第5話 坂下先生
廊下に倒れこんだ私は、振り返って、自分の目を疑った。
坂下先生が、吉田を殴っていた。
激しい殴打音とともに、血管の浮かんだ先生の拳が情け容赦なく吉田の身体に振り下ろされる。
何度も何度も何度も。
胸倉を掴みあげ、ワイシャツのボタンが弾けとんだ。
先生が丸太みたいに太い手を胸倉から離すと、吉田は呻き、身体をくの字に曲げて床にうずくまる。
それでも坂下先生は止まる事無く、さらに吉田を蹴り上げた。
「先生やめてください、何してるんですかっ」
吉田に振り下ろされた腕に、咄嗟に私はしがみ付いた。
こんなことしてたら、吉田が死んじゃうよ!
「幹原、逃げろ……」
頭を怪我したのだろう。
吉田がこめかみに流れてくる血を片手で抑えながら、呻くように私を見上げる。
そんな事を言われても、吉田を置いて逃げれるわけがない。
「先生、しっかりしてくださいっ、お願いですからっ」
必死に腕にしがみ付いて止める私を、坂下先生が見下ろす。
ぞくりとした。
生徒を見る眼じゃなかった。
邪魔なモノ、いらないモノ、汚いモノ。
そんな何かをみる白い目で、坂下先生は腕にしがみ付く私を力任せに振り払う。
廊下の壁に叩き付けられ、私は一瞬息が詰まった。
激痛が背中に走り、直ぐには立ち上がることさえ出来ない。
(こんなの、先生じゃない……っ)
わかってる。
これもきっと、あの少女のせいだって。
でも。
坂下先生は、腕力で物事を解決するとは言われても、こんな暴力は絶対になかったから。
悪さした男子の耳を引っ張って職員室に連れ込んだり、ヘッドロック決めてそのまま教室に連れ戻したり。
でもそれで怪我をしたこともなければ、先生が怒りに任せて暴力を振るった事だってなくて。
吉田だって教室で寝てたのバレたら殴られるかもなんていいつつ、本気で殴られるなんて思ってなかったはずで。
それが、こんな風になってしまうなんて。
坂下先生は私が動けないのを見て満足したのか、それ以上私に攻撃を繰り出しては来なかった。
再び吉田を見下ろし、彼の髪の毛を掴みあげる。
そしてそのままずるずると彼を引きずりだした。
どこへ行くのか。
それはすぐにわかった。
非常階段だ。
そこから、一体何をするつもりなのか。
考えたくない予想は、きっと当たっているに違いない。
絶対に、止めないと。
(なにか、なにかない?!)
私は必死に思考を巡らす。
体当たりしても、しがみ付いても、また振り払われるだけなのはわかってる。
でもほかに方法は?!
きょろきょろと辺りを見回す。
そして私は、この状況を打開する物と目が合った。
階段脇に設置されていた消火器。
私は痛む身体を気合で動かして、消火器についている黒いゴムホースを掴み取る。
(先生、ごめんなさいっ)
心の中で詫びながら、私は坂下先生の足めがけて消火器を振り抜いた。
赤い消火器が、ハンマー投げのように先生の太股にめり込んで、先生の足から嫌な音が滲んだ。
ゴトリと音を立てて消火器は床に落ち、先生の絶叫が校舎に響き渡る。
火事になった時に、こんな重いものが冷静に使える人がいるんだろうか。
むしろ気にも留めていなかったけど。
普段はそんな風にスルーしていた消火器が、いまは神武器だった。
吉田が坂下先生の手を逃れ、私のほうへよろけた。
私は吉田を抱きしめるように、その身体を全身で支える。
「走れないよね?」
「……走るのは無理だな。歩くのは、なんとか」
血の滲む口の端を、吉田は拳でぬぐった。
足をやられた坂下先生が、呻きながら廊下を這ってくる。
私は吉田を支えながら、開いていた家庭科室に飛び込み、ドアに鍵をかける。
吉田を椅子に座らせて、私は反対側のドアの鍵も閉めた。
ここが家庭科室でよかった。
包帯はなくとも、布巾があるはず。
私は、授業で仕舞う場所を思い出しながら、薄暗い中を確認してみる。
布巾は記憶どおりに各テーブルの引き出しにきちんと畳まれて仕舞われていた。
水で濡らし、吉田の頭の傷にそっと押し当てる。
染みるのだろう、吉田が辛そうに顔を歪めた。
「痛いよね、ごめん」
「いや、助かるよ。自分じゃ見えないしな。それにしてもあいつ、思いっきり殴りやがったな……」
正気に戻ったら抗議してやるといいながら、吉田は軽く笑う。
見た目ほど酷い怪我じゃないのかもしれない。
私は、ちょっとほっとして、肩の力が抜けるのを感じた。
でもほっとしたのはそこまでだった。
ドンッ!
ドンドンドンドンッ!
家庭科室のドアが、激しく叩かれた。
坂下先生だ。
先生が立ち上がり、ドアを拳で叩いている。
「幹原、俺の渡した小袋は?」
「あるけど、塩はもうないの。教室で使い切っちゃったから」
私は1年2組の教室で渡された和風の小袋を取り出して、吉田に返す。
吉田が中身を確認するけれど、当然からっぽだった。
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
………。
ドアを叩く音が止まった。
(あきらめてくれたのかな?)
そう思った。
けれどそんなはずはなく、次の瞬間、坂下先生がドアに体当たりをかまし、ドアは鍵がかかったままレールを外れ、家庭科室の中に倒れこむ。
そして、ドアがあった向こう側には。
「ぐぉあああああああああああああああっ!」
坂下先生が、雄叫びを上げて立っていた。
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