アスパシオンの弟子 「黒の章」・「灰の章」

くろがねの歌６ かき氷

　ふわふわ。ふわふわ。

　白綿蟲（しらわたむし）がどんどん降ってくる。

　僕は茫然と空を見上げた。

　そう……今は、夏。暑い夏……。

　蟲がつもれば、農作業は大変になるんだっけ。急いで刈り取らないと麦がだめになるんだっけ。

　ふわふわ。ふわふわ。　

　白綿蟲はどんどん降ってくる。

　風に乗って吹き荒れる様は、吹雪のよう。

　蟲たちは、あっという間に商店街の通路を白く染めて……。

「ゆるして、おねえちゃ……」

　ごとりと、鈍い音がした。ハッと我にかえれば、泣き叫んでいた男の子が石畳の上に倒れている。

「し、しっかりするんだ！」

　手を伸ばして、男の子を抱きかかえたその時。

――「アスパシオンの！」

　背後から呼び声がした。蒼き衣の少女がひとり、こちらに走ってくる。身を固くして眼をすがめてみれば。やってきたのは、白肌のリンだった。

「公園から出て行くのを見たので、急いで追いかけてきました」

「リン、ごめん、僕……」

　リンが同情のまなざしでみつめてくる。

「お師匠様が気になったのですね？　内郭で派手にやりあっているようですから、心配になるのはわかります。でも、勝手に抜け出てはいけませんよ。ところでその人たちは？　女性の方はもうこときれているようですが……男の子はまだ息があるようですね」

　こときれた。

　リンの言葉にびくりと動揺しながらうなずく。

「う、うん。女の子にすがって泣いてたんだけど、き、急に倒れて……」

「これは……ひどい脱水症状で意識に影響がでたのでしょう。火傷で体液を奪われた上に激しく泣いたのでは、無理もありません。ただちに水分を補給しなければ」

　さすが、薬学に長けているメディキウム様の弟子。リンは的確に男の子の容態を読んだ。

　僕らは焼け残った果物屋に男の子を運んだ。店棚に細かい氷の上に載った桃やオレンジが盛られている。とても暑い日が続くので、氷で冷やして売っていたようだ。リンは氷を果物袋にいれて男の子の手足にあててやり、店の奥にそっと寝かせた。彼女に促されて、僕は塩を探した。栄養のある薬湯か、薄い塩水を与えなくてはならない。

　幸い、店の奥に塩樽が見つかった。急いで氷に塩を振りかけ、男の子の口に入れる。

　すると。男の子はほどなく意識を取り戻し、かすかに呻いた。

「かき氷だ……」

　そのまぶたから、またぽろぽろと涙が流れてきた。

「おねえちゃん……おねえちゃんと、かき氷たべたいよう……」

　リンが哀しげにその子の頭を撫でる。

「水分を失ってはいけないので泣かない方がいいのですが、それは無理というものですね。かわいそうに……。少し落ち着いたら公園へ運びましょう。薬を塗ってあげなければ」

　白綿蟲（しらわたむし）はまだ降り続けている。僕は白い綿毛にうっすら覆われていく少女のもとへ、そっと近づいた。

「テレ……」

　喉が詰まる。名前が言えなかった。事実を認めたくないからだった。

　ついさっきまで、この少女は歌を歌っていたのに……。

　道の真ん中に置き去りにしたくない。少女を抱きあげようと震える腕を伸ばす。指先が彼女の肩に触れるかというその瞬間――

「テレイス！　どこにいる？！」

　割れんばかりの怒鳴り声が、けむたい通りに響き渡った。

　僕は反射的に手をひっこめた。顔が真っ黒にすすけた若い男が、血相を変えて通りを走ってくる。

「テレイス！！」

　その男は僕を突き飛ばし、動かぬ少女をさっと抱き上げ、きつく抱きしめた。

「ちくしょう！　なんで……テレイス！　テレイス！　何か言ってくれ！　喋ってくれ！　目を開けてくれ！」

　だらりと力なく下がる少女の腕。男はすすり泣きながら悲鳴にも似た哀しい叫びをあげ、少女の額に、頬に、何度も何度も口づけした。しりもちをついた僕は、力なくその男を眺めあげた。

