Tバックを逆さに眺めて

吉川秀樹

序章 失われた妄想

この物語は失われた妄想が遺した欲望の傷跡だ。

満たされない欲望の残骸はヒロインの内部に執拗に迫った。

彼女への想いが強くなればなるほど、

透明な人格は記憶の中の一人の女性へと収束されていった。

創られたはずの彼女もまた自意識を持ち始め、

偶然を装ってオレの前に現れたのかもしれない。

その再会は、オレが既に創り上げていたストーリーの一部だったのに気付いたのは、一ヶ月後の事だった。


どこからどこまでが虚構で、どこからどこまでが現実だったのだろう。

今となってはフィクションという言葉でさえ尊いものに感じる。


彼女にもし本当に再会できたら、この物語をプレゼントしよう。

そこには今日これから起こる全ての愛と罪と欲望が描かれているのだから。


現実が小説を上回る悲劇である今、フィクションに与えられた役割は何なのか。

それは「無」になれる瞬間なのかもしれない。

人は皆、透明になれる瞬間を待っているのかもしれない。

それがかけがえのない匿名希望の存在感とでも言うかのように。


「あたしたちは愛しすぎてお互いのパートナーまで愛せる存在かもね」

サキコは耳たぶを甘噛みしながら言った。

「それはオレたちが幼馴染だからか?」

腕の中で少女に戻っていくサキコに向かって言った。

オレたちは互いを愛し過ぎて、

愛する人の愛する人までを愛することができるようだ。


 サキコとオレは共に今年で30になる。どうでもいいが血液型も一緒のAB型だ。オレは既婚者でサキコは独身、愛する人の愛する人、それはお互いのパートナーのこと。サキコから見ればオレの妻であり、オレから見ればサキコの彼である。

 一度も取り組みを見たことがないが、サキコには将来有望な関取の彼がいるらしい。オレにはOLの妻がいるが、サキコが聞いてこない限り言うつもりはない。

 これがもし昼ドラの世界だったら、どちらかが先にしびれを切らし、男は女を金で囲い、女は男の家庭を崩壊させる、そんなわかりやすい悲劇の主人公を演じるのだろう。

 しかしサキコとオレは違う。恋をし、愛し合い、貪り合う。そこに快楽があるのは事実だが、セックスフレンドとは思っていない。もちろん金銭の縛りもなく、面倒な契約もない。二人が幼馴染だからというのは都合のいい言い訳かもしれない。

 互いに理解し合っているからというには空白の時間が長すぎただろうが、二人はそれでいいと思っている。

 愛する人の愛する人までを愛するということの答えが、サキコの存在のおかげでわかったような気がする。

 妻とサキコは似て非なるものをオレに与えてくれる。


 「事」の始まりはオレが出した一通のファンレターだった。

それがどういうことかは後で説明する。15年間という空白の時を超えての再会は、二人を盛り上げるのに十分過ぎるシナリオだった。

 3回目のデートだった。パークハイアットホテル52階へ向かうエレベーターの中で初めてキスをした。15年前には舌を絡め合うキスの存在すら知らなかったのに。

 高速で上昇するエレベーターが30階を過ぎる辺りから気圧が変わるのを感じた。耳が詰まる感覚が音のない別世界へと二人を誘った。絡め合う舌と混ざり合う唾液は別世界への扉を開く浄化のダンスだった。

 エレベーターが40階を超えた一瞬、粘膜がエクスタシーに溶けるのを感じた。それを確かめるように無意識の手はサキコの白い腿を伝い上昇し、二人よりも先に52階へと到達していた。

 柔らかな下腹部はしっとりと濡れていて、オレは痛いぐらい勃起した。

不倫は文化などではない。単なるキャッチコピーだ。頭の悪い連中の駅のゴミ箱に捨てられた週刊誌の見出しであり、昼ドラの見過ぎもいいところだ。そんなものより大事なものを、オレはこの物語の中に見つけるつもりでいる。

 サキコの彼が力士と聞いて最初に思ったことは、どうやってセックスするのだろう、というくだらない疑問だ。大きなお腹を持ち上げれば皆が心配するほど難しいことではない、とサキコは笑いながら言うかもしれない。

「人が書いたものを最初と最後だけじっくり読むのはやめてね、途中が大事なんだから」

 オレが好きなサキコの言葉だ。

 幼い頃のサキコを知っているからだろうか。カメラの前で自慰をする姿は

自由への疾走のようにも見えた。

 サキコがAV女優にならなければいけなかった理由を、今でもオレは探し続けている。

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