(2)

 ふむ。電話を切って、会話した内容を振り返る。


 まず。クレームではないな。クレームならば、さっき言い渡されるか、どこかに呼びつけられるだろうからね。間違いなく、依頼に絡んだことだろう。でも、依頼ではなく『相談』と言った。その理由は二つ考えられる。


 一つは、俺に対する信用度がゼロからスタートしているから。まず俺の人格や信頼性を値踏みしてから、依頼を切り出すかどうかを考えているのかもしれない。それは、無名もいいところの俺に対する態度としては至極当然だろう。でも。それなら最初から、俺のような泡末探偵ではなく大手のもっと実績のある調査会社に依頼するだろう。名門私立高校の校長というポジションなら、依頼料を無理に値切る必要はないだろうし。たぶん、信用絡みの理由じゃないな。


 永井さんは、自分が聖ルテアの校長であることを最初に公言している。つまり、それは永井さん個人のプライベートな事案ではなく、学校として対応すべきオフィシャルなものなんだろう。それだけ大型の案件でありながら大手に依頼しないのは、それが『大手の調査会社には断られる性質のもの』だからだ。つまり俺のところに持ち込む前に、それなりの機関にすでに打診していると考えた方がいい。


「ふむ」


 大手の調査会社。例えば、かつて俺がいた沖竹のようなところは、大勢の調査員を使うことで短時間に確実に事実調査が出来る。だが、それには実は大きな落とし穴があるんだ。


 所長もブンさんも、調査員の基本中の基本として、守秘義務の遵守を俺らにがっつり叩き込んだ。そして、秘密を守れそうにない口の軽いやつ、根性のないやつの首を容赦なく切っていった。厳しいように見えるけど、秘密を守れないやつは調査員に向いていないんじゃなく、調査をやってはいけないんだよ。

 人の秘密を知り得る探偵という商売は、その知り得た事実をいつでも悪用出来るんだ。個人の場合はそいつの信用を下げるだけで済むが、大手なら誰かの悪意が全体に及んで、商売にとっての致命傷になる。調査員のクオリティアップは、絶対不可欠なんだ。


 だが人数が多くなればなるほど、どんなに上で引き締めても情報漏洩は起きる。しかも誰がどのように漏らしたかというソースの特定が難しくなる。それが組織というものの限界だから、しょうがない。でも、依頼した方にとってはしょうがないでは済まないんだ。漏れてしまった情報がもたらした結果によっては、責任が依頼者にまで跳ね返ってしまう。

 双方に大きなリスクを抱えた調査は、依頼側よりも引き受ける側の腰が引ける。永井さんは雅恵ちゃんのお勧めで俺に依頼してきたわけではなく、他で断られたから仕方なくうちに打診して来たんだろう。


「まあ、相談の中身を聞かせてもらって、だな」


◇ ◇ ◇


 永井さんが事務所に到着したのは、午後八時を大きく回っていた。偉い人だから早く帰れるというわけではないんだな。頭が下がるね。


 とても事務所には見えないみすぼらしいプレハブ小屋に絶句していた永井さんは、ぎしぎし軋ませながら俺が引き開けた戸の前で一瞬躊躇していた。ほんとにここ、大丈夫なのかしらって感じで。


「お電話くださった永井さんですね。中村探偵事務所の中村操です。どうぞお入りください」

「遅くなって申し訳ありません。失礼いたします」


 五十絡みの、とても品のいいおばさんだ。金持ちにありがちな、高飛車な態度は全く見えない。ものすごく威厳に満ちたという感じではないけれど、洗練されてる。化粧は薄く服装も地味で、校長と紹介されない限り要職にある人のようには見えない。ふむ……。


 俺が勧めた客用の椅子にゆっくり腰を下ろした永井さんは、質素だけどおんぼろさのない室内をゆっくり見回して、何度か首を傾げた。


「どうされましたか?」

「いえ……外見と室内にものすごく差があるので」

「わはは! 差はないですよ。全部ゴミですから」

「え……?」


 永井さんが、口をぱっくり開けて絶句した。


「独立したばかりで、自己資金はゼロに等しいんです。どこかに部屋を借りて事務所を構える余裕はないので、こういう形で営業してます」

「あの……ここは?」


 俺は、窓の外を指差した。


「この敷地の大家さんが、ロハでこの敷地とプレハブ小屋を貸してくれてるんです」

「まあ!」

「什器とかは、事務機器の販売会社さんから中古を譲り受けたんですよ」

「こ、これが中古? うそお! ほとんど新品じゃないですか!」

「私も信じられないです。でも、こういうのをゴミとして扱ってしまう事業者さんがいるということですよね」

「うーん……」

「月の稼ぎが十万行くか行かないかですから、贅沢は言えません」

「あの、それで生活出来るんですか?」

「探偵業だけでは無理ですよ。依頼のない時に日雇いの仕事を入れて、それでかつかつですね」


 なんで、そんな綱渡りみたいな生活を。永井さんは、きっとそう思っているに違いない。でも、それが俺の選んだライフコースだからなあ……。黙り込んでしまった永井さん。本当に俺に相談を持ちかけてもいいものか、迷いが出たんだろう。


