(3)

 なんぼ電話番だけでいいと言われていても、ここは自室じゃない。どんなに暇でもリラックスはできないのさ。自室で暇なのは歓迎だけど、ここで暇だと逆に緊張感が強くなるんだ。それがわかった小林さんは、徐々に事務仕事を覚えようとし始めた。

 そして、俺は最低限しか指示を出さない。面倒くさいからじゃなく、姿勢が指示待ちのままだと積極性を引っ張り出せないからだ。できる範囲で、ゆっくりでいい……それがわかったことで、小林さんの仕事ぶりがだいぶましになった。まだてきぱきとは言えないが、だらだらでもない。

 そんなもんだろ。手を動かすことで、意識が自分ではなくて外を向く。俺の目的は、そこだからな。


 ただ、小林さんが自分と外部環境との間にかけてある橋はまだ脆弱なんだよ。今はこの事務所がプロテクターになってるから、無理に打って出る必要がない。そして、帰宅後は実家がプロテクターになってる。閉じこもっていた殻から手足を出してそろそろと歩き始めたけど、人間ではなくてまだカメだ。ちょんとつつかれただけで、すぐ殻の中に引っ込んでしまうだろう。そこがなあ……。佐伯さんだけでなく、小林さんにもどこかにブレークスルーが要るんだよな。


 おっとっと。意識を佐伯さんの案件に戻そう。

 手元の書類の束をもう一度確認する。案件は片付いたが調査費用の支払いがまだ済んでいない。支払いが完了するまでは、佐伯さんはここに強制的に紐付きってことになる。金銭的なごたごたを全部片付けるために、佐伯さんが来所する今日。ここでしっかり聞き取りをして、彼女の状態と意向を確かめた上でアフターケアをスタートさせる……そういうことになるだろう。

 ただ、大きな問題が二つある。ケアスタッフの整備と彼女自身の心理の改善だ。


 スタッフに関しては、どうしても固定できない。そこは流動的にならざるをえない。

 彼女の後ろ盾は、きっと勝山のばあちゃんが務めてくれるだろう。彼女に精神的安心感を与えてくれればいいから、ばあちゃんはそんなに気張らなくていい。でも、心のバランスがものすごく悪い佐伯さんの精神面でのサポートを、全部ばあちゃんに任せるのは無理だ。佐伯さんの場合、自我のバランスが崩れてるってことが外から見えにくい。そこが一番の難点なんだ。ばあちゃんがそれを甘く見ると、共倒れになってしまう。

 それに。ばあちゃんは、佐伯さんがこれ以上崩れないように支えることはできても、前に牽引することができない。ばあちゃん自身がお寂しさまを常に引きずっている人だからね。お寂しさまが二人の間で強く共振してしまうと、二人揃って足が前に出なくなる恐れがあるんだ。だから、牽引役はばあちゃん以外の人に頼まなければならない。

 俺か? 俺は、スタートアップは手伝えるよ。でも、俺自身ができるのはそこまでなんだ。先々のことを考えたら、同性で佐伯さんが憧れたり目標にしたいなと思えるようなオトナの女性がどうしても必要になる。それをどうやって確保するか、だ。


 心理面での改善は、一朝一夕にはできないよ。こっちはうんとこさ時間がかかる。何せ子供の頃からの歪みが積もりに積もってる状態だからな。歪んだ状態がベースになってしまっているから、佐伯さんは誰かに指摘されないとその歪みが意識できない。そこをどう改善していくか、なんだ。しかも子供ではなく、年齢的にはもう大人だし。プライドや意地もあるだろうし。

 まあ、俺や関係者のサポートで間に合うか、プロによるカウンセリングが必要になるかは、しばらくやってみて判断……それしかないな。


 ぱたっと手帳を畳んで、小林さんに指示を出す。


「そろそろ来るかな。お茶の用意頼むね」

「はい」


◇ ◇ ◇


「おじゃまします」


 俺が引き開けたドアからこそっと入ってきた佐伯さんは、見るからに元気がなかった。内憂外患だろうなあ。今までは、田中に対する意地と生活に追われる切迫感であえて目をつぶっていた職場の不具合。それが、危機の低下とともに意識の上に浮かび上がってきたと見た。


