高槻綾とめぐりめぐるめく放課後のディストーション
涼月タカイ
第1話 高槻綾は、上空より落下するディストーション。
「ごめんなさい無理です勘違いさせたのならすいません謝りますとにかく付き合うとかもう絶対無理ですごめんなさい」
そう言って、句読点を一つも交えることのないセリフだけを残し、目の前にいた女子生徒は即座に逃げるように走り去っていく。
訂正のチャンスを与える隙も見せず、俺は1人初夏の夕焼けに染まる中庭で、ただただ目をパチクリとさせたまま彼女を見送った。そよそよと流れる涼風が、緑で溢れる木々の葉を趣だってざわめかせる。
「……え?なんで俺フラれてんの?」
ここに彼女を呼び出したのは紛れもない事実である。しかし、俺は告白する気なんて1ミリもなかった。だってそもそも俺は、あの子のことなんてよく知らないのだから。
簡潔に言うと、俺は他クラスの話したことのない男子生徒から缶ジュース1本で買収された。同じクラスということだけで接点があると認識され、あの女生徒に彼氏がいるか確認してきてほしいと依頼を受けたのだ。
正直ものすごく面倒ではあったが、そのあまりに安い報酬を提示された瞬間、俺はなんだかとてつもなく切なくなってしまって、仕方なくその依頼を受けることにした。おそらく、ジュース3本だったら断っていただろう。
そこからは早い。休み時間に、ベタにノートの切れ端を机に潜ませて、彼女を放課後の中庭に呼び出した。そして、出会って5秒でこの様、というわけである。ちなみに今日、俺はあの子に対して一言も話しかけてもいない。
そういう経緯で、今俺は好きでもない女の子にフラれたのである。自分の本意でないところでフラれるというのも、なかなかにダメージがあるものだ。単に俺、香山 直(かやま なお)という男の外見に魅力がないということに他ならない。変なところで傷心してしまう。これで缶ジュース一本では、明らかに辻褄が合わない。だって、そのジュースに精神的なダメージは加味されていないから。
とにもかくにも、依頼された任務は失敗に終わってしまったので、依頼主にどうやって弁明すべきかと思いながら、とぼとぼと中庭を歩いていく。
はあ……相変わらずこんな連続の人生だな。そろそろ何か一つくらいとてつもなく良いことがないと、帳尻合わないぞこれ?例えばものすごい可愛い彼女が出来るとか、いたいけな可愛い幼馴染が突然帰ってくるだとか、空から可愛い女の子が落ちてくるとか。その例えが全て女性関連ばかりだというのは、間違いなく俺の願望の表れである。
生まれながらに無難な顔ということもあって、俺はどうしてか昔から頼まれごとをされることが非常に多い。モテるわけでもなく、かといって不細工なわけでもなく、世間のアベレージに極めて近いその顔は、どうも気安く依頼をされるのだ。
「こいつなら言うことも聞いてくれるだろ」という絶妙なラインの顔立ちなのだろう。十数年もそういう人生を送ってきたせいで、こちらもそういう不憫さを受け入れられる性格となってしまった。
人生は受け身である。能動的になったところで、人生はプラン通りに進まない。
だから俺はもう、あるがままを受け入れることにした。計画を立ててみても、心を入れ替えてみても、所詮は香山直の人生なのだ。ドラマティックなことなんて起きるわけがないのだ。そんな諦めにも近いその性格が俺の人生そのものなのである。
しかし、それでも一つくらいは何か運命的な出来事を求めてしまうのが人間の性というものだ。
高校に入るときは、さすがに俺も何かが変わるんじゃないだろうかと期待した。桜並木の下で発生する美少女との出会いイベントを求めて俺は、入学してからの1週間、毎日放課後は2時間近く桜の下で待機した。
そしてその1週間後、見事に桜は散っていった。何かの例えとかではなく、文字通りの意味で。だから、この学校で俺ほど今年のソメイヨシノの移り変わりについて知っている者はいないはずである。
そういうわけで、残念ながら高校に入っても、俺の周辺は何一つ変わらなかったのだ。環境が変われば未来が変わるなんて言った奴を、俺は正面から否定してやりたい。反例が現実問題としてここにあるんですが、それはどのように捉えたら良いのでしょうか、と。
