犬と言うよりは猫に近い
安東 亮
序(二)
ちらちらと窓際の上司を盗み見る。
ブラインドの隙間から差し込んでくる陽光を背に彼も部下と同様、パソコンに向かって作業をしている。
パソコン越しに見える彼の表情からは逆光の影響もあって感情は読み取れない。
しかし、仕事中彼の機嫌が良かったためしはない。
僕は誰にも聞こえないように嘆息し暗澹たる思いで手元の資料に目を落とした。
書いてあることの意味は分かってきた。
しかし、ここからどの言葉、どの数字を拾えば求められているデータが出来上がるのか、まだはっきりとは見当がつかないでいる。
僕は資料とパソコンの画面に交互に目をやりながら落ち着いた顔を取り繕ってキーボードを叩く。
だが、何時間経ってもプリンターから成果物はアウトプットされてはこない。
それは僕が入力しているふりをしているだけだから。
押しているのはテンキーとバックスペース。
でたらめな数字を画面に表示させてはそれを消す。
スクリーンセイバーを起動させないということ以外に全く意味のないその作業がもう四時間も続いている。
僕はミーアキャットのように再び顔をもたげ荒涼とした職場を見回した。
みんな黙々と同じような表情で仕事をしている。
少し充血し黄ばみ濁った目、カサカサと乾燥し血色の悪い唇、テカテカと嫌らしく光る脂ぎった小鼻のあたりに疲労感を漂わせながら机に齧りつき作業を行っているのだ。
ふと斜め向かいの先輩が伸びをして僕と目が合った。
僕は少し頬を緩めて軽く頭を下げる。
そんな僕に彼は付き合っていられないと言わんばかりに左右に首を振り、すぐに画面に視線を戻してしまう。
はたして僕は不真面目なのだろうか。
怠けたいわけじゃない。
僕だってみんなと同じように資料を作り上げて、この課に貢献したい。
だけど気持ちが空回りするだけで、僕はちっとも前進できないでいる。
焦りは募り、いたたまれなさに僕は胸を搔き毟りたくなる。
こんな僕でも昨日はなんとか二つの集計表を完成させることができた。
しかし、そこに至るまでの道のりはまさに艱難辛苦の連続だった。
そして今も茨の道は続いている。
基本的には一年前と同じ資料をデータ更新すれば良いのだから難しいことではないということは僕も理解している。
しかし、見よう見まねで作ってみても明らかに桁が合わなかったり、数字が負の数になったりする。
今年は不況不況と言われているようだから、そういうこともあるのだろうか。
いや、そんなことはあるまい。
「ここは、こことここから拾えばいいんですよね?」
これまで何度質問したことだろう。
訊くことは恥ずかしいことではない。
訊かれれば誰もがその人なりの反応で答えてくれた。
そういうことの積み重ねで完成したデータを持っていくと係長は露骨に眉間を曇らせる。
「おいっ!こいつに指導したやつは誰だ!」
彼は僕を叱らず僕に教えてくれた人にどなり散らす。
被害にあった人は心外だというように眼を見開くと、すぐにその眼を細めて僕に向け凍てつく光線を放って僕を心停止させる。
この課に配属になって間もなく一年が経とうとしていて、僕は徐々に周囲に声をかけることが出来なくなっていた。
訊くときには要点をまとめ、しっかりメモをとり、同じ質問を何度も繰り返さないようにしないと。
教えてもらったらそのとおりにデータをまとめ、周囲に迷惑がかからないように間違いがないか何度も確認しよう。
そうやって作り上げたデータもやっぱり間違いだらけのようだ。
今朝も一度僕のせいで雷が斜め向かいの人に落ちている。
どうしよう。
入力しているふりだけだから何も出来上がらない。
このままで良いはずがない。
また誰かにヒントをもらうしかない。
もう訊くことは頭の中にまとまっている。
だけど……。
僕は気づくと貧乏ゆすりをしていた。
本当に自分が嫌になってくる。
みんなができている当たり前のことが、どうして僕にはこんなに難しいのだろう。
惨めで情けない。
全力で走っているのにあっという間に周回遅れになり、また抜かされ、さらに抜かされ、前の背中がどんどん小さくなっていく。
どうしよう。
どうしよう。
僕は今どこを走っているのだろう。
歯で下唇の皮を剥ぐ。
血の味とにおいが口の中でひろがる。
でも僕は僕でしかない。
どんなに能力が低くても、頭の回転が鈍くても、自分のことがほとほと嫌になっても、それが僕という自分なのだから仕方がない。
殴られても侮られても僕は僕のペースで僕にできることをしよう。
走ることを止めることだけはしてはいけない。
あのぉ……。
小さな声が喉の奥に引っかかって掠れてしまう。
それでも僕が声をかけた先輩女性職員は気づいてくれたらしい。
ビクッと肩に力が入ったのがその証拠だ。
彼女は恐る恐るという感じで僕の方に顔を向ける。
最近、僕に声をかけられるのを怖がる人がいる。
僕が作ったデータに誤りがあると、上司に「誰が教えたんだ」と叱られることになるからだ。
しかし、彼女の態度はそういうものとは少し違っている。
「お忙しい時に申し訳ありません。ここなんですけど……」
僕が肩を少し彼女に寄せる。
するとその分だけ彼女はすっと身体を引く。
それは彼女が僕を拒否しているからではない。
話しかける人が誰であっても、その人との距離は一定保ちたいという彼女の強い意識の現れなのだと僕は知っている。
