(4)
俺たちが署を出て引き上げようとした時、血相を変えて走り寄ってくる女の姿が見えた。
「あれ? ひろじゃん。どした?」
全速力で走ってきたひろが、俺を見つけるなりその勢いのまま力一杯抱きついた。
「いてててて。痛いって」
「なんともなかったのっ!?」
「んなわきゃねえだろ。腹にナイフがぶっすり」
どすんと腰が抜けてしゃがみこむひろ。
「わはははは。もっとも穴が開いたのは、こっちだけどな」
俺は、ナイフが貫通した跡が生々しく残っている雑誌の写真を見せる。現物は証拠品として、警察に取り上げられちまったからな。
ひろの目にぶわっと涙が浮いて、わんわんと泣き始めた。
「無事だったんだ。そんなに泣くなよ」
「だ、だってえ……えぐ」
「普段の鍛え方が足んなくて俺がへこんだから、ナイフが貫通しなかったのさ。もし頑丈なフレディが的ならぶっすり行ってたぜ」
呆れ顔のフレディが俺をど突いた。
「おい、みさちゃん。そう言うが、俺にあんなに簡単に飛ばされるってのも考えもんだぞ」
「いやいや、俺が筋肉マッチョになったら、そもそも重くて空を飛べん。あんなん出来るのはスーパーマンだけだ」
命に関わるようなハードな事件があったとは思えない俺たちの軽口を聞いていて、ひろの気持ちも落ち着いてきたんだろう。
「ほんとに……なんともなかったの?」
「二ミリくらい刺さったかな。カットバン貼ってもらったさ」
俺がシャツをぺろんとめくって、腹の傷を見せた。
「……」
「ああ、頼むから、ここであばらの本数数えるのは止めてくれ。さすがに恥ずい」
◇ ◇ ◇
そのまま解散でもよかったんだが、せっかく一件落着になったことだし、フレディを自宅飲みに誘った。フレディの相手はひろに任せて、俺はつまみを作る。
遠征したスーパーの店長が、俺たちが迅速に騒動を治めたことにえらく感謝して、お礼だと言っていろいろ商品を持たせてくれた。今回はまるっきり骨折り損のくたびれ儲けかと思ったが、なんぼか現物支給があったってことだ。それは、同じただ働きのフレディにも還元しないとまずいだろう。と、いうことで。俺がしつらえたオードブルは、普段のうちの食事に比べればかなり豪華になった。
台所でばたばた走り回る俺をじっと見ていたフレディに、声を掛けられる。
「なあ、みさちゃん」
「なんだー?」
「相変わらず、まめだな」
「て言うか、今はこっちが本業だからな」
「探偵業の方は?」
「さっぱりさ。カネにならん案件ばっかで、めげそうだよ。今回もタダ働きだったし」
「……済まんな」
「いいって。フレディもタダ働きだろ?」
「ははは……そうだな」
俺がダイニングテーブルに上げた大皿から、オードブルを一つつまんだフレディが、ひろの方を向いて言った。
「奥さんはいいね。こんなに腕のいいシェフが専属で」
「うふふ」
ひろが、テーブルの上に頬杖を突いて小声で答えた。
「わたしは……何も出来ないから」
フレディは、じいっとひろの顔を見つめていたが、わずかに笑ってひろの言葉を打ち消した。
「そんなことはないよ」
「そうですか?」
「ああ。奥さんは、みさちゃんを絶対に裏切らない。心から信頼してる」
ひろが体を起こして、うんと頷いた。
「それで充分さ。あとは、どうでもいいんだよ」
ふう。今回、体が傷付いたのは俺だったが、心の古傷をひどく引っ掻かれたのはフレディの方だったかもな。
フレディ。心に重石を抱えたまま、世の中を渡っていくのはしんどいよ。特に俺らのような商売の人間はね。確かに、小汚い連中がいっぱいうろうろしてるってのは間違いなく事実さ。でも、それが全部じゃないんだ。俺たちは、商売柄汚いものがすぐに目に付いちまう。きれいなものは努力しないと見えないんだ。その努力を……きちんとしないとならない。懐疑と諦念の泥沼に足を突っ込んだままでいると、心のアンテナが錆びる。それは、俺らの商売に差し障るんだ。
なあ、フレディ。もうそろそろ……跳ぶタイミングだと思うぜ。スーパーでは、あんたがロイター板になってくれた。だから、今度は俺がなってやるよ。俺はあの男に言いたかったセリフを、そっくりそのままフレディにも言おうと思う。あの巨体に俺が耐えられるかどうか……かなり微妙だが。
俺はエプロンを外して席に着き、とっておきのワインの栓を抜いた。
きゅぽん!
「さあ、飲もうぜ!」
「ああ、うまそうだ」
「わあい! パーティーだあ!」
【第五話 ロイター板 了】
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