そんなことを考えながら、気持ちの良いそよ風がさらさらと漂う中、俺は足を止める。そして目を閉じ、鼻から大きく息を吸う。
「……ふう」
深呼吸は良い。何が良いって、新しい空気が自分の体に広がっていくことが実感できるのが良い。自分の周りに特に何も起きないのは分かっているからこそ、せめて空気くらいは新しいものを取り入れておきたいものである。新呼吸とでも呼ぼうか。
「あー、気持ち良いー」
初夏の爽やかな空気が血液に乗って体内を駆け巡り、自分の中にあった悪い『気』がスッと抜けていく……ような気がする。まあ、こういうのは気持ちが大切なのだ、うん。信じる気持ちが何よりも大事である。そうそう、気分の問題なんだよ。
誰に話しかけるわけでもなく、そんなことを頭の中で反芻して頷き、俺はもう一度新呼吸を開始する。
「……すー」
吐き切った酸素を補給するため、静かにもう一度目を閉じて、鼻から体の芯まで届くように、大きく深く新しく呼吸をする。
と、その瞬間だった。
――……ズドォォンっ!!!!――
「……えええっ?!?!」
明らかに深呼吸とはかけ離れた、ドラを叩いたような鈍い物音が突然背後で聞こえ、新呼吸のリズムが著しく狂う。俺は慌てて閉じていた目を見開き、驚きつつもその音を確認するため振り返った。
俺の唯一の安寧とも言える、新呼吸を邪魔する正体。それは――
「学生服……?」
そこには受け身を取るような姿で、もぞもぞと地面に横たわる男子生徒がいた。
少し小太りで眼鏡をかけた、クラスの端の方でひっそりと過ごしているのを瞬時に連想してしまうような外見の男。いわゆるオタク的な生徒とでも言えば理解しやすいんだろうか。
男子生徒は全身汗だくで、呼吸を荒げ、ひどく疲弊している。
「お、おいっ!大丈夫かっ?!」
俺は急いでその生徒の元に駆け寄る。
「はあ、はあ……だ、大丈夫だ。問題ない」
少し懐かしささえ覚えるそのセリフに、俺は思わず戸惑う。
こんなところで、昔のネット流行語大賞を使われても、愛想笑いすることしかできないぞ?
なんだかちょっとバカにされているような気がして、このまま介抱するかどうか、少しだけ迷った。
「もしかして……この上から飛び降りてきたのか?!」
俺は空を見上げ、首を振って辺りの様子を見渡した。
校舎2階の窓が開いている。おそらくあの窓から飛び降りたのだろう。
おいおい……俺は空から女の子が落ちてこないかなとは言ったが、男でもいいなんて一度も言っていないぞ?
あの有名映画がBL展開になるとか、マジで少年少女と俺の夢が壊れるんでやめて頂きたい。世界中のファンからクレームがくるぞ。しかも残念なことに、その外見的には絶対腐女子ウケしない悲しい現実。リアルって世知辛いね。
そんな下らないことを考えていると、その男子生徒は朦朧としていた意識をハッと取り戻した。男子生徒は尋常じゃない焦りの表情で周囲を確認し、空を見上げる。すると、一層顔をこわばらせ、即座に右ひざを付き、グッと立ち上がろうとした。
「ま、まだ追ってくるのかよ……!!どっ、どいてくれっ!!!」
そう言って男子生徒はその場から離れようとする。俺はその勢いに押され、思わず介抱していた手を離してしまう。
「お、おいっ!ちゃんと保健室行った方がいいんじゃね?!」
「そんなのんびりしてられるか!あいつに捕まっちまう!」
そういって彼は、逃げるようにその場を走り去ってしまった。お世辞にも軽快とは言えないその重い足音が、次第に遠のいていく。
「……あいつ?」
疑問だらけの俺の脳内。しかし、その疑問はすぐに回答された。
「死ねえええええええ!!!!!!!」
「え……?」
上空から浴びせられるその音に、俺は天を見上げる。俺は太陽の逆光に映るその光景に、ただ一言情けない声を上げることしかできなかった。
日傘を竹刀のように構えた女子生徒が降りてきたのである。正確に言えば、俺の真上から落下してきたのだ。さっき俺が希望していた綿毛のようなふわりとした無重力感溢れる柔らかさのある落ち方ではなくて、加速度とかGとかそういう物理的な単語を連想させるような勢いのある落ち方である。
