(4)

 所長は、沈鬱な表情で静かにノートを閉じ、目を瞑った。


「悲劇っていうのは……あり得ない偶然の連なりで起こる。いや、事故とか事件というのは、全てそういうものなのかもしれない」


 重なった偶然の一つでも欠けてくれれば、ブンさんが命を落とすことはなかった。所長の口調には、犯人への憎しみよりも、運命の非情さへの嘆きが滲んでいた。


「その女のウラは……取れたんですか?」

「取れたらしいよ。あまりの馬鹿馬鹿しさに吐き気がする」


 所長がぎりっと歯を嚼み鳴らした。


「逮捕前の事情聴取では、知らないやってないとしらばっくれた。だがその女の財布の中から、村田さんの指紋の付いた千円札が四枚出てきたのさ」

「!!!」

「つまり、無我夢中で犯行に及んだんじゃない。靴を脱がせ、村田さんの財布からちゃっかり紙幣を抜き取り、お膳立てをして川に放り込んだ」

「じゃあ、紙幣にだけでなく、靴にも指紋が……」

「そう」


 俺は頭を抱えてしまった。ほとんど通り魔と同じじゃないか。ブンさんが被害に遭う必然性なんかどこにもない。所長も、怒りや嘆きの持って行き場がないんだろう。力なく笑った。


「はは……は。馬鹿の浅知恵もいいところだよ。村田さんはそんな馬鹿に殺されてしまった」


 所長が落ち込むのは……当然だ。世の中には、人の命を虫けらのようにしか思わない連中がうようよしている。それなのに、何を信じればいい? 心を読む意味なんかどこにある? そういう無力感に襲われていたんだろう。

 俺の心境も、所長と全く同じだった。あまりにもくだらなく身勝手な理由で、ブンさんが命を落としたこと。その最期は、ブンさんが身を賭して所長の自立を助けたことにまるっきり見合わない。神様ってのは……あまりにも不公平で、残酷だ。


 二人して途方に暮れたまま俯いていたら、所長のデスクの上の電話が鳴った。所長が、物憂げに受話器を取った。


「はい、沖竹ですが」


 次の瞬間、所長がばっと立ち上がり、顔色が真っ青になった。


「な、なんですってっ?」


 あとは……。電話の相手が話し終わるまで、所長は『はい』しか言わなかった。いや、それしか言えなかったんだろう。五分ほどの短い電話が切れて、所長は腰が砕けたように椅子に倒れ込んだ。


「所長。誰からですか?」


 両手で顔を覆った所長は、小声でぼそっと答えた。


「江畑さんだ」

「何か新事実が?」

「いや……」


 所長は、デスクの上に閉じてあったノートと俺の報告書を両方開くと、その最後のページに赤いボールペンで丸を描き、その上に斜め線を足した。


 『ゼロ』


 それは、所長が数字を書く時の流儀。英文字のオーと数字のゼロを区別するために、ゼロの時は斜線を引く。そして所長は、一つの案件が終了する度に報告書の最後のページにゼロを書き込む癖があった。それは、元クラッカーだった所長に染み付いた性癖みたいなものなんだろう。

 ブンさん殺しの犯人が生きている限り、所長は執念深くそいつの破滅にこだわり続けるはず。でも、所長がそれにピリオドを打ったってことは……。


「容疑者が……死んだんですか?」

「重要参考人から容疑者になり、本日逮捕。報道もさっき出た。そして、署で本格的な取り調べが始まった直後に、聴取室内で自殺したそうだ」

「!! ど、どうやって?」

「入れ歯に……毒が仕込んであったらしい」

「あ……」

「被疑者死亡のため、捜査終結……か」


 何度か激しく首を振った所長は、俺を所長室から追い出した。


「疲れた。済まないが一人にしてくれ」

「は……い」


 後ろ手に所長室のドアを閉めた俺は、総務の三井を呼んで、必ず定期的に所長の様子を伺うよう頼んだ。俺は……これ以上の不幸の連鎖はどうしても見たくなかったんだ。


◇ ◇ ◇


「ブンさんは、犬死にじゃないか……」


 俺も。所長に負けず劣らず虚無感と徒労感にどっぷり浸ってしまった。最後のオチがあまりにひど過ぎる。


 犯人の女が自殺したのは、反省や後悔のためじゃない。累犯者の強盗殺人なら、よくて無期懲役、下手すりゃ死刑。それだけのことをしてるんだから当然の報いだが、女にとっては違うんだろう。もう二度と娑婆には出られないという絶望感が、生きていても仕方ないっていう結論に行き着いただけ。犯行も場当たりなら、自分で決めたオチもお粗末そのものだ。たかだか四千円のために、無残にドブに捨てられてしまったブンさんの命。そしてブンさんをゴミ屑のように扱った女は、自分の命をも粗末に扱って塵に返った。


 アパートに戻った俺は。ベッドに浅く腰を掛けて、くそったれを連呼した。もう、こんな仕事はさっさと辞めてしまおう。俺には重すぎるよ。そうさ。元々そうするつもりだったじゃないか。だけど……。目の前にブンさんの呆れ顔がちらついて、俺は落ち着かなくなる。


