第14話幸福
幸福ってものを考えるとき、オレには昔からひとつのイメージがあった。それは、ふたりの愛し合う男女が究極的な状況に置かれて、どちらかが死ねば、もう一方は生き残ることができる、「さてどうする?」ってシーンだ。片方が死ななきゃ、もう片方を生かすことはできないの。そこで男は、愛する女のために、自らの命を絶とうと決心する。男は、愛する女を幸福にしたいがために、ひとり死のうとするわけ。ところがだよ、ひとり残される女の方は幸福かっつーと、そうでもない。その後の生涯を孤独と罪悪感と悔悟の念とにさいなまれながら生きてかなきゃなんないんだから。逆に男は、女を生き長らえさせることができる幸福の中で死ねる。女を幸福にしようと思うばかりに、男の方が幸福になっちゃうわけ。だけどさらにリロンを進めると、生かされる女の方にこそ、男に本望を遂げさせ幸福のうちに死なせてやれるという満足感、すなわち幸福感が生じちゃったりして。女を生かすことこそ男の幸福なのだとしたら、むしろ男にそれをさせてやるべきでしょう。だって、女の方だって男のために死にたいんだから。死んだ方が幸福なんだから。その後の生涯を苦悶と共に生き抜く決意で、男に「幸福の死」の選択を譲るとしたら、それは女にとっては、壮絶な愛の内にある幸福感なんじゃないの?しかし、だとすれば、女に苦痛の生を強要する男の死ってのは、男自身にとって幸福なのか、どうなのか?いったい、死んだ方が幸福なの?それとも生きた方が?相手が?あるいは自分が?はっきりして!
・・・つわけで、幸福の行方はどこまでいっても堂々巡りのシーソーゲーム。ただ、相手の幸福と自分の幸福はリンクする、って部分だけは揺るがないんじゃないかと、オレ自身はそう思ってるんだ。
オレと小麦とは、これと同じような設定の舞台に日常的に立たされてる。どちらかが生きるために、どちらかが犠牲にならなければならない。だけど、いざその場面に出くわすと、ふたりは上記した価値観とはまるで逆の心持ちで動いてしまう。つまり、痛みの押しつけ合いだ。その関係に、幸福感はどこにも存在しない。
(幸福になれないし、させられない・・・)
それをついに今夜オレは、心の底から理解してしまった。ふたりの関係は間違ってる!そして決意したのだ。もうこんな生活、まっぴらなんだもんね。出てってやる!いや、部屋に転がり込んできたのはあっちの、小麦のほうなんだから、出てってほしい。出てかないんなら、追い出してやりたい。いや、きっと追い出してやる!できれば。
(・・・絶対に・・・今度という今度は・・・断固として・・・問答無用に・・・きっぱりと・・・)
と、心の内でつぶやきつつ、結局は小麦のために当面の金のあてを求めてさまよい歩いてるオレって。
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