シーン40 自分再構築

 わたしがクリと顔を見合わせて、こらあかんって感じで溜息をついてたら。沈没したままかと思ってたアッコの口から、とんでもないセリフが出よった。


「せんせー」

「なんや?」

「わたしが卒制にしっかり取り組んだら、わたしの方を向いてくれますか?」


 あかーん! それじゃ、なんにもならへんやないかあっ! ばかあっ! わたしもクリも頭を抱えてまう。マギーも呆れとるわ。なんや、このカス女って思ってるやろなあ。センセはアッコのふざけた提案を聞いて激怒するかと思った。でも……。


「そうやな。ちょっと昔話しよか」


 え?


 ちょっと寂しそうに笑ったセンセが椅子に深く座りなおす。


「俺はさっきからおまえらに偉そうなこと言ってるけどな、十年前の俺はおまえら以下やった。こいつと知り合うまではな」


 センセが左手の結婚指輪を、わたしたちにかざして見せた。


「美大には入ったけど、すぐに落ちこぼれてな。コンプレックスをバネに出来なくて、遊んでばっかやった。浜本のことなんかよう言われへんわ。優しいだけが取り得のヘタレのぼんぼん。それが俺やった」


 うっそー!? 信じられーん。ごっつしっかりした、芯のある人やん。センセって。


「コンパでナンパしたんが彼女やった。俺と違って苦労人でな。高校の時、美大受験するのに通ってた画塾の月謝ぁ自分でバイトして稼いどったんよ。でんでんと同じやな。すっごいタフ」


 うわ……。いやあ、センセ。それって、わたし以上やわ。わたしのは小遣い稼ぎだもん。すご……。


「せやかてぎすぎすしてるわけでもない。なんて言うか、すっごいピュアやったんよ。有名になりたいとか、売れたいとか、そういうんが全然ない。描きたい絵を描きたい。それだけや。俺にはない発想やったなあ」


 遠い目をするセンセ。


「こいつは俺にないもんを持っとる。きっと、それを俺にくれるやろう。俺は思い入れて、彼女を口説き落とした。ヘタレの俺にしてはようがんばったと思う。恋人同士になって、卒業したら結婚しよ言うて盛り上がって。卒業前に同棲始めて……籍入れる予定の前日に。消えた」


 先生は。じっと自分の薬指の指輪を見ている。


「せやけどな。たぶん、あのまま結婚してたら。俺はあいつを潰しとったと思う」

「ええっ!?」


 わたしだけでなくて、聞いてたみんなが一斉に驚いた。先生がふっと笑った。


「俺はどこまでもぼんぼんやった。俺の考えてた結婚生活はままごとや。俺は家事したこともなけりゃあ、家計の管理も出来ひんかった。金銭感覚が麻痺しとった。学生の身分で、めっちゃ家賃の高いアパートに入っとってん。親がかりでな。それぇ、結婚しても続ける気やった。あほそのもんやな。就職かてそうやった。自分でようけ探さんと、画塾講師のアルバイトでほけーっと暮らして」


 し、信じられへん。


「あいつは覚悟してたんやと思う。俺と一緒になったら、二人分働かなあかんて。俺はそれに全然気ぃ付いてなかったんや」


 センセは。しばらく黙っていた。


「あいつが失踪して。俺は血眼になってあいつの行方につながるもんを探した。あほな話や。同じ部屋に住んどるのに、あいつが何をどうしてるのか、俺は何も知らんかってん。部屋中のあらゆるもんをひっくり返して、調べて。俺は、初めてあいつがすごく苦労しとったことを知った」

「あの……」


 アッコがおずおずと聞き返す。


「なんの、苦労ですか?」

「カネや」


 すっごい苦しそうな顔をしたセンセが、ほとんど空のチューブから無理くり黒絵の具を絞り出すみたいに、懺悔の言葉をわたしたちに塗りたくった。


「あいつがバイトでこつこつ稼いでたカネ。それは、あいつが自分の夢ぇ叶えようと努力して貯めたカネやった。俺はそれを全然知らんかった。欲しい画集があれば買い、ええ店が出来たと聞けばそこに飲み食いに行き、服でも靴でもええもん好きに買うた。それが誰のカネか考えもせんと」


 ぐしゃっ。センセが、頭を抱え込んで声を搾り出す。


「俺はな。あいつが俺から逃げたんちゃうかと。そう思ったんや。だらしない。情けない。人の気持ちの分からへん、ぐうたらぐだぐだなオトコから。もしそうでもそうやなくても、俺はあいつに謝らなあかん。許してもらわなあかん。でも、どんなに探してんあいつは見つからへん。俺は……俺はな」


 センセがぐいっと顔を上げて、アッコをきっちり見据えた。


「あいつが見つかるのを待ってられへんかったんや」


 壮絶だ。人が人を変えるっていうこと。これが……そうなんやな。


「なあ、浜本」

「……はい」


 アッコが、蚊の鳴くような声で答えた。センセは、アッコを諭すように懺悔を続ける。


「口で言うんは簡単や。俺は生まれ変わった。これから心入れ替えてがんばるさかい許してくれって。せやけどな。中身ぃちいとも変わってへんかったら、嘘の重ね塗りや。せやろ?」

「はい」

「だから、俺は自分をリセットすることに決めたんや。誰が見ても、もちろん俺自身が見ても、絶対に前のぐだぐだには戻らへんように。新しい俺であるようにって。それが、俺があいつに出会った意味や。あいつに再会出来てん、それが叶わなくてん、俺が変わったという事実。それさえあれば、俺らが出会った意味はあるねん」


 アッコは。じっと俯いたままやった。


「なあ、浜本」

「……はい」

「せやから、おまえも人の中を探すな。みんなそれぞれ違うんや。どんなに人の腹ん中かき回したって、そっから出てきたもんで自分を埋めることは出来ひん。どっか欠けてる。どっか合わへんね。それぇ無理やりはめようとするから、自分も相手も壊れよる。下手くそでもかまへん。ちゃんと自分をこさえろ。卒制はそのいい機会や」


 アッコの口からは。最後まで、それに応えようっていうコトバが出てきぃひんかっ

た。わたしには、それがごっつ悲しかった。でも、これはきっかけになるやろ。センセが心に秘めてる強い想い。その中に自分が入れへんてことは分かるから。


 そやな。センセは優しいけど、それ俺がやったる手伝ったるって絶対に言ってくれへん。それはわたしらの怠け癖を戒めるためなんやろな。結局最後は、自分でなんでもやらなあかんから。誰も代わりにやってくれへんから。センセ自身も、そうやって十年かけて自分をど突き回してきたんやろなあ……。


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