(7)

 俺は、それに対していいとも悪いとも言わなかった。ただ、じっと佐伯さんの口が開くのを待った。


 そう。これもチャンス。そして、このチャンスが最初で最後ではない。佐伯さんは、とても前向きで折り目正しい。彼女に触れた人たちはそのけなげな姿に打たれて、誰もが後見してあげるよと手を差し伸べてくれるだろう。

 ただ……その動機が彼女への同情だけなら先々続かなくなる。彼女が欲しい心情的なサポートが通り一遍になり、彼女が要らないと思っている年配者の居丈高な人生訓が一方的に押し付けられるようになると、密接ケアが逆効果になる。双方が不幸になってしまうんだ。そんなことになるくらいなら、むしろ客観視できるカウンセラーに任せてしまった方がまだマシ。


 自分は今何が欲しいか。それを一番切実に、真剣に考えているのは佐伯さん自身。今までは、その意識の持って行き場がなかった。でも、ストーカーの件が解決して、今は少しだけ心の余裕が出来た。その段階で『次』をどうするか。さっきの子供の養育をどうするかと同じで、ここで佐伯さんからすぐ返事が来るようなら、それはまだ本音ではない。俺は、冷却時間をもっと確保しなければならない。


 佐伯さんは俯いたまま、ひたすらじっと考え込んでいた。焦れて先に動いたのは、勝山さんの方だった。


「そうね。いきなりわたしがこんなことを言い出したので、優花ちゃんびっくりしたんでしょ。わたしが申し出たのは、優花ちゃんに同情したからでも、わたしが寂しいからでもないの。そうね、強いて言えば……」


 勝山さんは、俺をちらっと見てから細く長い溜息を漏らした。


「……後悔からかな。わたしの間違った選択の」

「後悔、ですか?」


 顔を上げた佐伯さんが、ばあちゃんの顔をじっと見つめた。


「そうね。中村さんには話をしたことがなかったから、一緒に聞いてもらおうかな」

「何を、ですか?」

「杉田さんや、敬老会の人たちには愚痴ってたんだけどね。わたしの、後悔ばかりの半生」


 ああ。そう言えば、亡くなったご主人は女遊びが激しかったって言ってたもんな。そっち系かな。


「私が聞いても構わないのであれば」

「ふふ……」


 ばあちゃんは、両手をきちんと膝のところに揃えて、ぽつりぽつりと昔話を始めた。


「わたしはね、優花ちゃんのお母さんと同じで、水商売が長かったの。高校卒業後に田舎から上京して事務の仕事を始めたけど、つまんなくてね。給料は安いし、同じことの繰り返し。それに飽き飽きして夜の世界に入ったの」


 うーん……そういうイメージではなかったけどなあ。分からんもんだ。


「二十代は、ほとんどバーのホステスをして暮らしてた。まだ若かったし、その頃は景気がよくてお客さんの祝儀も高額だったの。まあ、とんでもなくだらしない生活をしてたわ。でもね」

「ええ」

「年齢が上がると、お客さんはわたしから離れていくの。そりゃあそうよ。若くてきれいな子の方が魅力的。そういう世界だから」


 ばあちゃんが苦笑いした。


「プロのホステスとして接客術や会話術を磨くには、わたしは全然寸足らずだった。しょせん学のない田舎者だってことを、初めて思い知らされたの。そうしたら、パトロンをたらし込むしかないじゃない」


 俺の顔をちらっと見たばあちゃんが、そのまま目を瞑った。


「わたしが最後に勤めていた店によく来ていた、小さな会社の重役さん。わたしより五つ上で、羽振りはよかったけど誠意はなかった。まあ……遊べればなんでもいいっていう感じね。それでも彼は独身だったし、妾でなくて正妻になれるならいいかなって」

「プロポーズされたんですか?」


 俺の不躾な質問に、ばあちゃんが無表情に答えた。


「いいえ。私が押しかけたの」


 うわ……。


「それでもね、親から夜遊びも大概にしろと言われていた主人にとっては、渡りに舟だったみたいでね。わたしは、まんまと主人の実家に入り込んだ。そこまではよかったんだけどね」


 目を閉じたまま、ばあちゃんが何度か溜息を漏らす。


「水商売の女がいきなり女房だって言って家に上がり込んできたら、主人の両親は納得できないでしょ。主人は主人で、もう女房がいるんだからがちゃがちゃ余計なことを言うなの一点張りで、家になんか帰ってこない」

