(2)

「浮気調査で調査相手の女の誘惑にまんまと引っかかり、裏切られてクビになった」

「そんなの、そいつがバカだからじゃない!」

「その通り。でも、この前左馬さんが言ったじゃん。光岡さんは魅力的じゃないの、アプローチしないのって」

「あ。うん……」

「俺は貧乏一人探偵だけど、一応プロだと思ってるよ。だから調査員としての大原則は絶対に守るさ。でも半人前のやつは、目の前にニンジンぶら下げられると食っちまうことがあるんだよ。それは毒ニンジンなのにね」

「裏切りを逆恨みしたってことかー」

「だと思う。だからあいつの狙いは、肉人形を売り飛ばして儲けを出すことじゃない。取り澄ました女を片っ端からぶっ壊すことが目的だったんだ」


 左馬さんの顔から血の気が引いた。人の心っていうのは、どこまでどす黒くなれるのか。魔界が見えてしまうと、怒り以前に恐怖の感情に囚われる。それが……当たり前だと思う。


「効率よく女を壊すシステムを作るためには、どうしてもカネと仲間がいる。人身売買の部分すら、目的ではなく手段だったってことだな」

「じゃあ……」

「そう。あいつが作った調教システム。最終的に、あいつはそれをネットで無差別にばらまくつもりだったんだろう。女なんかこの世から滅びちまえ。そうほくそ笑みながら」


 暗澹たる気分で、沖竹所長とのやり取りを思い返す。


 あいつは……垂らし込まれた女のどちらかに情があったんだろう。だが、女どもはあいつの感情をこれっぽっちも汲まなかったに違いない。あいつがミストで女を『道具』として扱ったように、あいつも単なる使い捨ての道具として扱われたんだ。女からも沖竹所長からもね。

 人格を持たない道具の悲哀。ミスト事件の起点はそこにあったと思う。そして八木は、自分を道具として扱った連中へ復讐するために、真っ先に自我を削った。恨みを鈍磨させてしまう人間らしい感情を……ね。八木自身が調教の最初の実験台であり、その半完成品だったということなんだろう。


 かつては八木と同じような壊れかけ部品だった沖竹所長は、ブンさんの生涯を懸けた熱い闘魂注入によって、はがねのように強靭な自我を鍛え上げた。八木は……まるでそのプロセスの逆回し。崖から転げ落ちるように自我を劣化させてしまった。そして大勢の女性を劣化プロセスに無差別に巻き込み、傷付けた。

 自我を削っていった八木が最後まで削りきれなかったものが、恐怖の感情……か。人の恐怖心を無造作に踏みにじりながら、最後まで消せなかった自分の恐怖心で中毒死するなんてな。本当に……やりきれん。


 俯いてしまった左馬さんと、そして俺自身に言い聞かせるようにして話をまとめた。


「恨みっていう感情は、人の視野を極端に狭くする。あいつは、結局自分で自分の首を絞めたんだよ」


 開いていた手帳を閉じて、でかい溜息を吐き散らかす。


「はああああっ! それにしても、最後の案件が救いようのない最低最悪の赤字案件かよ。がっくり来るな」

「そうなの?」

「俺が扱った案件の中では最大の大赤字さ。俺からフレディへの依頼にしたから、支払いが七桁に乗る。全額俺の持ち出しだ」

「げえええっ! そ、そんなにかかるのおっ?」

「いや、JDAは安い方だと思うよ。俺が最初に勤めてた沖竹エージェンシーなら、その十倍は取る」

「い……っせんまん……うわ」


 左馬さんが真っ青になってる。でも、その銭を払うやつがいるってことなんだよ。俺はそっちの方が怖い。


「そりゃそうさ。調査員に危険が及ぶような案件なら、普通は警察行ってくださいで終わりだもん。リスクの高い案件を引き受けてくれるところは、相応の報酬を要求する。当たり前だよ。慈善事業じゃないからね」

