フレディとの出会い編 第一話 アッパーリミット
(1)
「正平さーん」
「おう」
箸を持ったまま、いつものステテコ姿で正平さんが出て来た。
「おはようさん。分かったかい?」
「ばっちりです。こっちに来てもらうより、大沢さんのお宅に伺った方がいいですか?」
「いや、あの婆ちゃんは話好きだからな。中村さんが行ったら放してくれんぞ?」
「げー……」
「仕事に差し障るだろ? 俺のところでやろう。俺も立ち会うよ」
「それは助かります!」
「じゃあ、俺から連絡しとこうか?」
「お願い出来ますか?」
「構わんよ。はっはっは!」
よし、と。これで、今月は二件。家賃と光熱費が払える上がりになった。春もゴールデンウイーク過ぎるとすっかり暖かくなる。光熱費もかからなくなってきたし、こらあ幸先いいな。ありがたや、ありがたや。
◇ ◇ ◇
正平さんの厚意でプレハブの事務所を貸してもらえることになって、俺はコンビニのバイトをぐんと減らして本業を強化することにした。もっとも口コミでの宣伝頼りの俺には、当分まともな依頼が来ないだろう。その不足分は、3K、5Kの日雇いで埋めなくてはならない。正式に探偵業の看板を掲げたと言っても、内実は探偵も出来る日雇い労働者。それまでの、探偵も出来るコンビニ店員からさらに退化していると言ってもいい。だけど、どこかで覚悟はしないとならないんだよ。
店員の仕事は勤務時間が決まってる。シフトで調整出来ると言っても、俺の都合でそいつをころころ動かすと他のバイトさんや店長に迷惑をかける。俺は、あくまでも困った時の穴埋めで使ってください。店長にはそう言って、事実上の引退を表明した。それでも店長は、俺が万引き防止のためにいろいろ手を打ったのをよーく見ていて、それを同業の人たちに売り込んでくれたらしい。うちにいたバイトが、その方面にとても詳しいと。
探偵業の本務ではないからコンサル料は要求出来ないけど、日当くらいの謝礼でいくつかの店舗で現地指導を行った。俺の万引き対策はどこまでも実践的だから、とても役に立ったとどこでも感謝してくれた。本当は万引きなんかないのが一番いいんだけどね。でも一定の比率で万引き被害が発生する以上、自衛するしかないからな。
正平さんのルートは、想定以上に広がってくれた。老人会の集まりにまめに顔を出す正平さんは、その年齢ほど老け込んでいない。体力も気力も充実している。だから、自主的に会員のじいちゃんばあちゃんの相談相手みたいな役回りをやってるんだよね。正平さんは温厚で忍耐強く、口が堅い。そしてフットワークが軽い。自分からどこにでも出向いて話をする。トラブル解決のための仲立ちを数こなしていて、そっち方面で信頼されてるんだ。
でも、いくら正平さんがまめでも、プライベートに深く関わることには突っ込みにくい。夫婦間、親子間のこじれたトラブルでどちらかの肩を持つことになってしまったら、もう一方から恨まれてしまう。火に油を注ぐはめになったり、自分までそのトラブルに巻き込まれかねないんだ。
そこで俺は、正平さんから汚れ役を承けることにした。賽銭箱の時みたいに、俺が仕切るわけじゃないよ。トラブルの原因がそもそもどこにあるのか、その『事実』を
探る部分を俺が代行するってこと。正平さんが出しゃばれば余計なお節介だけど、俺がビジネスで調べるのはあくまでも『仕事』だ。俺に依頼して料金を支払うってことで、頼む方にも割り切りが出来る。
変な話だけど、そうやって事実調査をしようとする時点で頭が冷えるんだよね。当事者も事態を客観視出来るんだ。そうしたら、正平さんの仲裁がうんと楽になる。正平さんは、事実調査を安くやってくれる探偵さんがいるよと積極的に俺を推してくれたんだ。最初半信半疑だったじいちゃんばあちゃんたちも、俺が調査実績を重ねるうちに、俺の腕を信用してくれるようになった。
もっとも正平さんの筋から来るのは、圧倒的に便利屋代わりってことが多い。買い物とか届け物の補助とかね。そっちはついでで、あくまで調査が本務なんだけどなあ……。まあ、贅沢は言っていられない。こなすしかないよ。
そして雅恵ちゃんのルート、すなわち女子校のルートは、最初からゼニには全く結びつかないだろうと思ってた。なーんにも期待していなかったんだ。稼ぎのない女子高生が、探偵にカネ払って依頼なんかするかいな。しかも、風紀にうるさい名門女子高の生徒が、さ。俺に接触した時点で、校則違反になっちまうだろ。雅恵ちゃんだってヤバかったんだから。
俺に本務外の仕事を依頼してしまった雅恵ちゃん。彼女がその負い目を感じちゃうのは嫌だなあと思って、その負担感を下げるために宣伝を頼んだ。俺の意図は、それだけだったんだよ。
