(2)

「犬なんです」

「はあああああ!?」


 わんこ? だああああっ。いきなりテンションがだだ下がる。そんなくだらんことで、俺に相談に来るなよー。ひろも、呆れ顔でやれやれって感じで首を振った。


 だが。俺はそこで、何か引っ掛かるものを感じた。それは、直感じゃない。確信だ。何か……違う。


 くだらんことで俺んとこに相談に来るなと岸野くんを一喝すると思っていたひろは、俺が急に表情を変えて黙り込んだことに慌てた。


「ちょ、ちょっとみさちゃん、何か気になるの?」

「分からん。それはこれから岸野くんに聞いて確かめる」


 俺が、岸野くんの相談事を一蹴しなかった理由。二つある。


 一つは、岸野くんの頭の良さ、だ。前の体験学習の時、彼はたった一個の石で俺の足留めに成功してる。それに、お父さんが隠していた小林くんのお姉さんの件。彼はその異常性に早くから勘付いて、セカンドオピニオンを得るために俺のところに来た。

 異常に気付き、充分推理し、それを納得できるまで確かめる。俺は彼に探偵になることは勧めなかったが、彼には探偵業に必要な素養の三点セットがすでにきっちり備わっていると言っていい。父親が調査業に従事しているからというわけでもないんだろうが、さすが親子だなと思う。


 頭が良く、観察眼の鋭い岸野くんは、犬に食い物を取られるという事実ではなく、その背景を見ようとしたんだろう。そして、それが見えないから俺のところに来たんだ。俺と同じで、きっと何かがずっと引っ掛かったままなんだ。その気持ち悪さに耐えられなかったと見た。


 もう一つの理由。それは、俺の後悔だ。


 俺は猫探しの時に大失敗をした。あの時は、依頼者が札付きという風聞で俺の初期値がねじ曲がり、結果として悲劇を防げなかった。

 そして今回。確かに今までのところ、岸野くんの訴えは馬鹿らしいの一言に尽きるが、まだ何も材料は出ていないんだ。その段階で俺が扉を閉めてしまえば、あの時と同じ失敗を愚かしく繰り返すことになりかねない。俺はあの時の轍は……絶対に踏みたくない。あの時の苦い思いは二度と味わいたくない。二度と。二度とだ! 全ての思い込みを排除し、全ての材料を揃えてから是非を判断しないとならない。馬鹿馬鹿しいと笑うことはいつだって出来るのだから。


 むすっと黙り込んだ俺の表情を心配そうに見ていたひろが、俺の代わりに岸野くんに聞いた。


「ねえ、それって犯人……っていうか、犯犬が分かってるってことでしょ?」

「はい。でも」

「うん」

「すっごいすばしこい上に、神出鬼没で。ほんのちょっとの隙にやられちゃうんです」

「へえー。泥棒犬かあ」


 ひろは、俺の懸念とは別の次元で岸野くんの案件に興味を示したようだ。


「それってさ。サザエさんの歌の泥棒猫みたいなものなんかなあ」

「いえ」


 茶化したひろへの返答にしては、恐ろしく真面目に岸野くんが否定した。


「違うと思います」

「え? どして?」

「お腹を空かせてる野良犬なら、ご飯を用意してやればそっちを食べるんじゃないかと思って、ドッグフード買って置いてみたんですけど」


 俺が聞き返した。


「手を付けない?」

「はい。いろんなのを試してみたんですけど、見向きもしないんです」


 岸野くんの懸念。彼がおかしいと思っていること。その一端が、俺の中でどす黒い雷雲のように膨らみ始めた。


「む……」

「ちょっと、みさちゃん、なんか気になるの?」

「ヤバいかも……しれない」


 俺のセリフに、ひろと岸野くんが揃って顔色を変えた。俺はいつも使っている手帳を尻ポケットから引っ張り出すと、そこに赤ボールペンでもう一度くっきり書いた。


『初志貫徹!』


 よしっ!