「おいおい、マジかよ……!!!!」
とりあえず俺は咄嗟に、落ちてくる『それ』を抱きかかえる体制に入った。が、そんな初期対応は到底甘かった。
さしずめ、どこぞのお偉いさんの暗殺を企むアサシンがその機を迎えたかのように、彼女は上空から日傘を振りかざす。
鬼神のような表情で、間違いなく確実に、俺の脳天をめがけて。
「消えろおおおおお!!!!」
「えええええ????!!!!!!」
人間というのはこういうとき、意外と冷静だ。その言動はこんなに慌ただしくとも、脳内は完全に分離して、落ち着いている。
『あ、俺今から死ぬんだ』
それだけを心の中で呟いて、俺はまた避けるようにジタバタする。最近流行りのタイムラプスみたいなスローモーションで、少女の影が徐々に大きくなる。なるほど、走馬燈ってこういう感じなんだね。一つ勉強になった。
「甘いわ!!!!」
『スパァーン……!!!』
それなりに広い中庭に、心地良いほどにクリーンヒットした打撃音が響き渡る。
その女子生徒はそんな特殊な状況にも全くひるむことなく、俺の顔面に日傘できれいな「面」を入れた。これが剣道の試合であれば、確実に一本が記録されていただろう。
それと同時に、俺の胸に何か別の衝撃が宿る。女子生徒の靴裏が、着地の緩衝材代わりに俺の大胸筋をグンと蹴り飛ばした。
「面と蹴り……」
それら二つの連撃を受け、自分から発せられた鈍い衝撃音を耳にしながら、俺は背中からその場に倒れこんだ。今人生で初めて分かったのだが、中庭の土は意外と冷たい。
「かは……いってえ……」
生きてる、よね? 生存してるんですよね? 俺。
その衝撃に意識を失いそうになりながらも、なんとかギリギリのところで持ちこたえた。とりあえず目を瞑って、落ち着くために息を吐いてみる。
しかし、やけに呼吸がしづらい。肺が押しつぶされているような感覚。なんだかおかしい。
え、もしかして今ので肺やられちゃった? だとしたらとてつもない一大事じゃん。それ、救急車呼ばないといけないやつじゃない?
……でも、よく考えたら、さっき声は出てたんだよな。っていうかなんか全体的に体重くない? なんでだ?
そんな状況を不思議に思い、俺は軽く脳震盪を起こして焦点の合わない視界で、自分の胸の辺りを目視確認してみる。すると。
女子生徒が俺の胸に馬乗りになって座っていた。もちろん大変姿勢の整った形で、その正面では日傘を両手で構えたまま。
「……え?」
状況が理解できないまま、俺は目をパチパチさせる。はて、目の前にいるこの子は、これから一体何をしようとしているのでしょう?
あまりに理解ができなさすぎて、驚くことさえできない。
そんな俺とは対称的に、その女子生徒は殺気立った目で、俺にマウントを取ったまま日傘に力を込める。手に力をこめすぎて、柄の辺りからミシミシとプラスチックのきしむ音が鳴っている。
そして、落下してきた女の子が発する、その第一声。
「殺す殺す殺す!!!絶対殺す!絶対死ねええええ!!!!」
そう言って女子生徒は、もう一度日傘を振りかぶる。
「ちょ、ちょっとまて!待てって!いきなり落ちてきといて、何で殺すとか言われなきゃいけないの?!」
俺が知っている空から落ちてくる女の子は、絶対にそんな言葉を言わない。パンとかミルクとかバルスとか、そういう優しい言葉しか言わないはずである。一つは世界破滅させちゃうけど。
「うるさいだまれぇーーーー!!!!」
そういって女子生徒は体ごと俺に斬りかかる。日傘で。
「うぉりゃあーー!!!」
「だから……やめろって!!」
全く話を聞かないその女剣士に、俺は覚悟を決め、最終手段の真剣白刃取りに出る。
「あーもう!どうにでもなれ!!!」
俺は目を瞑って、勢いに任せたまま、両の掌を正面で勢いよく閉じた。
『スパアアン!!!』
……顔の周辺に、プラスチックの衝突音が響き渡った。
その瞬間、俺の頭頂部に、さっきと似たような衝撃が電撃のように走る。
と同時に、掌にも同じように、電流が流れたような感触が伝わった。
「あたたた……やっぱ失敗したか……いてえ」
俺は自分の頭頂部に与えられた二度目の衝撃に目をしかめる。
