終歌4 迎え
封印袋が入った箱を抱えて、僕は走った。
うわんうわんと頭に直接語りかけてくる声に、脳髄を刺されながら。
どろっとしたわが目を半目開きにしながら。
その頭の中に必死に――リン以外のメニスの子を思い描きながら。
「真っ白い血が、効くんだな?」
『そう。甘露こそは。すばらしき命の霊薬』
とろけるように甘い声でささやく、心地よい声に急かされて。
僕は、猛然と街道を走った。
何をしているんだと焦る思いが、どろりとした闇の中に沈み込んでいく。
恐ろしい魔王の、甘いささやきの中に。
『すぐに見つけるのだ。我へのいけにえを』
「は……い……」
『メニスの血を』――甘く囁くそいつは、本物の悪魔に違いなく。
僕は頭では言うことを聞くなとちゃんとわかっていて。
ダメだダメだと、頭の中で何度も何度も、自分に叫び続けていた。
なのに体は全く自由にならなかった。
脳に直接響いてくるのは、とても特殊なものなんだろう。
何しろ宵の王は、生き物に完全に取りつき操るものだ。
半分夢の中にいるような僕ができた抵抗は、そばにいるリンを襲うのをなんとかこらえたこと。
そして。
『メニスの血肉こそ。死者を甦らせることができる唯一のものだ』
もうひとり、実際に見知っているメニスを思い浮かべること、だった――。
『母さまの鳥は、兵器じゃないわ!』
北の果てで会った、鉄の鳥に乗った少女。
僕はリンではなく、必死にそちらの娘のことを考えた。
僕が入っている我が師の体。自由がきかないこの体が、その子を探して彷徨うようにと。
二人の顔つきは全然違う。鳶色の髪。菫の瞳。色こそ同じだが、目は幾分切れ長のリンに比べ、鳥の少女の方はぱっちり大きい。背丈はリンより幾分か高い。
必死に、僕と兄弟子様を見て真っ赤になっていたあの子のことを思い浮かべたら。
案の定、我が師の体は、彼女を探し始めた。
遠い北の大地のどこかにいるその子を。
会えるかどうか分からない、その子を。
『血を』
「わかった」
『メニスの血を』
「わかったから黙れ!」
北へ。
北へ。
我が師の足が動く。
もうもうとけむる霧のような雨。湿った風が全身に当たる。
よろけながらも、僕の足――僕が動かす我が師の足は、ひたすら街道を走った。
これでなんとか、リンに危害を加えることは避けられた。
たぶんその子に出会った場所を目指しているんだろうから、かなり時間が稼げる。
その間に、この袋の中味をどうにかしたい。
たぶん、宵の王との接続を断ちきることは容易ではない。
我が師の体に何が植え付けられたのか、見当もつかない。
聞いたって、宵の王は教えてくれないだろう。
よしんばからくりがわかったとして、僕に取り除けるものなのか?
我が師ならともかく、見習いの僕に……
宵の王には管理者がいる。今はシドニウス様亡きあと、それがいない状態。だから勝手に暴走しているともいえる。
僕自身が、遺跡の管理者になることはたぶん不可能だ。
体の自由がきかない状態で、果て町の近くの遺跡へ至るなんて無理だろう。
このまま、メニスを求めてさまよわねばならないのか。
永遠に囁きに耐えねばならないのか――。
おそろしい予感と不安が襲ってくる。
「トル……リン……兄弟子様……お師匠さま……」
人の精神なんて、そんなに強いものじゃない。
「お師匠さ……はやと……」
実のところ僕には、袋を抱えてトルたちから離れるので精一杯で。
「はやと……はやと……」
目は涙でもうグチャグチャで。
「はや……」
なぜか無意識に誰かの名前を呼んでいた。
助けを求めるかのように。
もつれる足。絶え間ない囁き。
『メニス。メニスを屠れ。血を。白き血を』
絶え間ない……
『血を』
頭が痛い。走りすぎて息が切れている。
『血を』
トルたちからは、だいぶ離れた。それだけが救いだ。
それだけが……
『血を!』
「うあ!」
足が疲れてもつれて、つんのめる。前のめりに倒れこむ。
箱がころげて蓋が開き。中から袋が飛び出して、前に数歩のところにべちゃりと転げた。
『くく……疲れたか? では、代わりに走ってやろう』
なん……だって?
『袋を開けろ。しもべよ。我がその体を動かしてやる』
「な……おまえまさか……」
こいつ……。
まさか僕が疲れきって……音をあげるのを狙ってるのか?
『おまえは眠れ。さあ、袋を開けろ』
僕をトルたちから離して。疲弊させて。そして体を奪うために、囁きを繰り返していたのか?
「戯言、だったのか? 死者を復活させる方法は……」
『まさか。まごうことなき真実だ。しかしもう走れぬのなら、袋を開けろ』
「いや……だ!」
だめだ。くれてやるわけにはいかない。
「いやだ……やめろ……!」
走り続けて疲れた体。その腕がぶるぶる震えながら、目の前の袋の口に伸びる。
「くそ! いやだ! いや、だ!」
また宵の王に取り憑かせるわけには、いかない。
この体は、僕のじゃ、な――!!!