ところがどっこい。口コミっていうのは、本当にバカにならない。コンビニの店長と正平さんのルートが正規の顧客拡大に繋がったとすれば。雅恵ちゃんを介した女子高ルートは、思わぬ方向に跳ねて、予想外の依頼を呼び込むことになったんだ。
◇ ◇ ◇
「正平さん。本当にこれ、いいんすか?」
「全くだよなあ……」
俺と正平さんは、腕組みしたまま、事務所の中に据えられたほとんど新品のスチールラックを見上げていた。俺の目には、どこをどうやってもゴミには見えないんだけどなあ。正平さんも全く同じ心境らしい。でも間違いなく、事務所移転で出た粗大ゴミなのだそうだ。
てか、今事務所内にある什器や事務機器に、俺は一銭たりともカネを払っていない。全てゴミ。粗大ゴミ。それが見るからにおんぼろなら、まあそうだろなと思うけどさ。どれもぴっかぴかなんだよね。
「どういうことなんすかねえ」
「俺にはまるっきり理解出来ないんだが……」
正平さんが苦り切って解説してくれた理屈は、俺にも全く理解出来なかった。
「中村さんみたいに、独立して仕事しようってやつが結構いるわけだ」
「ええ」
「そいつら自己資金もない癖して、銀行から借りたカネでこういうのを買い揃えるんだとさ。で、ちょい売り上げが上がって店舗や事務所が手狭になると、什器をさっさと処分しちまうんだとよ」
「ええー? こんなぴかぴかなのに、ですかあ?」
「そう。新しい事務所や店舗はもっとおしゃれに、客に見栄えするようにってことなんだろ」
「げえー……もったいねー」
「それが本当に儲けの中から出るならいいけどよ。そいつも結局借金だろ? この身の程知らずがって、思っちまうけどなあ」
ものをすごく大事にする正平さんには、その根性が気にくわないんだろう。
「でも、中古屋で引き取ってくれるんじゃないんですか?」
「倉庫で眠ってる組み立て前の新古品は売れるんだと。でも、少しでも手垢が付くと、引き取り手がいないそうだ。組み立て済みのやつは運ぶのが大変で、保管場所も食うし、扱いが面倒になるからな」
「うーん……納得出来ーん」
「そうだろ? だから俺はどうしても小言を言いたくなるんだよ」
わはは! そうだったなあ。
「もののない時代を生きてきた俺たち世代は、これ以上古いともう直せないっていう
上っ端。上限。アッパーリミット、か。たぶん、俺には生涯縁のない話だなあ。まあ、俺にとってはそういうやつがいるからこそのご褒美だ。しっかり利用させてもらうことにしよう。外見はおんぼろのプレハブ小屋だけど、中はそれなりに事務所っぽく仕上がった。それもほとんど無償で。その分、維持費に回せるカネが増える。前向きに考えよう。そんなことを思いながら正平さんと立ち話をしていたら、俺の携帯が鳴った。
「あ、正平さん、済みません」
「おう、依頼だといいな」
「ははは」
苦笑いした俺を置いて、正平さんががたぴし扉を鳴らして事務所を出ると、のったり母家に帰っていった。
「はい、中村探偵事務所です」
「所長の中村操さんでしょうか?」
所長って言っても、俺しかいないからなあ。
「そうですが」
中年の女性の声だ。なんだろう? 正平さんの筋じゃなさそうだな。はて?
「わたくし、聖ルテア女子高の校長を務めております、
ざああああっ! 全身から血の気が引いた。雅恵ちゃんに、宣伝してって気軽に頼んじゃったけど、それがかえってあだになった? 学校でクレーム付いた?
「あの……ご用件は?」
「ちょっと込み入ったご相談がありまして。そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか?」
ほっ。俺をどこかに呼びつけるわけじゃないらしい。それなら、多分クレームじゃないな。茶飲みがてらで事務所に上がるじいちゃんばあちゃんはいたけど、それ以外に依頼者が来たことはない。緊張するなあ……。
「お待ちしております。事務所の場所は分かりますか?」
「教えていただきましたので、分かります」
そうか。やっぱり雅恵ちゃんのルートだな。でも、なんで校長が? うーん……。
「お時間は?」
「私の仕事が上がってからになるので夜に伺いたいのですが、宜しいでしょうか?」
その口調に、横柄なトーンは混じっていなかった。校長というポジションに相応しい、品格を備えた婦人なのだろう。探偵業なんていうヤクザな商売は、九時五時じゃあ全然こなせない。依頼人が来れるという時間に都合を合わせるのは、基本中の基本だ。
「構いません。そちらを発たれる時に、改めてお電話を頂戴出来ますか? 事務所で待機いたしますので」
「助かります。それでは、よろしくお願いいたします」
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