彼女はこちらを見てくれる。
正確に言えば僕と目を合わせてくれるわけではないが、少なくとも僕の方に身体を向けてくれる。
話を聞こうという姿勢を見せてくれるのだ。
最近、僕はそれだけでもう目頭が熱くなってくる。
緊張と喜び。
この課の他の人はもう僕の言葉に耳を貸してくれたりはしないだろう。
僕には彼女しか訊く人がいない。
彼女だけが頼みの綱なのだ。
「……ここのことですか?」
毒蛇の皮膚の感触を確かめるような恐る恐るという感じで、彼女は僕が示す資料に小さく白い指を差す。
可愛らしいアーモンド形の爪の上が少しささくれている。
「そうなんです。ここの数字はこの費目のここの欄を合計していったものなんですよね?あと、ここの数字は人事係が先日くれた来年度の定員数を示したこのペーパーの数字をそのまま使えばいいんですよね?」
僕はできるだけ声の響きを尖らせず柔和な表情を作るように心掛ける。
挙動不審なのよね。
口下手にもほどがある。
対人恐怖症ってこのことか。
彼女に対する周囲の声だ。
僕も人付き合いは得意ではないが、彼女のそれと比べると及びもつかないだろう。
今も彼女の頬は見事に朱に染まり、指は小刻みに震え、その声は口の動きに集中していないと何を言っているのか分らないほど小さい。
それでも僕は懸命に彼女に語りかける。
僕には彼女しかすがるべき存在がいないのだ。
彼女にまで敬遠されれば僕はこの職場に居場所はない。
「……そうですけど」
「やっぱりそうですか。ありがとうございました」
僕は丁寧に頭を下げるとサッと身体を戻し、資料にメモを書き込みデータの作成に取り掛かる。
あれもこれもとしつこくしては唯一無二の切り札である彼女とのコミュニケーションさえもぶっつり切ってしまいかねない。
質問は、素早く簡潔に、が重要だ。
とりあえず今回のデータはこれで目鼻が付きそうだ。
僕は手元の資料とパソコンの画面に目を移した。
早くしないとまた係長にどやされる。
それに正確に作らないと今度は彼女が係長の逆鱗に触れてしまうことになる。
それだけは何があっても避けなければ。
集中。
集中。
……のぉ。
……あのぉ。
作業に取り掛かる僕の横で何か聞こえる。
目を向けると彼女が僕の方を見て何やら指をもじもじ動かしている。
「何か?」
「あのぉ……」
「はい?」
「やっぱり差し出がましいです。何でもありません」
「あ、いや、是非お願いします。助けてください。何か足りないことがあるんでしょうか?」
彼女は顔を上げることなく、ぼそぼそと喋り始めた。
僕は彼女の口の動きを読むために椅子を引き目の位置を低くする。
「……足りないというわけではないんですけど。……確かに費目ごとの合計で数字はできていますが、最後に昨日作成されたデータを係数として掛けあわせないと係長が言っているものにはならないのは……ご存知ですよね?」
「え?そうなんですか?」
そう言えば係長に昨日「これで次の資料に取りかかれるな」と言われた気がする。
単純に一つの作業が終わったことを告げられただけだと思っていたのだが、実はそういう意味だったのか。
「あと、《款項目節》で言えば《目》までが外部に出る資料になるので費目ごとの合計でいいんですが、手持ち資料として《節》までどうしても必要になりますので《節》のデータも入力しておかないと後で困るというか……」
彼女はまるで口まで出てきた言葉をそのまま音にするのではなく一旦そこで咀嚼し表現が適切か誤りはないか確認するようにしてゆっくりゆっくり紡ぎだしてくれた。
「あ、ありがとうございます。そうします」
彼女の助言がきっかけとなって僕の持っている断片的な知識が繋がり形をなしていく。
「そ、それと」
「はい。お願いします」
「人事係のペーパーには括弧書きで数字が付いていると思いますが、これは高齢雇用職員の数ですので、この数字を単純に使える場合とそうでない場合があります。括弧書きは外数で表示するのが決まり事になっていますから現役職員だけのデータを作るのなら括弧書きは含めず、高齢雇用職員の活用に関するデータを作るのなら逆に括弧書きだけの数字を使い、全職員のデータが欲しいのなら当然括弧書きも含めたもので作らないといけないのは……ご存じでしたよね。ごめんなさい。お忘れだといけないと思って」
天使を見るようだった。
僕は彼女の伏し目がちな顔から柔らかな光が溢れ僕を温かく包んでくれているのを感じた。
僕は彼女の肩越しに係長の悪魔のような冷ややかな視線とぶつからなければ、この場で彼女の手を取り抱き寄せているところだった。
「え、ええ。それは、知ってます。これとは別に臨時職員の数にも気をつけなければいけませんよね」
僕は意識して係長にも聞こえるような声を出した。
やれやれといった表情で係長がパソコンに戻る。
「ご、ごめんなさい。やっぱり余計なことでしたよね」
彼女は深々と頭を下げると逃げるように机に戻ってしまう。
あっ、と声をかける暇も与えず天使は羽をはばたかせて僕の前から慌ただしく消え去った。
隣の席なのに異次元の遠さを感じる。
彼女は暫くの間僕の前に現われてはくれないだろう。
僕は仕方なく作業に戻りながら、パソコンの画面に先ほどの遠慮深い天使の様子を思い描いていた。
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