「じゃあ、俺がいろいろ質問するから、岸野くんの分かる範囲内でそれに答えていってくれ。その時には、回答のグレードを二つに分ける。間違いないということ。そうかもしれないということ。区別してね」

「はい! 分かりました!」


 岸野くんが、ぴしっと背筋を伸ばした。ひろも、よっこいしょという感じで俺の隣に座った。


「じゃあ、聞き取りを始めます」

「はい!」


◇ ◇ ◇


「まず、どんな犬?」

「小型犬です。たぶん雑種」

「どのくらいのサイズ?」

「ええと、チワワとかダックスフンドよりは少し大きいけど、柴犬よりはずっと小さいっていうか」

「なるほど」

「その大きさだと、すぐ近くに来るまで気配が分かんないんです」

「食べ物取られた時に、後を追っかけてる?」

「追っかけてます。でもすぐに植え込みとか軒下に逃げ込んで姿が見えなくなっちゃうんで」

「行き先が分かんないってことか」

「はい」

「姿を現すのは、その一匹だけ? 他の犬の気配はある?」

「ないです。いつもその犬一匹だけです」

「……。時間帯は?」

「決まってません。まさに神出鬼没で」

「怪盗ルパンかよ」


 ぎゃはははははっ! ひろがテーブルを叩いて喜んだが、俺の緊張は解けなかった。


「被害は一日一回だけ?」

「いえ、何度もやられます。僕らだけでなくて、小学生のおやつ、高校生やオトナの人のも」

「店とかは?」

「人の出入りがあって目に付くし、犬だと自動ドアが開かないからやられてないんじゃないかな。僕が知ってる限り、やられてるのは僕らの持ち物ばっかです」

「うーん」

「ええー? 小型犬でしょ? ドッグフード食べないで、人間の食べ物ばっか狙うって、贅沢犬ねえ。太ってるの?」

「それが。がりがりに痩せてるんです」


 !!


「痩せっぽちの犬が、日に何度もメシを盗みにくるってか!」

「はい」

「岸野くんの知ってる範囲でいいけど、その犬の被害はどの辺りで出てるの?」


 岸野くんが、少し考えて慎重に答えた。


「サクラ二中のグランド。明生鉄工のテニスコート。うずら公園。野田高のグランド。少なくても、その四か所でやられてるって聞いてます」

「テニスコート?」

「はい。うちの中学でも、テニス部がそこ使わせてもらってるので」

「ああ、なるほど」


 俺はこの辺りの地図を広げて、さっき岸野くんが言ったポイントを落とし込んでみた。


「なるほどね」


 ひろと岸野くんも、それを覗き込む。そして、二人とも腕組みをして考え込んだ。


「岸野くん。犬に盗まれる食べ物。どんなもの?」

「袋菓子と袋パンがほとんどです」

「弁当は?」

「うんと小さいやつは、持ってかれたことがあります。女の子のでしたけど」

「デカ弁には手をつけない?」

「いえ、それが開けられる状況になってた時は、中のお握りとかだけ持ってかれました」

「うん。そうか」


 む……。


「その犬は、吠えたり、威嚇したりする?」

「しません。とにかく逃げ足が早いんで、僕らはその犬の姿をじっくり見れたことがないんです」

「そうか。首輪は?」

「ないです」

「オスかメスか分かる?」

「うーん……」


 岸野くんが、じっくり考え込んだ。しばらくしてから、首を横に振った。


「分かんないです。オスっぽい感じかなあと思ったんですけど」

「どして?」

「マーキング、足あげてしてたから」

「へえー。マーキングはしてるんだ」

「いえ、僕がしつこく何度も目で追ってたんですけど、たった一回だけ」

「そうか」


 書き取った情報をつらつら見て、俺が知っている知識を重ね合わせると、一つの状況がくっきりと浮かんでくる。


「なあ、岸野くん」

「はい?」

「その犬の被害。ずっと前からあったわけじゃないだろ?」

「そうなんです。二か月くらい前からかな。そこからはひんぱんにどっかこっかでやられてて」


 二か月、か。


「なるほどね」


 俺は、拳を固めてそれでテーブルの上を思いきり叩き付けた。がんっ!


 いきなりのアクションに驚いたひろと岸野くんが、体を引いた。


「あ、済まん。怒ったわけじゃないんだ。俺がさっき言ったヤバいかもっていう懸念」

「うん」


 岸野くんとひろが、ぐいっと身を乗り出してくる。


「それが、ほぼ裏付けられた」

「えーっ!?」


 のけぞって驚く二人。


「ちょ、ちょっと……」

「これから説明する。二人とも、よおく聞いてくれ」

「うん」

「はい!」


 岸野くんも、切羽詰まった表情で顔を突き出してきた。


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