「うう」

「俺と付き合いの長いフレディだからなんとか引き受けてくれたけど、依頼者が俺でなければ必ず断ってたはずだよ」

「そっか……」

「リスクの高いところは俺と江畑さんでやるから。JDAは前に出なくていい。気心が知れてる俺らがそう提案したから、渋々だけど引き受けてくれたんだ」

「なんか、イメージ違ったなあ」


 しかめ面のまま、左馬さんがゆっくり首を振った。なんでもすぱっと解決してくれる、かっこいい探偵を想像してたんだろう。いないって、そんなやつ。思わず苦笑する。


「ははは。シャーロックホームズみたいのを想像した?」

「うん」

「ありえないね。俺たちには、ほんの少ししか出来ることがない。それでも、そのほんの少しで防げること、避けられることがあるならそれでいいんだ」

「すごいね」

「すごかないよ。起きてしまった事件は絶対に解決しない。それは必ず傷と波紋を残す」

「うん」

「それなら、同じてつを踏まないよう、反省と対策を絶やさないようにする。俺らも依頼人も、結局それしかないんだよ」

「今日言ってたことね。そっか、なるほどなあ」


 そのあと、俺の顔をまじまじと見つめていた左馬さんが、思いがけない質問を投げてきた。


「ねえ。中村さんは、どうして探偵をやろうと思ったの?」

「おっと」


 そう来たか。


「そうだなあ。何も取り柄がない俺でも出来るから、かな」

「えっ?」


 俺の回答が意外だったんだろう。ぽかんと口を開けて絶句してる。


「ははははは。いや、そんなもんだよ。俺の両親は放任……いや、放置主義でね。俺も姉貴も親にかまってもらった覚えがないんだ。進学も就職も、おまえの好きにしろだ。それは自由にやっていいぞじゃないよ。したいなら自分で勝手にやれ。俺は知らん、さ。無責任もいいとこ」

「それで?」

「物心ついた時から、何でも自分でやった。だから、大抵のことはこなせるようになったけど、親のバックアップがないと限界があるよ」

「ふうん」

「大学まではバイトと奨学金でなんとかしのいだけどさ。名の通った大学じゃないから、就職先が、ね」


 我ながらよく踏ん張ったと思うが、独力では限界があるんだよなあ。


「あ、それでさっきの沖竹って言ったっけ」

「そう、学歴、資格不問。根性があれば誰でも出来る。そういううたい文句にまんまと」

「ぎゃははははっ!」

「笑うけどさ。俺と同じくらいの時期に調査員になったやつで、クビにならずに残ったのは俺だけだよ」

「うわ、すご……」

「それは、俺が優秀だからでも、根性があったからでもない。俺が誰も信用していなかったから。用心深かったからなんだよね」

「ええーっ?」

「とてもほめられたことじゃないんだ」


 ふう。


「だから、友達がいない。いや、友達を作れないの」

「でも、フレディさん……」

「フレディは、俺以上に心に深い闇を隠してる。俺は……心配なんだよ」

「ふうん」

「決して単純な友人関係じゃない」

「そっかあ」


 左馬さんと俺を交互に指さす。


「俺が沖竹を辞めて独立したのは、こういう時間を作れるからなの。人にいつも疑いの視線を向けていたら、俺は何もかも信じられなくなる。センサーの男は、そうなってしまったのさ」

「あ……」

「でしょ? 自分がそうならないようにするには、意識して人を信じないとならない。それには、どうしても人との交流が要るんだよ。個人でやると、直接交流から絶対に逃げられないの。だから思い切って独立したんだ」

「うん! すごいなー」

「今日光岡さんに言ったことは、俺が常に自分に言い聞かせていること。言い聞かせていないと、俺は必ず闇に堕ちる。センサーの男の末路が、俺の末路になっちまう」


 じっと俺を見つめていた左馬さんの視線がすとんと床に落ちて。それは切ない吐息に変わった。


「はあ……」

「どした?」

「いや、自分ではまともだと思ってたけど。中村さんの話聞いてたら、まだまだだなあって」

「ええー? 俺が知る限り、左馬さんは世の中で一番まともな部類の人に見えるけど」

「そう?」


 こそっと視線を上げた左馬さんが、愚痴をこぼし始めた。


「なんかさあ。周りはどんどん彼氏作って、結婚してって、オンナの幸せを満喫してるのに……わたしはどうしてそういうのにまるっきり縁がないのかなあって。どっかに、すっごい大きな欠点とかあるのかなあって」

「ふうん。仕事一直線で、男なんかどうでもいいっていうイメージあったけど」


 俺の容赦ない突っ込みに、左馬さんが寂しそうに笑った。


「あはは……中村さんにもそう見えるってことかあ」

「まあね。でも、それはあくまでもイメージだよ。自分からアクション起こせば、イメージなんか瞬時に変わるでしょ」

「そうだよね」


 もじもじもじ。少し逡巡する間があって。じわっと探りが入った。


「あのー」

「うん?」

「中村さんは……彼女とか、いるの?」


 全力で苦笑いする。


「あのさあ、左馬さん。赤字垂れ流しの泡沫貧乏探偵がいいなんてオンナがいたら、俺が小一時間説教してやるよ。早く目を覚ませってね」


 ずどーん! 左馬さんがソファーで横転した。


「なんつーか」

「自分が食ってくだけでも精一杯なのに、彼女もへったくれもないわ」

「ふうん。興味がないの?」

「いや、俺も男だからさ。いい人がいれば先々考えたいなあとは思ってるけど」


 思わず頭を抱え込む。


「事務所閉めてからのことに見通しが立たないと、どうしようもないよ」

「それもそうかー」

「俺に浮いた話がない理由は、それだけじゃないけどね」

「へ?」


 ふうっ……。


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