ヤンデレになった彼女たち
いんぷ
序章 トラウマ
――世界のすべてがスローモーションになった。
高校一年生も終わりに近づいている少年、
「え、うそ」
骨ばったほっそりとした腕につかまれているのは自分の右手……その人差し指で、指の腹からはぷっくりと小さな血の玉がこぼれていた。
そこへ迫るのは薄暗い影の中にのぞく赤い肉壁と白の羅列で、いざ少年の指を飲み込まんと進行している。
そして――、
「は」
ぱくり、と。
あっけないほど簡単に、彼の人差し指は人間の口内へと飲み込まれてしまった。
……後の清明駆に、そこから先の記憶はない。
生暖かくて湿っぽい口内も、ザラザラでヌメヌメな舌の感触も、指から出る血をちゅーちゅー吸われる筆舌に尽くしがたい刺激も、清明駆の記憶に保存されることはない。
そう、たとえこれが女性から受ける見ようによってはいやらしい行為であろうとも、思春期真っ盛りな少年がそういう反応を示すことは決してありえないのだ。
なぜならば、
「……ふぅっ、今回のところはこれくらいにしとこうかねぇ」
ちゅぽっ、という生々しい効果音とともに、粘着質な糸をひきながら離された口から発せられるのは、かすれて乾ききった女性の声。
人差し指の解放を皮切りに、停止していた駆の脳が現実の認識を再開し、目の前の女性の特徴を改めて把握する。
丸く折れた身体には童話に出てくる魔女のような黒いローブを羽織り、目深にかぶった黒いフードの下には血の気の失せたしわだらけの皮膚をまとう顔、そして骨と皮しかない小枝のような細い腕という、疑いようもないほどに年季を感じさせるパーツを組み合わせて一つの単語にしたところで、
『しわくちゃな老婆に指をちゅぱちゅぱ☆吸われた挙句、舌でれろれろ♪ねぶられちゃった』
という紛れもない残酷な現実に、高校一年生という性知識に関してナイーブな時期にいる少年は直面するのだった。
しかし大丈夫だ。先述のとおり、後の清明駆にこの一連の出来事に関する記憶は残っていない。べつに老婆の行為に記憶喪失を引き起こすような特殊効果があったわけではなく、精神衛生上、清明駆の本能が記憶を留めておくことを拒んだのである。
だからしわくちゃな老婆に指をちゅぱちゅぱ☆ と吸われた事実なんて存在しなければ、
「そら、これくらいで一年分をいただいたよ。一年でどれだけの効果があるんだと思ってるんだろうが、まあそれなりの――」
とかなんとか老婆が話している言葉も記憶から抜けているし、指から離した口とつながっている唾液の糸が切れるという本当なら淫靡であるはずのおぞましい光景も、覚えてなどいない。
そう、断じて覚えてなどいないのだから。
少年の頬を伝うこの一筋の涙もまた、きっと遠い別世界で起きた出来事だったのだろう。
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