日傘だったからなんとか今もこうして失敗だとか言っていられるが、少し時代を間違えていてこれが本当の刀剣だったら、俺は確実に死んでいたのだろう。そもそもそんな時代だったら、俺なんかはこんな戦いが起きる前にやられていそうだけど。
「現代で良かったよ……」
そんなことを憂い、寝転がりながら俺は一度ふうとため息をつく。
その瞬間、もう一つ大事なことを思い出した。
「……掌の衝撃は何だったんだ?」
真剣白刃取りに失敗したということは、本来であればその両手は、互いに自分の掌に触れていなければならないはずである。
しかし、確実にその感触は自分のものではない。
その疑問を確かめるべく、俺はしかめた目を恐る恐る開き、目の前に立てられた日傘越しに、自らの両手に挟まったその対象をそーっと確認する。
「いひゃい……」
「へ……?」
小さな声で女の子がボソリと呟く。
俺の両手の間で、女生徒の顔が縦に潰れていた。簡単に言えば、いわゆる変顔である。それはそれは、なかなかのおもしろクオリティだ。
「いっひゃい……」
「ご、ごめん!」
俺は両手で挟んだその頬から、すぐさま手をどける。
「……いはい」
さっきまでとてつもなく強気だったその顔には、今は寸分の覇気もなく、うっすらと目に涙を浮かべたまま彼女は両手で頬をさすっていた。
状況が状況だったために、俺もかなりの勢いで両手を叩きつけたこともあって、彼女の頬はわりかししっかりと赤くなっている。その頬の部分だけ、風呂上がりのようだ。
「……大丈夫か?」
俺のその言葉を聞いた瞬間、彼女は一瞬だけキッと鬼神のような目付きをしたが、その痛みのせいもあってか、すぐさままた今にも泣きだしそうな表情に戻る。
「いたい……」
表面張力を感じさせるほどギリギリのところで、涙が瞳の上に乗っかっている。少しでも動けば頬に垂れてきそうだ。
もちろん俺も故意でやったわけではないが、さすがにこれは申し訳なく思う。
「結構赤くなってるな……」
そう言って、右手で彼女の頬に触れようとした瞬間だった。
「触るな!!」
バチンと言う音とともに、彼女のその手で振り払われる。俺の手を払った彼女のその目には、少しだけ力が宿る。
「いや、でも痛いんだろ?無理するなよ」
「うるさい! お前みたいな変態に心配されるくらいだったら、死んだ方がマシだ! 死ね!」
「それだと二人とも死んでるっつーの。もうなんかちょっとした心中みたいになってるから」
そっちがいきなり落ちてきといて、なんで一緒に死ななきゃならんのだ。というかそもそも俺は変態じゃない。そりゃあ男子高校生だし、それなりに年相応の好奇心はあったりするが、それらの嗜好をひっくるめて、至って正常な部類だと俺は確信しているほどだ。
と、そんなことを考えている俺の心の内が読まれたのか、マウント状態を継続したままの彼女は拳をギリギリと握って、無言で俺の顔面に振り下ろそうとする。俺が見る限り、その表情に一切の迷いは見られなかった。
「分かった!分かったから!!ちゃんと聞くから!!!だから、あの……とりあえず降りてくれない?」
魔界のデーモンも一目置くであろう鬼の形相で見下ろすその視線に、俺は一旦落ち着くように言い聞かせた。
「……ふん。ま、いいわ。今のところ逃げるつもりもないみたいだし、とりあえずは降りてあげる」
「あ、ありがとう……」
正直どうして俺はお礼を言っているのか自分でもよく分かっていなかったが、1つだけ言えることは、本来はこちらがお礼を言う立場ではない、ということだけは間違いないと理解ができた。どう考えても倒錯していると思う。
彼女は俺の胸を必要以上に力強く押し、その反動を利用して、倒れこんだままの俺の横に立ち上がる。
俺も制服に着いた土を払い、腕を組んで仁王立ちをするその女子生徒の前で、ゆっくりと立ち上がった。
俺はこの女を知っている。
彼女の名前は、
ただし、外見はそれなりの美少女としても名高く、どこの学校でも必ずひっそりと開催されているであろう入学当初の学年内での可愛い女子ランキングでも、かなりの上位に入っていた。
