eighth chapter.記憶の齟齬(そご)

「記憶の齟齬(そご)」1

現実に戻されても、自分でも驚くほどに怒りが収まらなかった。



「――くそっ!」



まだ開かれないカプセルの中で、思わず怒りにまかせ天井を殴る。あの世界で起きた出来事だとはいえ、ユウダイを許せなかった。あいつ、イッタを刺しやがった。



扉が開かれると、驚いた表情で女性医師が僕を見る。



「ハル君―― 一体」



いつもなら起き上がれないのに、すぐさま立ち上がり詰め寄った。



「直ぐにあの世界に戻してください!早く!」


「それは無理よ。これ以上入ったら危険だわ」


「僕の身体なんてどうなってもいい!それよりも、あいつを早く止めないと!」


「相手の女性だって危険なの。暫くマイ・レメディーの使用は控えましょう」



使用を控える?何を言ってるんだこの先生は。話にならない。怒りがどんどん増していく。思わずその先生に掴みかかった。



「あんたじゃ話にならない。ウサミ先生を呼んでくれ」


「先生は不在よ。暫く戻らないわ」


「嘘だ!早くっ――。」



興奮状態だったが、一瞬にして頭が真っ白になった。そのまま意識を失ってしまう。




――



――――




ゆっくり目を開くと、いつもの病室で寝ているのが分かった。今までと違うのは、酸素マスクを付けられていて、点滴を打たれているということ。身体は全く動かせそうにない。窓の外が明るいことから、1日は経っているのだろう。



こんな状態になっている場合ではない。早く学校に行かないと。イッタの事が心配だ。そう思ってはいても、目が霞み頭が重たい。自然とまた目を閉じてしまう。



どのくらい経ったのだろう。次に目を開けた時も、外はまだ明るかった。



「ハル君?」



声がした方へ目を向けると、女性医師がベッド脇の椅子に座っている。身体は動き、起き上がる事が出来た。だけど頭はまだ重く、ふらふらする。



「貴方、5日間も眠ったままだったわ」


「――5日?」



そんな長い間、眠っていたという実感は全くない。



「相手の女性は、無事ですか?」


「ええ、大丈夫」


「じゃあ、直ぐにでもまたマイ・レメディーを使用出来ますよね?」


「無理よ。今までの記録を見る限り、貴方があんな状態になった事はない。それも今回は5日間も眠りっぱなしだったの。異常な事だわ」



それはそうかもしれない。だけど、もしかしたらユミさんはあの世界で、絶望感を抱き死んでしまうかもしれない。そう考えると、自分の身体を心配などしてられなかった。



そこでふと思い出す。この先生が此処に居るということは、ウサミ先生はまだ帰っていないのだろうか?



「ウサミ先生に会いたいんですけど」


「――まだ、戻ってないわ」


「5日間も、ですか?」



妙だ。もしかしたらこの仕事を辞めてしまったのか、本当は居るけど僕に会いたくないのか、何か複雑な理由が隠れている気がした。



「ウサミ先生、定年退職を望んでたから―― もしかして、全て投げ出して逃げちゃいましたか?」



女性医師はくすりと笑う。



「あり得そうな話ね。だけど違うのよ。ウサミ先生は他の研究も任されている、とても多忙な方なの。今は海外に居ると思うわ」


「そう、ですか」


「会話が出来るまで回復して本当に良かったわ。カルテを取りたいんだけど、大丈夫?」



黙り込んで考えた。ウサミ先生が居らず、この先生はマイ・レメディーに入れてくれない。だったらこの病院に居ても、意味がない気がした。それに、5日間も学校に行けてないなんて、現実のイッタの事、ユウダイの事が酷く気掛かりだ。



「すみません、まだ頭が重たくて。もう一眠りしちゃダメですか?」


「そう。それなら眠った方がいいわ。カルテはまた次の機会にしましょう」


「ありがとうございます」



先生が去ったのを確認して、酸素マスクと点滴を外した。シャワーを浴びて制服に着替える。前に看護師さんが使用していて知った棚を開けた。そこから替え用のシーツを全部取り出した。ついでに掛け布団のシーツも外す。それら全てを繋げていった。



窓を開け高さを確認してみる。此処は5階、地上から此処まで恐らく15メートルくらいはある。繋げたシーツを落としてみると、地面に余るくらいの余裕があった。固定され動かないベッドの足に括り付ける。覚悟を決めようと、腰に手を当て一息ついた。



この病棟の廊下には、監視カメラが設置されている。だから、この方法で脱走するしかないと思った。かばんを手に取り、思い出したようにスマホの電源を入れる。ラインのメッセージが多数届いていた。全部イッタからだ。



画面をスクロールさせ、無我夢中で読んだ。



ユウダイの奇行がエスカレートしているようだ。もちろん学校に来ない僕を心配している言葉もあったけど、だけどそれらはあまり目に入らず、追い求めるかのようにユウダイの情報をじっくり読む。



早く学校に行かないと。脱出することに怖気づきそうになっていたけど、決意がここで固まる。スマホを制服のポケットに入れ、先にかばんを窓から落とした。逸る気持ちと不安でいっぱいで、恐怖を感じることなく窓から脱走した。