　この人は？　ああそうか、この人が……！

　果物屋から、男の子を抱いたリンが出てきた。

「あの、この子のお兄さんですか？　この子は今、あなたのことをおにいちゃんと呼んだのですが」

「セツ！　おまえは無事だったか！」

　男はリンが抱いている子に手を伸ばし、頭をぐりぐりと撫でた。それからまた少女をいとおしそうに抱きしめ、その頭に口づけを落とした。

「ゆるしてくれ……おまえを守れなかった……いくら仕事で離れてたからって……俺、旦那失格だ」

　僕の視界が急にぼやけた。うなだれると、石畳にぼたぼたと大きな水の粒がこぼれ落ちる。自分の胸をぐっとつかむ。とても痛くてたまらない。ばちんと音をたててはり裂けたように、痛くてたまらない……。

「ちくしょう許さねえ！　あの狂った魚喰らい！」

　嗚咽しながら、男が叫ぶ。

「俺のテレイスをこんなにしやがって！　町をめちゃくちゃにしやがって！　あいつ、ぶっ殺してやる！」

　狂った魚喰らいって――我が師のこと？

「違う……」

　僕はぶるぶる震えて、思わず叫び返した。

「違うっ！　嘘だこんなの！」

　ずきずき痛む胸がカッと熱くなり。口から勝手に言葉が飛び出した。

「ハヤトは、絶対、こんなことしないっ！！」

　僕は涙を拭って立ち上がり、男とリンの間を強引にかき分けた。

「アスパシオンの！　待って！」

　リンが鋭く呼び止めたが、僕は構わず通りを走り抜けた。

　耐えられなかった。

　男の腕に抱かれたテレイスを見続けることに。

　そして、我が師が罵られることに。

　絶対に信じたくなかった。

　我が師が、僕の幼なじみを殺したなんて……。

　胸の中で怒りと疑惑が炎のように燃え上がり、大きくうねる。

　一刻も早く、我が師の首根っこをひっ掴んで問いたださなければ。もし最悪の状況であったら、この手で始末をつけなければ。この僕の手で。

　だって僕は。

　あの人の弟子なのだから。

　近づく内郭の中から、身が竦みそうな音が響いてくる。

　バリバリと、空気を割るような音。それに……

　誰かの悲鳴。長い長い、尾を引く悲鳴。

　古い城壁のあたりは、一面火の海で真っ赤。長い長い悲鳴は、まだ聞こえている。

　焼け落ちてくる屋根や建材をなんとか避け、古い城壁の門に駆け込む。しかしそこでボヨンと、弾力ある見えない壁にはじかれた。

　結界だ。

　導師様たちは首尾よく、くろがねの兵士たちを中央の広場に追い込んだのだろう。

「くそ！　破れろ！」

　僕は無我夢中で、結界に体当たりした。

「破れろよ！　ちくしょう！　ちくしょう！」

　さすが長老様と魔力随一の導師様が作ったもの。肩が砕けるかと思うぐらい勢いよく突っ込んでも。韻律を打ち消す韻律を唱えても。びくともしない。

『目覚めよ音の神！』

　魔法の気配を降ろす。

　知っている限りの韻律を唱える。自分で覚えたものだけでなく、他の師弟の講義を聞きかじったものも全部。

　風を起こしたり。硬い結界をぶつけたり。悪霊をぶつけたり。

「ううっ。全然割れない！　ちくしょう！」

　結界には、ひび一つ入らない。

　眼がぼやける。悔しい。哀しい。

　涙が、じわじわにじむ……。

　僕はだめもとでついに、鳥になる変身術を唱えた。厠（かわや）でこっそり練習したあの韻律。まだ一度も成功したことのない術を。

『我が腕よ。細き腕よ……！』

　翼が生えれば、城壁も結界もものともせず、空から飛んで入れるからだ。

『かく空に広げし銀光は

　白はやぶさの疾風はやて立つ

　風切る翼　きめらかに

　変じよ我が腕　おおらかに』

　手足が虹色に光る。

　いい感じだ。今回はいけるかも！

　我が身がみるみる変化してくる。

　火事場のクソ力、念ずれば花開く、なんとか鳥に近いものになれれば……！

「く……やっぱりだめか！」

　残念なことに、翼はやはり生えてこなかった。ふわんと蒼き衣が地に落ちる。