にも関わらず、巨大竜巻のように凶暴なその性格のせいで、途端にランク外へと弾き出されてしまった。残念ながら胸は控えめであるが、ある意味で逸材であると言っていい。
具体例を1つ挙げるとしよう。
入学して間もなく、ある根暗グループが数人でこっそり高槻のファンクラブを作ったことがあった。もちろんその時は、まだその性格が公になっていないこともあって、純粋に高槻の外見に魅力を感じた奴らが結成したのだろう。
しかし、どんな経緯でその話が本人の耳に入ったかは知らないが、ファンクラブの存在を知った高槻は、即座にそのグループに殴り込みにいき、その恐怖のあまり、グループの面々がその後一週間一言も喋れなくなるほど落ち込むような罰を与えたらしい。
罰を受けたメンバー達はそのあまりのトラウマに、その日のことを思い出したくもないらしく、彼らがどんな制裁を下されたかということは結果的に闇の中、というわけである。
そんなトラブルメーカーの代名詞とも言える高槻が、つい先ほど突然窓から飛び降りてきて、どうしてか俺はその高槻に絡まれている。
冷静になった高槻が口を開く。
「さて、じゃあ携帯を出してもらいましょうか」
「は?なんで携帯?」
「この期に及んで、まだしらばっくれるつもり?……あんた、まだ私にお仕置きがされたいみたいね」
腕を組んだ高槻は、かなりイライラした表情で俺のことを蔑むように睨み付ける。
「いや、だから何のことだよ?本当に心当たりがないんだって」
俺は身振り手振りをフルに使って、高槻に無実を訴える。
……冤罪を晴らすのってやっぱ大変なんだな。悪魔の証明の難しさを俺は今、肌で感じている。ダブルミーニング的に。
「ほー、いいわ。そこまで言うなら、はっきりと教えてあげる。あんたがさっき撮影した盗撮写真のことよ!」
高槻は俺の顔を指差して、俺を威嚇する。ただ、その距離が近すぎて、ヤンキーの寸止めみたいになっていたが。
「……盗撮?」
全く馴染みのない言葉に、俺はポカンとする。
「そうよ。ほら、もう分かったでしょ?もう逃げられないんだから、さっさと携帯を出しなさい!」
顔をしかめながら、高槻がその顔をぐっと俺に寄せて脅しをかける。その言動で、せっかくの可愛らしい外見は完全に台無しだ。ランク外になるのも納得である。
「…………」
「黙ってないで、さっさと出せって言ってるの!」
「……なあ、1つ確認していいか?」
「はあ? 何よ、ここにきて最後のお願いでもするつもり? 今さら土下座したって無駄よ?」
高槻の眉間に、より深い縦線が入る。
俺は少し距離を取り軽く咳払いをして、こんな高槻でも理解ができるよう、出来る限り簡潔に彼女に問いかける。
「それ、本当に俺だったか?」
「はあ?今さら何よ?」
「だから、俺の顔をよく見てくれ。この顔だったか?」
そう言って、俺はこちらから顔をグイッと近付ける。これまでの鬱憤を晴らすように、これみよがしに舐め回すようその表情に問いかける。
「ち、近い!!顔近づけるんじゃないわよ、気持ち悪いっ!!!」
「いや、ダメだ。俺の顔をよく見るんだ。ほら」
俺はより一層グッと顔を寄せる。少しでもバランスを崩せば鼻が当たるんじゃないかというほど、威圧的に。
「そんなんじゃ見えないじゃない!バカっ!!!」
彼女はそう言って、俺の胸にドンと掌底をして俺を突き飛ばす。
ただ、手の平で当てていることもあって、音のわりにはそれほど痛みを感じなかった。
「…………?」
「ん?どうした?」
高槻は掌底した手の平をじっと眺めている。
「殴り心地が違う……」
「いやいや、なんだよ殴り心地って……」
ベッドやソファみたいな家具感覚で言うのやめてくんない? 俺、体内にスプリングとか入ってないんだけど。
しかし、当の高槻本人は冗談を言っているつもりはないようで、自らの手と俺の顔を交互に見比べ、何かを確認するかのように顔をしかめた。
「……もしかして、本当に別人?」
「いや、だからさっきからずっとそう言ってるんだけど」
こいつ、人の違いをいつもどうやって判断してるんだ? 殴んないと分からないとか、プロのボクサーなんですかね。もしくは殴り合って分かり合おうとかいう、青春の1ページ的な?
