ハイヒールを脱いだら
@umineco
Day1 週末、親友と。
オフィスを出ると辺りは薄暗くなっていた。
駅に向かう横断歩道の信号が静かに点滅している。
実可子は小走りしかけて、すぐに諦めた。
今日おろしたばかりのハイヒールのせいでうまく走れなかったのだ。
立ち止まると空に向かってふっと小さく白い息を吐いた。
空を覆うようにそびえ立つ無数のオフィスビル。
薄暮の闇を行き交う車のヘッドライト。
実可子はこの光景が好きだった。
自分も世の中の一員として一日を生きた実感がわいてくるからだ。
平凡に終わっていく今日という日が、少し報われたような気持ちになる。
そんなことをぼんやりと感じている間にも、薄暗かった街は段々と夜になっていく。
信号が青に変わる。
実可子はコツコツと踵を鳴らし歩き出した。
恵比寿で人気のバルは、金曜の夜ということもあって大勢の客で賑わっていた。
「で、実可子たちは一体いつになったら結婚するわけ?」
パッツンと切られた前髪の下の大きな瞳がジッとこちらを見つめる。
親友の紗織は誰が見ても100点満点の美人だ。
某女優に似ているため、本人と間違えられ、声をかけられることもよくあるらしい。
美人は三日で飽きるとよく言うけれど、実可子にとって紗織は刺激的な存在で、親友でありながら憧れの対象でもあった。
そんな自慢の親友は、かなり酔いが回ったのか、さっきから同じ話を何度も繰り返している。
「もう何年付き合ってるんだって話よ。長すぎた春になるのだけはやめてよ、マジで。」
グラスに残ったワインをぐいっと飲み干したかと思うと、再びボトルに手をかけようとしている。
実可子は思わずその手を遮った。
「ちょっと、紗織。飲みすぎだって。」
「だって、智史君、実可子のことちゃんと考えてくれてるの?実可子、もう32よ…」
紗織は泣き出しそうな声でそう言うと、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
「紗織。紗織ってば。」
肩を揺するが、聞こえてきたのはスースーという寝息だった。
「…もう。」
実可子は小さくため息をついた。
冷めきったポテトフライをひとりつまみながら、先ほどの紗織の言葉を思い返す。
「智史君、実可子のことちゃんと考えてくれてるの?」
途端に胸の奥にモヤモヤとしたものが込み上げる。
それは実可子が普段見ないふりをしている、いちばん知りたくない部分であり、いちばん知りたい部分であった。
智史とは大学時代に出会い、先月ついに付き合い始めてから10年目を迎えた。
前々から「この10年目の記念日に何かしらプロポーズめいたことがあるに違いない」と、なぜか本人より意気込んでいた紗織は、何の進展もなかった実可子たちを心底心配しており、最近は酔えばいつもこの調子だ。
当の実可子のほうが、どこか他人事のように冷めた温度でいることが多い。
少し前なら、ぼんやりながらも結婚したいという思いがあった。
紗織を含め、周りの友人たちが立て続けに結婚した時期だ。みんな2〜4年ほどの交際を経てゴールインしていった。
仲間内で誰よりも交際歴の長い自分だけが取り残されたことは、実可子にとってどこか気恥ずかしいものであった。
しかし、そのタイミングを過ぎると次第に「結婚」というものにあまり魅力を感じなくなっていった。
自分は本当に「結婚」がしたいのか。
そもそも「結婚」に何の意味があるのか。
考えれば考えるほど答えが出なかった。
答えが出ないことが答えだということも感じていた。
「ふぅ」
実可子は再び小さくため息をつくと、スマホを取り出した。すでに23時を回っている。
さて、起きる気配のない親友をどうするか。
スマホの履歴を辿り発信してみる。
「………もしもし、尚ちゃん?紗織がまたつぶれた。悪いけど迎えに来てくれない?うん。ごめん、よろしく」
それから15分も経たぬうちに電話の相手は現れた。
「みっちゃん!ごめん!」
申し訳なさそうに顔の前で手を合わせながら慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
色白の頬が少し火照って見える。よほど急いで来たのだろう。
成瀬尚希。紗織の夫だ。
「ほら!紗織!起きて!帰ろう」
「…ん〜。尚希?」
半分意識を取り戻した紗織の肩を二人で支えながら会計を済ませどうにか店の外に出た。
「向かいのコインパーキングに車停めてるから。みっちゃんも乗って行って。送るよ」
尚希が指差した先に黒いSUV車が見える。
最近新車を買ったと紗織が話していたそれだ。
「大丈夫、まだ電車もあるし。早く帰って紗織寝かせてあげて」
「いや、でも夜遅いし一人じゃ…」
言いかけた尚希の横で紗織がしゃがみ込んだ。
「ちょっと紗織、大丈夫?ほら!私はいいから早く乗って!」
紗織を車の後部座席に押し込み一息ついたところで運転席の窓がスッと開いた。
「みっちゃん。本当に大丈夫?」
尚希はまだ心配気な顔でこちらを見ている。パーキングの照明に照らされた薄茶色の髪がさらに柔らかく光って見える。
「彼氏にさ、連絡したら迎えに来てくれたりしないの?」
「…あ、そうだ。そうだね!連絡してみよっかな。明日休みだしね」
実可子が明るい声で答えると、尚希はホッとした表情で微笑んだ。
「そうして。そのほうがオレも安心だから。遅くまでありがとね。じゃあまた」
遠ざかるテールランプを見送りながら、実可子はなぜか泣きそうになっていた。
一瞬自分の顔が曇ったこと、尚希には気づかれなかったようだ。
大きく息を吐いて、スマホを取り出しメッセージアプリを開く。
『これから会えない?』
最後の文字のうしろで点滅するカーソルを見つめたまましばらく時が過ぎた。
頭に浮かぶのは智史ではなく紗織と尚希を乗せて遠ざかるテールランプの光だった。
削除ボタンを連打してメッセージアプリを閉じる。
急いで歩けばまだ終電に間に合いそうだ。
ふと見上げた空は実可子の心のように真っ黒だった。
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