 店長のセクハラは、まだ田中ほどじゃないと割り切れていたんだろう。だけど、突然三日間休んだことで同僚の視線が冷たくなれば、店長のアクションが我慢できなくなるはず。図式が田中と全く同じだからね。

 仕事から解放された時間で元を取れれば、まだ耐えられるかもしれない。でも娘さんを保育園から引き取って帰れば、今度は子供の世話で忙殺される。誰にも頼れないまま、一人きりで何もかもこなさなければならない。恐ろしいくらい悲劇的な、ワンオペ育児だ。眠っている時間以外……いや、眠っている間すらも気が休まらないと思う。いかに佐伯さんの芯が強いと言っても、このままじゃ無理だよ。


「ご足労いただきありがとうございます。あれから少しか落ち着きましたか?」


 肯定的な返事が、すぐ出てこなかった。


「……ええ」

「まず、最初に契約の後片付けからやりましょうか」

「はい。お願いします」


 小林さんに三点セットを持ってきてもらう。


「これが契約書、調査報告書、領収書になります。ただこれは異例中の異例の措置で、うちではもう絶対にやりません」

「どうしてですか?」

「押し売りと同じだからですよ」


 俺は、全力で苦笑いした。


「これやっといたからお金ちょうだいってのは、業務がいかにまともであっても押し売りです。押し売りは犯罪です」

「あ……」

「でしょ? なにより先にまず契約なんです。契約書を事後に提示するなんて、絶対にやっちゃいけないんです」


 大判封筒に入れてあった契約書を引っ張り出して、改めて調査項目と費用を確認してもらう。調査内容とそれに要する費用を確認してもらい、依頼者の了承をもって契約の成立になる。紙切れに名前書いてハンコ押せばそれでおっけーなんてわけにはいかない。それがたとえ事後であってもね。相互に瑕疵のない契約にすることは、事業者として最低限守らなければならない基本ルールだ。


 真剣な表情で契約書の文面を目で追っていた佐伯さんは、内容に納得してくれたようだ。契約書に氏名を自署し、印鑑を押してくれたところで、まず一つ終了。


 続いて、最終報告書の確認。俺が請けたのは、ストーカーの撃退ではない。田中とストーカーたちのつながりであり、直接の黒幕だった田中の正体と、さらにその上部にある組織との関係解明だ。

 ただ、上に行けば行くほど話がきなくさくなり、佐伯さんにとって知る意味がなくなる。報告書では、田中が首謀者ではなく下っ端の一人に過ぎないことを明記するに留めた。


「勝山さんの部屋で説明させていただいた内容を、文章にまとめただけです。佐伯さんのお手元に置かれてもいいですし、必要がなければこちらで処分いたします」

「あ……要らないです」


 そりゃそうだ。こんな物騒なもん、もしフィクションだったとしても読みたくないね。ましてや自分に降りかかっていた事実なら、もっと見たくないだろう。


「了解しました」


 報告書を返してもらって、すぐに廃棄文書用のトレイに放り込んだ。後で、小林さんにシュレッダーにかけてもらおう。


「最後になりますが、本来ならここで支払いなんです。でも、佐伯さんにはまだ十分な収入や貯蓄がないので、現時点では支払いができません。そうですよね?」

「……はい」

「で。そろそろ、あの資金のクリーニングが終わりそうなんです」


 さっと顔を上げた佐伯さんが、心底ほっとした表情を見せた。


「これから、あなたの資産管理を請けてくださる三中さんがこちらに見えるので、管理委託契約締結後に諸費用支払い手続きということにさせてください」

「助かります!」


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