　体がどんどん縮んで、白い毛が生えていく。

　頭からタラリと、長い耳が垂れてくる。

　今回の変化は耳だけではなく全身に及んだ。しかしその姿は鳥ではなく。　

「こ、これ……ウサギ？！」　

　なんてことだ。

　小さな体躯。長い耳。大きな後ろ足。全身まっ白でモフモフ。

　ふわっとした毛が生えている小さな両手で、我が身をぺたぺたさわって確かめる。

　やはり。どこからどう見ても、ウサギ……になっている。

「どうしてもこれ？！　くそ！」

　ぐずぐず落ち込んでいる暇はない。

　僕は首にかかった時計のごときお守りをちゃりちゃりいわせながら、地に落ちた蒼き衣から飛び出した。とっさに城壁の割れ目を見つけ、白い毛皮まとう小さな体をねじこむ。内郭まで突き抜けている小さな穴を上手くすり抜け、後足で壁を蹴って踏み切り、体をびゅんと前へ進ませる。

　なんという軽やかさだろう。ものすごい速さで走れる。

　ちゃりんちゃりんとお守りが小さな胸で揺れる。

　あっという間に視界に入ってくる街の広場。その中央には、仁王立ちの真っ黒い我が師がいる。その周りを取り巻くのは、ものすごい数のくろがねの兵士たち。

「お師匠さま！　うっ？！」

　我が師の方ばかり注意を向けていた僕は、すぐ目の前の大きな塊にけつまずいてころころ転がった。

「お師……さま！　デクリオン様っ！」

　ユスティアス様の声が、すぐそばで聞こえた。息が切れ、ひびわれている。とても哀しげな声音だ。

　まさか……！

　おそるおそる、大きな塊を見上げる。

　僕がけつまずいたものはやはり――デクリオン様だった。ぶすぶすと黒い衣から煙があがり、肌が黒く焼けていてぴくとも動かない。

　ユスティアス様がその動かぬ体にすがって、涙を流して叫んでいる。

「私をかばうなんて！　お師さま！　目を開けて下さい！」

――『うははは！』　　　　　　　　

　我が師が両腕を頭上に広げ、高らかに笑う。

『ニンゲンはいつ見ても愚かよの。結局どちらとも同じ結果となるというのに』

　あきらかに、本人と声が違う。

　目の色も変だ。白目が黒く、瞳が真っ赤。

　導師様方の見立て通り、あきらかに何かに乗り移られている。

　しかし黒き衣をまといし導師が、あっさり悪霊のごときものに乗っ取られるなんて。寺院に住んでいる導師様方は、冗談をかます時すら恐ろしい呪を飛ばしあう。ゆえに日頃から無意識に結界の一枚や二枚張ってるのが常識だ。

　さらにありえないことには、我が師は生活態度と性格はともかく、尋常ではない魔力と韻律の技量を持っている。無音韻律で、誰にも気づかれず人を支配できるぐらいの魔力を。それなのになぜにこんな状態に……

『消え去れ導師ども！　もう我を封じることはできぬぞ。よき身体を得たからなぁ！』

　我が師が、ユスティアス様に向かって手を突き出す。手のひらに大きく黒い玉がぶわっと現れ、みるみる膨張していく。

「だめえ！」

　反射的に叫び。僕は――白い小さな兎の僕は、我が師に向かって突進した。

「撃たないで！　ハヤト！」

　とっさに口をついて出てきたその名前に、我が師の体がびくんと震えた。

「正気に戻って！！」

　我が師の胸元めがけて飛び込む。まるで弾丸か、鋭い矢のように。

　しかしその瞬間、放たれた黒い玉が僕を包みこみ。

――「ぎゃん！」

　僕の白い毛皮の体を焼いた。真夏の太陽のように。熱く。熱く……。

　熱い……熱い……

　燃える……

　あつい……アツイ……

　水……水……

『ペペ！　ペペ！』

　なぜか目の前に、ニコニコ顔の黒髪の男の子がうっすら見えてくる。

　聞こえてきたのは、幻の声。

『ペペ！　今日はほんと暑いなぁ。ほら、おまえの好きなニンジンカキ氷だぞ』

　うん。ハヤト……ハヤト……アツイよ……

　胸が痛くて……痛すぎて……ぼうぼう燃えて……熱い……。

　カキ氷の幻影を最後に、僕の意識はすうっと遠のいた。

　暗く黒い、炎の中で。