬とその相棒を見つける可能性が高いと睨んでいた。


 そうさ。俺は、その瞬間を岸野くんには絶対に見せたくなかったんだ。


 人の死。それが病死のように予定の延長上にあったものだとしても、生きている俺たちは死を受け入れることに最大の抵抗を示す。世俗の垢に塗れている俺たちですらそうなんだ。ましてや死という現実に免疫のない岸野くんたちには、いきなりそいつを眼前に突き付けられるショックはでか過ぎる。出来る限り、現場直視だけは回避しなければならない。


 二時間ほどかけて、公園や倉庫、資材置き場などを一通りチェックした岸野くんチームは、手応えなしの報告を送ってきていた。俺の方も、犬が出入り出来て人間も潜めそうなスペースを見つけることが出来なかった。うーん……杞憂だったのかなあ。それが一番いいことなんだが。


 正午。午後一時から再開ということにして、昼食を取るのに一度解散にする。打ち合わせもあるので、岸野くんはうちに呼んだ。


「どう? 標的が小さいから大変だろ?」

「ううー、僕は探偵には向いてないですー」


 すぐに手がかりを掴めると思っていたのか、岸野くんはいささかがっかりしているようだった。


「調査業ってのは、こういう地味なものだよ。根気強くないと出来ないね。お父さんの苦労が分かるだろ?」

「はいー」


 昼食の配膳を済ませたひろが、ペケ印で埋まった地図をじっと見つめている。


「どした?」

「いや……瀬名川の処理場のとこ。ど真ん中なのに、あそこは調べないのかなーと思って」

「処理場自体は完全に鉄柵に囲まれてるし、水路のところもコンクリの擁壁が切り立ってて、犬には上り下り出来ないよ。擁壁には鉄梯子が掛かってるけど、その昇降は犬には無理だしね」

「そっかあ」


 いや……待てよ。俺は、ここでも原則に戻る。最初から無理と決めつけるな。処理場近くの側溝は太く深い。幅も深さも二メートル以上ある。水が常時流れるところだから条件は最悪だが、一時待避は出来るはずだ。候補から外すのは確認後でいい。午後は、そこから潰していくことにしよう。


「岸野くんは、最初のポイントをもう一度再確認して、その後少しだけ外に捜索範囲を広げて」

「はい!」

「じゃあ、次の定時連絡は一時半ね」

「分かりました! ごちそうさまです」

「うふふ。きれいに食べてくれて嬉しいわー」

「え?」


 岸野くんがきょとんとした顔をした。


「はっはっは。今の昼食は、ひろの手作りさ。いい腕だろ?」

「あ、そうだったんですかー! 前とはちょっと味の系統が違うなーと思ったから」

「えー?」


 ひろが、不味いと言われたのかと思ってぷっと膨れた。


「あ、いえ、おいしかったんですけど」

「けど?」

「なんか、うちのお袋が作るのに似てるなーと思って」

「あ……」

「へえ、やっぱり男味、女味ってのがあるのかなあ」

「と言うか」


 岸野くんがにこっと笑って、ひろにぺこりと頭を下げた。


「育ち盛りなんだからしっかり食べなさいって、そんな声が聞こえるみたいな」

「へー。そうなんだあ」

「おいしかったです!」

「ありがとー!」


 料理がほめられたひろは、すっかり上機嫌だ。


「うおっしゃあ!」


 うーん。味から言ったら、ひろの方が男味のような気もするが。でも、料理にこめられている気持ちは、間違いなく母親のそれなんだろうな。


「じゃあ、出ようか」

「はいっ!」


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