忘れ物をしたせいで

霜月 零

第1話 夜の学校

 夜の学校というものは、どうして、こうも静かなのだろう?

 私は、怖いという単語をなるべく頭に思い浮かべないようにして、そんな事を思う。

 冷たい廊下に、私の足音がやけに響く。

 ヒールでも履いているみたいだ。

(なんで忘れ物なんかしてしまったんだろう?)

 学校に来るまでの間にも何度も思ったことを、私はもう一度思う。

 べつに、忘れ物ぐらいする。

 正直、忘れたのが週明けに提出しなければならない宿題でさえなかったら、そのまま放置していた。

(阿野先生、煩いしね……)

 月曜の一時間目に宿題を提出できなかった場合、ネチネチネチネチ、ネチネチネチネチ、阿野先生に嫌味を言われるのが目に浮かぶ。

 アラフォー独身女性なせいか、やけに女生徒に冷たいのだ。

 特に私のように数学が壊滅的な女生徒には天敵。

 今週末にまたお見合いに行くという噂も考えれば、嫌味の粘度も知れたもの。

 絶対に、刺激したくない。

 ふるふると頭を振って、私はそっと階段を上る。

 宿直の先生にきちんと挨拶もしてあるし、何も無断進入しているわけでもないのだから堂々としていればいいのだが、どうしてもそっと歩いてしまう。

 足音が本当に響くのだ。

 ひと気の無い学校というものは、静か過ぎて、耳に痛い。

 昼間はあんなにも喧騒に包まれているというのに。

 私は軽く溜息をついて、三階の教室に向かう。

 1年2組のドアに手をかける。

 ひんやりとした鉄の感触が指先に伝わり、私は横に開け――叫びそうになった。

 街灯の仄かな光に照らされた薄暗い教室の中に、いたのだ。

 先客が。

 ぼうっと霞む黒い影。

 私が叫ばなかったのは、一瞬にしてからからに渇いてしまった喉に声が張り付いて、物理的に叫べなかっただけだった。

 黒いシルエットは外を見ていたのだろう。

 私に気づき、黒い影がゆっくりと振り返る。

「幹原? こんな時間にどうして教室に」

 こんな時間に教室にいるお前が言うなと思える台詞だったけれど、その声で私は相手が誰だかやっとわかった。

 吉田だ。

 同じクラスで、選択科目も同じ美術だから、顔と名前は一致している。

 あとは少し変わった絵を描くな、ということぐらい。

 でも、話した事は殆どない。

 薄暗い周囲に目が慣れてくると、吉田の顔がはっきりとわかった。

 相手が人間であった事、顔見知りであった事にほっとした私は、同時に、こみ上げてきた怒りを抑えきれずに叫んでいた。

「どうして真っ暗なままこんなところに立ってるのよーーーー!」

 完全に八つ当たりです、はい。

 吉田がどこにいようと、私が文句を言う筋合いじゃない。

 わかってる。

 でも。

 怖かったんだよ!

 ああ、膝がまだかくかく笑ってるし、指先だって震えているし、心臓のどきどきも止まらないし。

 そんな私に、吉田は少し躊躇い、続いて「ごめん」と謝ってきた。

 いやいやいや。

 そこで謝られたら、ねぇ?

「……私の方こそ、急にごめんなさい。ちょっと、忘れ物しちゃって」

 叫んだことが恥ずかしい。

 俯き加減に詫びて、私は教室の電気を点けた。

 眩しそうに吉田が目を細める。

 私の席は廊下側の前から二番目だった。

 机を覗き込むと、忘れた宿題が堂々と真ん中に鎮座ましましていた。

 まるで、忘れるのがおかしいといわんばかりの存在感。

 ただの数学のドリルなのだが。

 私がドリルを手提げに回収する間も、吉田はそのまま帰らない。

 そう言えば、吉田はこんなところで何をしていたんだろう。

 電気すらつけずに。

 私の目線に気づき、吉田は、

「居眠りしてた」

 と答えた。

 あぁ、なるほど。

 放課後、眠そうにしてたっけ。

 というより、吉田はいつも高確率で眠そう。

 欠伸も授業中の居眠りも、何度か見かけていたりもする。

 今日も放課後眠気に負けて寝落ちて、起きたらこの時間だったというわけですか。

「宿直の先生に見つからなくて良かったね。今日は坂下先生だったよ」

「あー、坂下かぁ。あいつ腕力で物事解決するからな。見つかったら殴られかねなかったな」

 恐らく、坂下先生が見回りに来たときはもう、既に日が落ちていたのだろう。

 電気も点いていない教室の中をわざわざ覗かず、覗いたとしても寝落ちてる吉田を暗がりが覆い隠すだろうし。  

 制服が黒いのも幸いしたのかも?

 私はそのせいで叫びかけたけど。

「もう一眠りしていく?」

「いや、帰るだろ」

 ふふっと私たちは笑って、教室を出る。

 ……あれ?

 なんだろう。

 妙に空気が冷たい。

 教室と廊下で、かなりの温度差だ。

 暖房なんて教室にも入っていないのに。

 ふと気配を感じて、私は廊下の奥に目を細める。

 そこには、女の子がいた。

 同じ学年なのだろう。

 制服姿の見かけない少女が、じっとこちらを見つめている。


 少女が、にこりと嗤った。

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