(4)

 俺には、もう一つ強く懸念していることがあった。そして、それが起こらなければいいなと願っていたが。それは……起こってしまった。


 依頼者の女が俺の事務所を出た十日後のことだった。三島の部屋から異様な臭いがするという隣人の通報で、たまりかねた大家が部屋に踏み込んだ。三島は、部屋の真ん中で糞尿まみれになって、うずくまったまま死んでいた。死因は餓死だった。

 冷蔵庫の中には食料がいっぱいあり、部屋の鍵もかかっていなかった。なぜその状態で三島が餓死するはめになったのか、誰もがその不可思議さに首を傾げた。もし病気で動けなくなったなどの事情があったにせよ、救急に電話くらいはかけられるだろうにと。口さがない連中は、猫殺しのばちが当たったのさと三島の死を嘲笑うんだろう。だが、俺はそれが哀れでしょうがなかった。


 そう。そいつは三島ではない。ぶち猫だ。


 主人である三島が猫を相手に呟いていたこと、よくする仕草は覚えていて、それはある程度模倣できたんだろう。携帯にかかってきた電話に出たり、財布の中の金を支払ったり、簡単な会話を交わしたり。俺のような探偵に何か頼むってのは高度なことのように思えるが、テレビドラマの話を猫にしていれば、猫的にはそんなものかと思うんだろう。ああ、お金っていう紙切れを払えば頼み事を聞いてくれる人がいるんだなという感じで。いくらかかるか気にするってのは、猫の概念じゃなくて主人である三島の概念だ。ぶち猫はそれを模倣しただけ。パトロンに切られて収入が細っていた三島の普段の言動が垣間見える。


 だが、人間としての体を持ち、人間の言葉を使えて、人間として行動は出来ても、所詮は猫に過ぎない。ぶち猫には、人間のライフスタイルというものがほとんど理解出来なかったんだ。

 例えば。本来服を着ることなんかない猫にとって、衣服は何の意味もない。その価値が分からない。もちろん風呂嫌いの猫が、自発的に風呂に入ることもない。嗅覚を麻痺させる臭いを肌に付ける化粧なんかまるっきりナンセンスだし、髪をいじる意味なんか何もない。俺の報告を聞きにきた時には、そういう小汚い状態だったってことだ。


 そして、俺が三島と猫との入れ替わりに気付く決定打になった、三島の手首にはまっていたぶち猫の赤い首輪。あれも、ぶち猫にとっては予想外だったんだ。首輪は三島がぶち猫に危害を加えようとする前に、犯行後の死骸から足が付かないようにと猫の首から外して、一時的に自分の手首にはめたんだろう。三島になってしまったぶち猫は手首のそいつがうっとうしかったが、外し方が分からなかったんだ。もちろん、服の脱ぎ方や着方も分からなかったに違いない。だから着たきりだった。そしてトイレも使えず、水道の蛇口すらうまくひねれなかった。


 ぶち猫は、何をするにも勝手が分からない。人間には猫のような鋭い嗅覚も聴覚も視覚もないし、猫として暮らしてきた様式が何一つあてはまらない。人間の体を持て余して、ストレスだけがぼんぼん膨らんでいったんだろう。

 もっと深刻なのは餌だ。家猫として甘やかされ放題のぶち猫は、決まった餌しか食べなかったんだろう。そして、それはウエットタイプの猫缶だと見た。粒餌なら自力でなんとか出来たのかもしれないが、缶を開けるのは猫の手には負えなかった。冷蔵庫の中に自分が食べられるものが入っているとは思わなかったのかもしれないし、もし知っていてもそれをどうやって食べたらいいのか分からなかったんだろう。


 まるっきり勝手が分からない、人間のライフスタイル。摂れない餌。主人に突然殺意を突き付けられたショック。そして、いきなり一人になってしまった孤独感。一瞬にして、主人も、仲間も、餌も、平穏な暮らしも全て失ったぶち猫は、三島に襲われる心配がなくなっても、恐怖と飢えでただうずくまるしかなかったんだ。


 そして、そのまま衰弱死した。


「ふう……」


 三島も、自らが犯した猫殺しの罪に追われるように市街地を逃げ回り、最後に車にはねられた。確かに見かけは因果応報かもしれないが、生殺しのような状態で死んでいったぶち猫に比べれば、はるかにわずかな苦痛であの世に行けたことだろう。なんか不公平だなと……思う。


 そう。最初にあの女がここに来た時、逃げた猫にはもうないはずの首輪を、なぜ特徴として言い残したのか。考えてみれば当たり前だったな。それは、ぶち猫が覚えている自分の姿だったからだ。


「それにしても……なあ」


 俺はやりきれなくなる。三島の歪んだ心がもたらした、思わぬ交差。そして、そこから不条理な悲劇が二つ起きた。俺は何が起きたかは解き明かせたと思うが、悲劇を防ぐことは出来なかった。


「お前が犯人だ! で済むってわけにはいかないもんなあ」


 もっとも。解決に当たったのがへっぽこな俺じゃなくて、有能な探偵であったとしても、猫を人間に、人間を猫に戻すなんて芸当は出来ないだろう。それは探偵の仕事じゃないからね。


 追加を書き込んでぱたんと手帳を閉じた俺は、それを机の上にぽんと放って、いつものように特売のチラシに目を落とした。そして、ふと考えた。もし俺に女房がいなければ、ぶち猫が入った女に深入りしてその命を助けることが出来ただろうか、と。


 いや……。俺はゆっくり頭を左右に振った。


「それは無理だな」


 人には人の、猫には猫の、容れ物がある。それぞれの心にぴったりの容れ物。そこに他のものを入れようとしたところで、決して収まらないだろう。俺には俺の容れ物がある。それを女に入れても、猫に入れても、庭箒に入れても決して収まるまい。

 入らない心は零れるだけだ。三島の心がパトロンの男に入りきれずに零れたように。猫たちが三島の心の闇を埋められずに、命ごと零れたように。俺もまたぶち猫の心を埋められず、零れるだけだっただろう。どんなに魅力的な女の形をしていても、それはただの猫なのだから。


 ぴぴん。考え込んでいたら、机の上の携帯が鳴った。ひろからのメールか。どれ。


『晩ご飯はサンマきぼんぬ』


 む。猫絡みの不可解な事件だっただけに、猫の好物はちと遠慮したいところだが。でも、ひろの心がサンマを欲しているのなら、それは満たしてやらんと始まらんだろう。まあ、いいか。


 俺は、さかっとメールを返した。


『おけー。塩焼きでいいか?』



【第一話 猫探し 了】

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