第八話 鬼婆

(1)

 思わぬアクシデントがあって。中村家のげーげー行進曲は、いっそう賑やかになった。ゲゲゲの鬼太郎じゃあるまいし、朝から晩までげっげっげげげのげーじゃ、俺の精神がどんなに防錆加工してあっても胃酸で錆びる。さすがに根性が保たん。


 ひろの方がつわりの始まりが早かった分、収まるのも早そうで、そっちはなんとかなりそうなんだが、姉貴のはどうにもならん。今、まさにピークだ。姉貴をあの部屋に捨て置いていたら、今頃は部屋がげろの海になっていたことだろう。だが、俺はあえて姉貴に極力出社するよう命じた。


 それだけひどい状態でも、わたしはがんばってますという姿勢を他の社員に必死にアピールして、同情を勝ち取らないとならないからだ。俺がどんなに姉貴に同情したところで、それにはラーメン屋の使用済み箸袋くらいの価値しかないが、会社のそれは別だからな。

 上司のセクハラで望まない子供を授かってしまったけど、めげずにシングルマザーを通す覚悟を決めた悲劇のヒロイン。そういうイメージをしっかり印象付けて他社員の同情と支持を勝ち取ることは、これから姉貴一人で子育てする際のサポーターの確保につながるからだ。


 つわりが少しましになってきたひろは、腰の重い姉貴とは逆で、もう出社の意欲満々だ。これまでの蟄居生活のストレスを一気に晴らすべく、解禁日を手ぐすね引いて待っている。こっちは逆に、張り切り過ぎないように釘を刺しておかないとならない。無理して流産でもされようものなら、全てぱあだからな。もちろん、ひろもそれは分かっているだろう。

 そう、ひろはいいんだ。欲しくて、出来て、あとは産むところまで無理をしなければいい。ごくごく普通の妊婦のパターンだからな。


 問題は姉貴の方。難題山積だ。そしてそれは、姉貴自身にはまだこなせそうにない。可及的速やかに俺が手当てせんとならん。ったく、誰がこんなクソ面倒なことをタダで引受けるか! ぎっちり銭こを搾り取ってやる。


 だが二人の健康管理だけでも手いっぱいの俺は、今現在機動力が全く使えない。どうしてもしばらくは助っ人がいるんだ。そして、それはひろには予告してある。それが誰とはまだ言っていないが。家政婦? まさか。ハウスキーパーを頼んだら、月いくらかかるか分かったもんじゃない。冗談抜きに、三人揃って干上がってしまう。自治体のマタニティサポート制度を使う手もあるが、かなり条件が厳しいし、スケジュールを臨機応変に動かせない。

 それに、俺の狙いは機動力確保だけじゃない。ひろも姉貴もまだまだ甘い部分。そこを短期間でスキルアップしておかないと、子育てがこなせなくなる。俺にとっては、むしろそっちの方が主目的かもしれない。


 ということで。姉貴を会社に叩き出し、ひろの具合が安定していることを確かめた上で、俺は久しぶりに自分の事務所に出向いた。と、その前に、と。挨拶しておこう。


「正平さーん!」

「おう」


 ステテコ姿の正平さんが、口をもぐもぐさせながらのったり出てきた。


「はっはっは。中村さん、どうしたい。しばらく姿を見んかったが」

「いろいろありましてねえ。家に缶詰だったんですよー」

「ほう? 奥さんが体調でも崩したかい?」


 正平さんが、心配そうに俺に近寄ってくる。


「いえ、ね。家内が身ごもったもんで」

「おおっ!」


 ぱっと。正平さんが相好を崩した。


「おめでとう! そらあ、めでたいわ! そうか。つわりがひどかったんかい?」

「そうなんですよー。会社からも出社ストップがかかって、自宅軟禁状態だったもので、私も外に出られなくてね」

「なるほどな。少しは落ち着いたんかい?」

「だいぶよくなりました」

「なによりだ。男の子かい、女の子かい?」

「まだ分かんないです。どっちでもいいんですけど。無事に生まれてくれれば」

「はっはっは。そうだよな。いやあ、めでたいっ!」

「そんなわけで、しばらくこっちは開店休業になると思いますが……。すんません」

「いやいや、奥さんの世話の方が先だろ」


 上機嫌の正平さんに挨拶を済ませて、俺は久しぶりに事務所の鍵を開けた。ここにはしばらく来れなくなるなあ。

 事務所の臨時休業前最後の案件。その依頼者が俺自身だと言うのはとことん皮肉なことではあるが。


 俺は腕時計をちら見した。


「そろそろだな」


 さて。『あの人』と交渉をするなら、俺はぎっちり根性を据えないとならない。覚悟しよう。


◇ ◇ ◇


 だんだんだん!