『あほかっ! 俺はおまえの何百倍、何千倍ものクズ野郎どもを、毎日毎日何十年も見続けてきたんだぞ? この根性なしが!』


「く……」


 俺がこの稼業を続けようが辞めようが、自分を今よりマシにしないとそもそも食っていけない。ブンさんと組んで調査やってた三年間で、文句のぶちかまし方だけうまくなったっていうんじゃ論外だ。それなら、何もしないでぐうたらしてた方がまだいい。


『中途半端に人の生き方に触るな! それが嫌ならさっさと辞めろ!』


 ああ、ブンさん。確かにそうだ。その通りだ。そして、俺はブンさんの生き方に触っちまった。ここで半端に放り出したら、俺がブンさんに出会った意味は何もなくなる。


「ねえ、ブンさん。ちゃんと最後まで言ってくれよ」


 真っ暗な部屋の中で、俺はその闇の向こうにいるであろうブンさんに愚痴った。


「触るなら。とことん突っ込め! ……だろ?」


 どんな小さなことであっても。調査で人の生き方に触れれば、それは俺の中に刻み込まれる。それが……調査員という職種の宿命だ。好きだから、やりがいがあるからやるなんてのは、調査員に関してだけはありえない。調査員という稼業に手を染め、業務に精通してしまったら、俺は人の生き方に向き合わされるという十字架を死ぬまで背負わなければならないんだ。

 そして俺には、ブンさんにすら出来なかった生き方が一つだけ試せる。どうせ沖竹を辞めるのならば、俺はそれにチャレンジしよう。ブンさんの、刑事から調査員への転身が逃げではなかったように、俺の挑む転身も決して逃げではない。それは、間違いなく今以上の茨の道になるからだ。でも、俺はブンさんのどやしをゴミ箱に捨てたくない。どうしても、それを活かしたい。


「ふうっ……後は……タイミングかあ」


◇ ◇ ◇


 あっけない幕切れに意気消沈していた所長だったが、俺も所長も生きる必要があった。元々ブンさんが辞めた時点で、沖竹エージェンシーには調査事務所としての転機が来ていたんだ。社長は、動揺していた社員の引き締めと執行体制の立て直しに全力を挙げ、落ち込んでいた気持ちを紛らわせることにしたらしい。

 後任のベテラン調査員を雇用するまで、君が村田さんの代わりにチーフをしてくれ。相変わらず無表情な社長は、にこりともせず俺にそう命じた。俺には荷が重かったが、背に腹は代えられない。再び、所長が引っ張ってくる有象無象の案件をざばざばこなす日々が始まった。


 ただ……俺は、所長の姿勢に変化を感じていた。それは所長の心の変化ではなく、運営姿勢の変化だ。明らかに黒寄りグレーゾーンにあるヤバい案件を請けなくなり、調査員が無理をしなくてもこなせる案件の割合が信じられないほど増えた。

 そうか。沖竹エージェンシーは、急上昇期を抜けて安定走行に入ったんだ。十分な解決実績を積み上げた沖竹は、これまでのように何でもやりますではなく、仕事をチョイス出来るようになったんだろう。調査のクオリティを下げないようにするために、所長が調査員を厳しく評価するのは今後も変わらないと思う。でも、これまでよりは落ち着いて調査員の育成に取り組める。ブンさんのどやしとは別に、所長自身もちゃんと社の中長期の運営計画を立て、それを着々と実行してきたということなんだろう。ブンさんが、俯瞰能力に優れていると言った通りだ。


 相変わらず新規採用の調査員の離職率は高いが、社のイメージが上がったことで俺なんかよりずっと素質のある目も勘もいい奴が増えた。これから沖竹は、更なるステップアップの段階に入っていくんだと思う。そんなことを考えながら、俺はいくつかの調査報告書の草稿に目を通していた。


「ふうっ……」


 俺は書類から目を離し、明かりが消えたままの向かいの部屋を見遣った。ブンさんが居たチーフの部屋は、まだ無人。ブンさんの後釜が着任していないから、調査員としては俺が最年長だ。俺より若い調査員ばかりになってしまったから、毎日中村さん中村さんと呼びかけられて、尻がむずむずしてしょうがない。ブンさんに、操!と呼び捨てられていた頃が懐かしい。

 そして、チーフ代行の俺のところには新米がひっきりなしに相談に来る。俺自身ががんがん動くというより、半分教官みたいな立場になってしまったから、こっちもなんかすっきりしない。


「ん?」


 廊下から、ためらいがちな歩調の足音が近付いてきた。ほら、来なすったな。


「中村さん、ちょっといいですか?」

「八木くん、なんかトラブル?」

「いえ、浅野さんの案件なんですけど」

「キャッチ出来た?」

「まだです。用心深くて」


 ははあ。なかなかホシが動かないから焦れたな。でも、張り込み開始早々に焦れてしまうなんてのは論外だよ。ブンさんが聞いたら、おまえのような根性なしなんか要らん! とっとと辞めちまえっ!……って吠えそうだな。その容赦ない怒鳴り声を思い出しながら、俺は新米のフォローを始める。


「浅野さんのは根比べさ。特殊な手法を使う必要はないよ。ひたすらご主人が動き出すのを待って」

「はい……」

「奥さんが疑っているのを察したから今はおとなしくしてるだけで、ほとぼりが冷めたらすぐ動き出す。そのタイミングを絶対に逃がさないようにね」

「はいっ!」


 ばたばたと走っていく駆け出し調査員の背中を見送って、俺は所長室に足を向けた。


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