学校に到着したのは、4時間目の授業が始まる前の休憩時間だった。



まだ健康な状態ではないのかもしれない。此処に来るまで、不思議なものを沢山見た。人が空を泳いでいたり、木が踊るように動いていたり、ショーウインドウのマネキンが話し掛けて来たりもした。マイ・レメディーから引き起こされた幻覚だと思う。まるで頭がイカれたような気分だ。



戸惑いながらも正門に足を踏み入れると、事前に連絡を入れていたのでイッタが待っててくれた。その姿を見てホッとする。



「ハル!本当に来た!」


「久しぶり」


「すげぇ心配した!体は大丈夫か?」



元気そうなイッタを見て、安堵のため息が漏れる。僕が最後に見たイッタは、あの世界でユウダイに刺された姿だったからだ。



「もう大丈夫。ウサミ先生が居なくてさ、暫くあれに入らせてもらえないんだ」


「入らせてもらえないって、おまえそんなに入りてーの?」



最初は不安を抱えながらも、ユミさんとの記憶を探りたいだけだった。だけど今では、その記憶を思い出せなくてもいいと思ってる。ユミさんに会えれば、元気なイッタに会えればそれだけでいい。僕にとって、イカれたユウダイさえ居なければあの世界は完璧だ。



「あっちの世界でも今、色んな事が起こっててさ。ちょっとこっちと似通ってる所がある」



そう言いながら一緒に歩き出した時、驚きでイッタを凝視した。足を引きずるようにして歩いていたからだ。



「どうしたの?」


「虐め止めたらこうなっちまった。ちょっとした捻挫」


「ユウダイにやられた?」


「ライン読んだろ?ユウダイはいつも見てるだけだ。その仲間達にやられたんだよ。俺もつい何人かぶっ飛ばしちまったけど」



5日間たまったイッタからのメッセージには、その日にあった事が書かれていた。



イッタと僕が殴られたあの日に居た男達は、やはりバイト仲間だったようだ。そのでユウダイは、学校に通う悪い先輩や喧嘩っ早い後輩等と仲良くなっているらしい。最近学校をサボらずそいつらと集団で固まっている。気に食わない奴が居ると、その集団を使い暴力を振るった。ユウダイはいつもそれを眺めているだけらしい。そのせいで何人かが登校拒否になったそうだ。



先生達は実際の現場を見てないから信じてくれないようで、イッタがどんなに言っても聞いてくれないという状況らしい。



「イッタ、もう仲裁なんかしちゃ駄目だ。関わらないって約束したじゃん」


「ユウダイには関ってねぇ。だけど、殴られてる奴を放ってはおけないだろ?」


「分かるけど、そういう場合は間に入らないで、先生を呼ぶとかにしてほしい。イッタの事が心配なんだよ」


「俺は平気だって。ユウダイは俺を避けてるっぽいし、狙われてはないと思う。まあだけど、ハルに心配掛けたくねーから、今度見掛けたら先生呼ぶわ」


「うん――。」



教室に行き、4時間目の授業が始まって数分、乱暴に扉が開かれた。遅れてユウダイが入ってきたのだ。クラスの空気が一瞬にして張り詰めたのを感じる。皆がユウダイに怯えているのだと思う。



先生は遅刻だぞと軽い注意をしただけで、何事もなかったように授業を進める。ユウダイは気だるそうに僕の後ろの席に着いた。気が気じゃなく、緊張と恐怖で心臓の鼓動が早まる。僕もここに居る皆と同じで、ユウダイが脅威となっていたのだ。違うのはただ1人、イッタだけだ。



イッタはユウダイを軽蔑するような目で見つめ、呆れた素振りで体を前に向き直す。本来ならば、皆もああいう態度を取るべきなのかもしれない。だけど皆そんなに強くない。自分の生活・人生をかき乱されたくない。だから目立たないよう、そっと息を殺すだけなんだ。



怯えると恐怖は増していき、最後に屈してしまう。そうならない様、目を閉じて深呼吸をし、気持ちを切り替える努力をした。



ノートを開き、黒板に書かれた文字を書き移した。顔を上げ黒板を見た時、先生の横に男が立っていた。顔をすっぽり被った黒のマスクは目と口以外が隠れており、上から下まで全身黒尽くめの格好だ。膝ほどの長さの黒のマントも身に着けている。その格好から察するに、僕が好きなアメコミ映画のヒーローだ。



これは僕にしか見えていない幻覚らしい。先生やクラスメイトには見えていない様子だった。学校ここに来る途中もあり得ないものを沢山目にした。まるで今もマイ・レメディーの中に居るようで、現実との境目が分からなくなってくる



男は、低い声で僕に向かって語り掛けてきた。



「善人も時に悪に染まることがある。君は何に染まるだろうか。忘れるな、人は誰だってヒーローになれる。彼を見ろ――。」



ゆっくり腕を上げ、イッタが居る方を指差す。



「君にとって、彼がヒーローなのだろう。よく、見ておくんだ」



イッタは何も見えていない様子で、退屈そうに黒板を見ていた。再び男が居たほうに目を移すと、いつの間にか消えていた。



恐らく映画で観た記憶が幻覚となって現れているのだと思う。この症状はいつ消えるのだろうか。このままずっと続くのだろうか。頼みの綱のウサミ先生は居ないし、どうしたらいいのか分からず不安ばかりが募った。

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