「そんな」


 園長さんが、絶句してる。


「ずっと針の筵でね。ずうずうしく押しかけたわたしだけど、さすがに逃げ出そうかと思ったの」

「そうしなかったんですか?」

「その前に、主人が両親と衝突したのよ」

「なんでまた」

「商売の仕方。センスが合わなかったの。主人は古臭い商習慣なんかどうでもよくて、一山当てたかったんでしょ」


 ばあちゃんは、そこでぱかっと目を開けた。


「主人は。商売はうまかったわ。親の会社から独立していくらもしないうちに、あっという間に親の事業レベルを超えるところまで自社を大きくした。自信家だったけど、それに見あった才能はあったの」

「すごいですね」

「まあね。それであの屋敷を建てて、わたしを飼った。番犬みたいにね」

「帰ってこなかったんですか?」

「最初からからずっと独りよ。子供が欲しかったけど、主人はわたしとの間だけでなく、どの女との間にも子供を作らなかった。潔癖なくらいに」

「束縛を嫌ったからですか?」

「さすが探偵さんね。よく見抜いてるわ。そう」

「うーん……」

「主人は、最後まで誰の制御も受けなかった。自分一人で好きなことをして勝手に暮らしたい。でも世間体を整えないと商売に差し障るから、看板だけは立てた。わたしはそれに使われたの」


 ひでえな……。


「寂しかったわ」


 ばあちゃんが、そっと天井を見上げてつぶやいた。


「主人の実家を飛び出す勇気さえあれば。わたしはこんな寂しい人生を送らなくても済んだの。今さら取り返しのつかない、大きな後悔ね」


 佐伯さんに顔を向けたばあちゃんが、一つ一つ言葉を並べていく。


「わたしは、夜の世界に入った時点で親兄弟から縁を切られてる。水商売をやってる時には同僚がみんなライバルで、友人なんか誰もいない。結婚したらしたで、子なし職なしの上に家庭の実態がないわたしには、友達を作れる場がどこにもないの。主人が死んだあと敬老会に出入りするようになって初めて、友達らしい友達が出来た」


 なるほどな……。正平さんは、ばあちゃんの背景をよーく見てたってことだ。


「こんな……こんな人生を送っちゃだめよ。ねえ、優花ちゃん」


 ばあちゃんは、涙で塞がった目を拭おうともせず、同じセリフを何度も繰り返した。


 ばあちゃんの失敗は、選択を誤ったことじゃない。しまったしくじったと思った時点で『今』を捨てる踏ん切りが付かず、我慢してしまったことだ。それが大失敗で、強い後悔になってる。

 そして……俺もこれまで同じ失敗をしちまってたんだよ。事務所をリスタートさせるまで、ね。


 まあ。今この場ですぐに結論を出すような話ではない。少し考える時間を確保した方がいいと思う。


「佐伯さん」

「はい」

「いろいろなサポートの方法があります。今の勝山さんの後見申し出の件も、その一つとして心に留めておいてください」

「はい」


 ばあちゃんは急ぎたいだろうけど、決断にはいろんな条件が絡むからね。


「実は。現時点で一番厄介なのは、お子さんのことや後見のことじゃありません。もっと俗物的なこと。経済的危機なんです」


 俺は、尻ポケットから財布を抜いて頭上にかざした。


「それを一刻も早く安定させないと、いろんなケアプランが動かせないんですよ」

「さっきの三千万の話は?」


 園長さんが、慎重に探りを入れてきた。それを受けて、佐伯さんに再度確認する。


「最初に説明いたしましたが、あのお金は佐伯さん以外には受け取り権限者がいません。要らないなら、それでおしまいです。どうなさいますか?」


 俺が、さっきがっつり脅したこと。佐伯さんは、今度はそれを深刻に考えたんだろう。


「わたしが……もらえるんでしょうか?」

「無条件に、ではありません。あなたはまだ未成年なので、一旦資産管理者が預かる形になり、必要に応じてあなたがそこに払い出しを申し出るということになりますね」

「それは、誰が……」

「今回、田中の切り離しに協力してくださった三中さんという弁護士さんが、管理を代行してくれるはずです。それ以前に、まずお金のクリーニングが必要ですけどね。今はドブの中のお金ですから」


 俺が悪様に罵ったのを聞いて、三人が苦笑いした。

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