「……じゃあ、あんたは一体何なの?」
「いやいや、一体何なのって言われても……通りすがりの者としか」
どうしてか不満そうな顔を見せる高槻に対して、俺は思わず鼻で笑ってしまう。
実際は、通りすがってもいないんだろうけどね。通りすがることができていれば、こんな厄介なことに巻き込まれることもなかったはずだし。
「ふーん。そんなとこ立ってたら危ないじゃない」
「…………は?」
おいおい。どう見たって、落ちてくる方が危ないだろ。お前、常識的に考えろよ。
まあ、そもそも窓から飛び降りるという選択を取る時点で、こいつには常識なんて皆無なのかもしれないが。坊ちゃんもびっくりな無鉄砲さである。
「落ちてくる方に落ち度はないんですかね」
……思いがけず、なんだか軽い洒落をきかせてしまった。こういうのって、後から思い出すとすっごい恥ずかしくなるんだよな……小学校の卒業アルバムとか、必ずと言っていいほどに男子はみんなボケまくってるけど、今見返してみると死ぬほどつまらなくて、見ているこちらが気恥ずかしくなってしまうあの現象に似ている。
「ま、あんたがここにいる理由なんてどうでもいいわ。別に興味ないし。時間の無駄ね」
拍子抜けしたと言わんばかりに、高槻は鼻でため息をついて、首を横に振る。
「……奪われた俺の時間については、触れないんですね」
っていうかさっきの洒落スルーすんな。気づいてもらえないと、それはそれで俺がスベッたみたいじゃないか。いや、事実確かにスベりはしたんだろうけどさ。
「そもそも、あんたがそんな盗撮しそうな顔をしてるのが悪い」
「……はい?」
横目でうっすら俺を眺めながら、高槻は話す。
え? なにその逆ギレ理論? まあ確かに俺は、悲しいかな、どこにでもいそうなモブ顔だ。それは自分でも薄々しぶしぶ分かってはいるけれど、さすがに盗撮顔だなんて言われたのは初めてだぞ?
そんなこと言われたら俺、両親に顔向けできないです。そんな盗撮顔、年頃の妹にお見せすることは教育上悪影響です。PTA的にも議題に上がっちゃうよ?「盗撮顔の生徒がいるんだが、安価で行動募集する」みたいな、どっか大きい掲示板のクソスレのタイトルみたいなテーマで。
そんな葛藤に喘ぐ俺のことなんか気にすることも無く、高槻は落胆したことを一際アピールするかのように大きめのため息をつく。
「あんたのせいで盗撮男を取り逃したじゃない。はあ……もう少しで捕まえられたのに」
「……それ、俺のせいなの?」
「だから、あんたがどこにでもいそうな顔だから、同じに見えただろってこと!」
……また俺の顔のせい? っていうかそこまでいったら、逆に俺の顔すごいんじゃない? どんな説明もこのモブ顔のせいにできるんでしょ?
例えばもし女の子との待ち合わせに遅刻したとして、『ごめん!待った?』『んーん、そんなことない!その顔だし仕方ないよ!』って会話が成り立つんじゃあるまいか。そんなわけないですよね、当たり前です知ってます。
「あーあ、またあの男を探さないといけないじゃない……」
高槻は再度、恨めしいというような眼差しを俺にぶつける。
高槻はどうやら徹底的に、俺のせいで取り逃した、ということにしたいらしい。どれだけ説明をしても自らの非を認めないその自尊心には、俺も少し感心してしまう。いや、当然褒められたことではないけれど。
気怠そうな表情で俺の顔をじっと見つめた高槻は、日傘で自分の肩をトントンと叩く。
「いいわ。せっかくだし、あんたをわたしのパートナーにしてあげる」
「……は?パートナー?」
またも想定外の単語が登場する。
今の言葉を聞いてようやく確信したが、こいつは俺と会話する気がさらさらないと思う。おそらく俺の言ったことなんて、こいつの頭には5%も耳に入っていない。学内一の問題児の底力は伊達じゃなさそうだ。俺が言うのもなんだが、圧倒的にコミュ力が欠けている。
「私一人だと、この学校生活は目立ちすぎるのよ。だから、あんたみたいなそのどこにでもいる感じがちょうど良いのよ」
「俺は中和剤かよ……っていうか目立ちすぎてるって自覚はあるんだな」
自覚があるにも関わらずやりたい放題やってる分、余計に質が悪い気もする。こんなのを相手にしないといけないなんて、生徒会のやつらも大変だな。思わず同情してしまう。
腕を組んだ高槻は、真顔でじっと俺の顔を眺める。
「あんた、名前は?」
「いや、直だけど……」
「ふーん、なお……普通の顔のくせに、意外と変な名前ね」