 確かに、安定した生活を送るためには依頼がいっぱいあった方がいいのは確かさ。でも、だからって何でも引き受けますとは言えないんだよ。俺は、最初に釘を刺した。


「ええと、永井さん」

「はい」

「うちは私一人でやってる貧乏探偵事務所ですけど、人の靴の裏を舐めてまで仕事させてくださいと言うつもりはないんです」

「どういうことでしょう?」

「私は独立するまで、沖竹エージェンシーという調査会社に四年ほど在籍していました。そこを首になったから独立したんじゃない。沖竹で出来ない方法で調査をやりたいというポジティブな理由で、辞めて独立したんですよ」

「そうですか」

「でもね。調査業で守らなければならない原則は、組織でも個人であっても同じです。そこは、沖竹と何も変わらないんです」


 俺は一本一本指を折っていく。


「依頼人と調査内容に関する守秘義務の遵守。法に触れる恐れがあったり、調査員の身辺に危険が及びかねない依頼の拒否。そして……当所が定めている調査範囲を逸脱する依頼の拒否」


 じっと永井さんの目を見つめる。


「うちがいかに弱小であっても、その原則は曲げません」


 すうっと顔を伏せた永井さんが、細くふうっと溜息をついた。


「やっぱり……ですか」

「そりゃそうですよ。調査業は慈善事業ではありません。永井さんが校長としてお給料を受け取っておられるのと同じ。れっきとした仕事ですから」

「ええ」

「大手の興信所さんで断られた。違いますか?」


 ゆっくり顔を上げた永井さんが、苦笑しながら頷いた。


「はい。そうなんですよ。今、中村さんがおっしゃられた沖竹さんにもご相談させていただいたんですけど、それはうちでは無理だと言われて」


 やっぱりか……。


「沖竹では、何かサジェスチョンをくれませんでしたか?」

「警察に相談しろ。それだけでした」


 なるほど……そっち系ね。


「もし、差し支えなければ、お話を聞かせていただけませんか? 私が直接動けなくても、何か解決に繋がるヒントを差し上げられるかもしれませんので」

「ありがとうございます」


 永井さんは、その後しばらく沈黙を守った。口に出したが最後、それがどのような影響を及ぼすか分からない。どうしようか……どうしようか……そんな風に。でも、問題がかなり切迫していて、深刻なんだろう。決心を固めた永井さんが、慎重に言葉を選ぶようにして、事情を説明し始めた。


◇ ◇ ◇


「実は……」

「はい」

「当校に通学する生徒のうち、電車通学の生徒がかなりひどい痴漢の被害を受け続けているんです」


 ふむ。痴漢……か。


「特定の生徒さんですか?」

「いいえ」

「えっ?」


 思わず声が出てしまった。


「それは珍しいですね」

「ええ。私も信じられなかったんですが、被害を受けている生徒ののべ人数がもう、三桁に乗りそうなんです」

「……。警察は?」

「何度も相談させていただいているんですが、通学時間帯はラッシュが激しくて、そもそも周囲に誰がいるかが生徒に特定出来ないことが多いんです。私服の婦人警官さんに張り込んでもらったり、警察でも対応してくれてるんですが」

「被害者が多い上に、加害の直接証拠を確保するのが難しくて、犯人を特定出来ない……か」

「そうなんです」

「電車には、他校の学生さんとかは?」

「います。でも、その子たちにも被害が出ているかどうかは、私どもでは確認いたしかねるので」

「うーん……そうか。で、沖竹とかに、犯人を特定してくれないかと依頼したわけですね?」

「はい。でも、それは我々の仕事ではなく、警察の仕事だと」

「そうですね。模範解答です。たぶん、私が所長でもそう言うでしょう」

「先ほどおっしゃられた、調査範囲の逸脱に当たる、ということですか?」

「いいえ、違います」

「えっ?」


 永井さんが、目を見開いてびっくりしてる。


「あのね、永井さん。私たちには警察と違って捜査権がない。私たちは警察業務の代行は出来ないんですよ」

「それは分かりますけど……」

「で、ですね。もしわたしが張り込んで決定的な瞬間を捉えたとします」

「はい」

「こいつが痴漢だ! と誰かの手を掴んで持ち上げて、もしそれが間違いだったとしたら。その咎はどこに行きますか?」

「あっ」

「それが真実でないと分かった途端に、私は正義の味方から犯罪者に転落してしまうんですよ」

「そ……うか」


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