 事務所の扉が乱暴に叩かれた。来たな。俺はすぐに力任せに引き戸を開けた。


 ぎゃるるるるっ。ぎぎいっ!


「相変わらずおんぼろだね」

「勝手に御殿になってくれると嬉しいんですが、ぼろくなる一方でねー」


 不愉快な軋み音に顔をしかめ、眉間に皺を何本も寄せて、不機嫌そうな顔で突っ立っていたのは、ウルトラ守銭奴の梅坂ばあちゃんだった。


「まあ、お入り下さい」

「ああ」


 椅子を勧めて、事務机の上に梅昆布茶と羊羹を出して並べる。


「どうぞ」

「ほう? 前に来た時ゃ茶ぁしか出なかったが?」


 とほほ。さすが超始末屋のばあちゃんだ。よく覚えてるわ。


「それで、大事な話ってのはなんだい? カネのことなら追加はビタ一文出さないよ!」


 茶壷探しの時に調査料の四万を文句なしで支払ってくれたのは、ばあちゃんにとっては例外中の例外だったんだろう。その効力は、もうとっくの間に切れてる。当然、ばあちゃんはカネに絡むことには警戒心剥き出しでバリアを張る。


 俺が茶壷を取り返して以降、少しは守銭奴ぶりを和らげるかと思ったが、そんなのは全く関係ないということらしい。正平さんの話だと、相変わらずと言うより前よりさらにパワーアップした感もあるそうで。蓄財活動の範囲はよりいっそう広がり、すでに商売の域に達しているだろうとのこと。ひええ……。


 でもそのくらいでないと、俺はばあちゃんに依頼を振れないんだ。


「いえ、実は逆なんですよ。梅坂さんにお願いしたいことがあるんです。それを打診させていただこうかと……」

「あたしにお願いだってえ!?」


 予想外の俺のリクエストに、ばあちゃんが目を白黒させて絶句した。


「もちろん、それに対しては謝礼をお払いします。正式に契約を結んでということになりますね」

「ほう……」


 カネ絡みの話ということで、ばあちゃんがぐいっと身を乗り出してきた。


「この嫌われ者の婆に何をさせようっていうんだい?」

「そのままです」

「はあ?」

「実は、しっかり嫌われ者をしていただきたいんですよ」


 ばあちゃん、二度目の絶句。しげしげと俺を見つめていたばあちゃんが、しばらくしてから梅昆布茶をずずっとすすり、にやりと笑った。


「あんたも、ほんとに物好きだね。あたしがあんたの頼みを引き受けるかどうかは、あんたの話を聞いてから決めるよ」


 いつもは自分が言ってるセリフ。それをばあちゃんが言うのはなぜかくすぐったかった。


「はい。じゃあ、これから事情を説明します」

「ああ」

「まず……」


 ひろが妊娠し、つわりがひどいということ。も一つ、姉貴もほぼ同じタイミングで妊娠して、やはり重度のつわりで苦しみ、自力で生活するのがしんどくなって俺のところに転がり込んでるってことを説明した。


 娘さんを死産して、その後子供が出来なくなってしまったばあちゃんに、こういう話題を振るのは無神経なのかもしれない。だけど家計をしっかりやり繰りし、養子の子育てもきちんとこなしたばあちゃんは、主婦としては極めてまともな感覚の持ち主だと思う。ばあちゃんには、『主婦』としても『母親』としても、俺やひろの親のようなネジの外れたところがないんだ。


「ふうん……」


 ばあちゃんは、特に妊婦云々ということには反応しなかった。完全に商売人のモードに入ってる。


「ってことはだね。あんたは、あたしにおさんどんをさせようってのかい?」

「いいえ」

「は?」


 てっきりそういうことだと思っていたばあちゃんは、のけぞって驚いた。


「違うのかい!?」

「違います。おさんどんは、今私がやってるんですよ。それで間に合ってます」

「へえー、あんたがねえ」


 じろじろと見回される。


「ですけど、それはちびっと変わってますよね?」

「ふん? 奥さんが働いてるんだろ?」

「はい。でも、私も働いてます。稼ぎはまるっきり違いますけどね」

「ははあ」


 ばあちゃんが、何か嗅ぎ付けたっていう顔をした。


「なるほど、ね」


 にやっと笑ったばあちゃんが、何度かうんうんと頷いて。それから穏やかな声で言った。


「うん。あんたは一見変わってるように見えるけど、すっごいまともだね。あたしに言わせりゃ、あたしの年代の連中より古風だよ」

「そうなんですかね?」

「そうさ」

「じゃあ……依頼の中身を切り出していいですか?」

「ああ」


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