「いや、だああああああっ!!!!」
――「ほうほう。すばらしいのう」
「え……?」
雨が降っている。
ざあざあ降っている。
寒い……
なんだかあたりが、眩しい……
「さすが、カラウカス様ですなぁ」
カラウカス、様?
目の前に袋が落ちている。
その前に、僕はぼうっと立っている。
その体が……煌々と白く輝いていて、眩しい。
光の源は、両の手のひらから発せられている。
ハッと覗き込めば、そこには光り輝く翼のような印がくっきりと刻まれていた。
「それは、カラウカス様が己が弟子を守るために刻んだ印じゃろう。
アスパシオンよ、そなたとて、ちゃんと魂が体に入っておれば、みすみす人工魂に体を乗っ取られることはなかったに違いなかろう。ちょっと抵抗すれば、その光の守護印が発動するのだから」
穏やかな声の主が僕の隣にしずしずと歩み寄ってきて、封印袋を拾った。
その人を見て、僕は息を呑んだ。
まとっているのは、黒き衣。きらりと光る、頭頂の……禿げ。
「すっ……スポンシオン……さま?! な、なんでここ、に……?」
「宵の王の騒動のおかげで、遺跡めぐりが復活してな。我はそれがために寺院から出たことになっておる」
「遺跡めぐり? 遺跡を点検するあの?」
「うむ。だがその実は蒼鹿家のヒアキントスめの迫害を避け、身を隠してシドニウスを追いかけておった。白鷹家の後見人として、そなたを――白鷹州公閣下の御子を救うためにな」
スポンシオン様の後ろからばらばらと、白マントをはおった銀甲冑の兵士たちが姿を見せる。
鎧やマントの柄は、みな銀に輝く鷲の意匠――。
「し、白鷹家の……人たち?」
「ほうほう、そうじゃよ」
僕の手からほとばしる光が、微笑むスポンシオン様の頭を神々しく照らす。
「運よくそなただけひとり、金獅子軍から離れてくれて助かった。でなくば、そなたを無理やり、あの軍隊から引き離さねばならんところだったぞ、アスパシオンどの。いや……」
ふわ、と、スポンシオン様の手が、僕の――我が師の頬に触れてきた。
とても優しげに。
「ナッセルハヤート……かわいい甥よ」
「あの……」
問いかけようとした口が凍る。
スポンシオン様が拾った封印袋の口が、ぱっかり開いているのが見えたからだ。
その中身は……
『ぐっ……ぐはああああ!』
外に、出ていた……。
『おのれ苦しい! 何だこの光は! 近づけぬ! 消せ! 光を消せ!』
青黒い火の玉のような塊が、僕らのすぐ前方でぐるぐるのたくっている。
塊は、雨にけぶる街道であまたの呪いの言葉を吐き出していた。
頭頂輝かしいスポンシオン様は、袋の口を開けて韻律を唱え始めた。
魔法の気配が降りてきたとたんに、青黒い塊がずるずると袋に吸い込まれ始める。
『おのれ! おのれええええ!!』
「ほほほ。他愛ないのう」
すぽん、と音をたてて宵の王が袋にすっかり入ると、スポンシオン様は袋の口をきっちりお閉めになった。
「人工魂なぞ、黒き衣の導師には脅威にならぬて。しかし気をつけねばならのは、暗き感情よ」
「暗い……」
「怒りや悲しみ、嫉みといった尖ったものを無防備にさらせば、この悪しきものはそこから容易に渡りをつける。甘やかな囁きをまとわりつかせて操ろうとするのよ」
ああそれで……
落ち込み、嫉妬に苛まれていた僕には、こいつの声がよく聞こえたのか……
「さてさて。
遊戯の玄人が呆然とする僕の腕をつかんだとたん。僕の両手からすうっと守護の光が薄れて消えた。
「そなたの父上がお待ちかねじゃよ」
「ち……父上?!」
我が師は白鷹家の庶子。ということは……
「ま、まさか白鷹州公……閣下、が?!」
「金獅子州公なんぞに会ったら、そなた何をされるかわからんぞ? 兄上は即刻そなたを保護しろと仰せなんじゃ。やはりのう、あの兄上とて、実の子供のことが心配なんじゃよ」
でもトルが……! リンが……! 兄弟子様が……!
メキドの使節はどうなる? 宵の王を金獅子州公のもとへ持っていかなければ、疑いは晴れない――!
「大丈夫じゃよ。怖がることはない。さあ、おいで」
「ちょ……ま……うううっ!」
後ずさる僕は、退路を強力な魔法の気配に遮られた。
刹那、頭に落ちてきたのはすさまじい重み。襲い来る眠気。
がくりと膝が折れる。腕が垂れる。
温かい腕が、前のめりに倒れる体を支えてくれる……
「いい子じゃ、ハヤート。お城に着くまで、ゆっくりお眠り」
疲れきっている体は、スポンシオン様の韻律に抗えなかった。
穏やかで柔らかな、子守唄には。
僕はいやがおうなく、韻律の調べに引きずりこまれていった。
「ほうほう。これで
深くて暗い、まどろみの中へ――。
――黒の章・了 灰の章へ続く――
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