「……意外と、とかさりげなく言うのやめてくれない?」
自分でも気にしていることだからこそ、グサリとくる。その一言に俺の日々の葛藤や悩みといったそういうのが全て凝縮されているような気さえする。名前は覚えてもらえるのに顔は覚えてもらえないとか、なかなか辛いんです。というか、全国のなおさんに向けての謝罪をこいつに要求したい。
「さて。なお、じゃあ行くわよ」
高槻は手際よく日傘をクルクルと回してから、その流れで傘の中心を握った。移動用の構え、といったところだろうか。その姿はもう完全に名の知れた剣豪のようだった。ただ、これまで校内で様々な問題を起こしてきただけはあり、その日傘の扱いは見とれてしまうほど滑らかだった。
「ねえ、何してんの?ほら、さっさと準備しなさい」
「……はい?」
自分の頭では理解の出来ないことを言われた時、人間はただひたすらに瞬きをする。あまりに驚くと我々は目を見開くのだから、当然といえば当然の反応なのかもしれないが。
その言葉に質問を返すこともできず、俺はポカンと高槻の顔を眺める。
「はい?じゃないわよ。あんたも一緒に行くの」
「ごめんなさい、全く理解が出来ないんですが……」
「さっき言ったじゃない。わたしのパートナーだって」
いや、むしろその辺りからもうさっぱり分からないんだけどね。それを聞いたところで、「なるほどー!」とは言えないですよそこの日傘のお姉さん。
「あんた、さっきわたしのおしり、触ったわよね?」
「えっ……?」
「まさか覚えてない、とでも言うつもり?」
高槻の唐突な発言に俺の鼓動は慌ただしさを増す。
「な、なんのことだろうな?」
「へー、そう。しらばっくれるってわけ?」
高槻は俺を眺めたまま、事実確認するように何度も頷き、俺に無言の圧力をかける。
そんな事実、心当たりがない……わけではない。しかし故意に触ったわけではないのだ。あれは事故だ。
落ちてきた少女を助けようとして、咄嗟に手を出したら、その尻に軽く手が触れただけだ。
しかも、そのまま俺は当の本人から、日傘と空中蹴りという2発の連撃を受けダウンしている。もうその時点で圧倒的大差で俺の方がダメージを受けている気がしなくもない。それはもうなんというか、物理的に。
というかあの状況で、尻に手が当たっていたことに気付いてたのか……その運動神経と判断力、恐るべし。
そして何よりそういった小さなミスを逃さない高槻の悪魔力にゾッとする。君は小悪魔じゃないよ、正悪魔だよ。
「盗撮男を捕まえるか、あんたが痴漢で捕まるか。さあ、好きな方を選びなさい」
「はああああああ!?!?!???」
そんな2択は、選択肢がないのと同じである。さっきまで半泣きだったあの女子生徒はどこへ行ったのか。同一人物とは思えないようなあくどい笑顔で、高槻は俺をニヤニヤと眺めている。
知らないうちに、ハメられた……そうやってどっちにも逃げ場をなくすのは、闇金とかの手口だったような気がする。現状、債権を握られているという意味では大体同じようなものだが。
「ほら!なんでもいいから、あの盗撮男を捕まえに行くわよ!!」
そう言い終わる前に、高槻は空いた左手で俺の手首を握って歩き出す。
「お、おいっ!ちょっと!!」
いきなり腕を引っ張られたせいで靴が脱げそうになったが、なんとか体制を立て直して、俺は高槻に引かれたまま足を動かす。
「それと、私のことは、綾でいいわ!パートナーの特権として、下の名前で呼ぶことを許してあげる!」
「はあ?」
その1つの権利と、突如俺に与えられた義務では、あからさまに天秤のバランスが取れていないのは気のせいだろうか。彼女の秤の上では、重力という概念が存在しないのかもしれない。もしくは単純に、俺の権利が限りなく無重力に近いか。そのどちらかである。
現状だけを見てこの関係を正しく表現をするというのであれば、家来とかペットという言葉が最も近いだろう。どちらが飼われている立場かというのは、自分のためにもあえて名言はしないでおこう。
こうして俺は、高槻綾と接点を持ってしまった。
そしてこれが3和音程度で表現できていた俺の高校生活を変えていくきっかけになるなんて、このときは思いもしなかったのである。だってそれは、契約書もない、ただただ一方的な約束でしかなかったのだから。
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