第7話 最強の遺伝子と最強の奥義
岸が目を覚ますと、自分の上で益美が可愛らしい寝息をたてながら、寝入っている。
「俺は…負けたのか…?」
岸は己の敗北を思い出した。益美はその時のことを覚えてはいなかったが、岸は鮮明に覚えていた。
なんとも惨めで無様で情けない、格闘家生命に関わる程の、哀れなまでの敗北であった。
益美の奥義の前に、岸は必死なまでの抵抗を試みるが、その全ては無駄な足掻きとなる。
なすがまま、なされるがままに男としての尊厳を蹂躙される岸。
勿論、我を忘れて奥義を繰り出す益美にとって、岸の尊厳など御構い無し。
激しく責め立てる1000本の触手に抗う術を見出せない岸は、逃げることもままならず、惨めにも泣きながら敗北を認めて懇願。
セイシヲカケル闘いだと言っておきながら、なんとも情けない話である。
だが、岸にまたがり我を忘れて奥義を繰り出し続ける益美の耳に、岸の懇願など届くわけが無かった。
闘う事も、逃げる事も、負けを認める事すら許されない。
しかし、もとを正せば岸が自ら発した言葉が、事の発端である。
負けを認めても負けとしない…その自業自得による、あまりにも無様な結果であった。
終わることの無い蹂躙に、泣きながら泡を吹いて意識を喪失。そして今に至る。
岸は目を覚まし、敗北を知ると再び泣きはじめた。
最強の格闘家になると息巻いておきながら、僅か一日で敗北。
三日天下ですら無いのだから。
だが、岸の流す涙は悔し涙だけだと言う訳では無い。歓喜の涙でもあった。
何故なら最強の格闘技を見い出すと言う、当初の目的がなされたからだ。
益美の奥義をその身に受け、岸は確信したのだ。触手拳こそ、最強の格闘技であると。
そう、これ程の素晴らしい奥義を繰り出す格闘技など、他に類を見ない。だからこそ、最強であると。
身を以って触手拳の最強さを味わった岸。そして益美もまた、同じ様に触手拳が最強であることを理解していた。
◆
こうして触手の素晴らしさを通じて、二人は付き合うこととなった。
暫らくすると体調に異変を感じた益美が病院に行き、そこで妊娠が発覚。すると二人は迷わず結婚を決めた。
迷わず結婚を決めた二人に対して、迷わず結婚を反対したのが益美の両親である。
それもそうであろう。世界選手権で六連覇と、輝かしい実績を持つ愛娘が空手を捨て、わけの分からん触手拳なる色もの格闘技に身を投じるのだ。
更に空手を捨てさせた元凶である、岸ベシローとのできちゃった婚。マトモな親であれば、猛反対するのは当然と言えよう。
放任主義の岸の両親とは逆に、益美の両親は一人娘だと言うこともあり、益美のことを溺愛して育ててきた。
益美に空手を教えたのも、両親が空手の有段者だからと言うのもあるが、益美に近寄る悪い虫を撃退させんが為の、護身術として始めたのが切っ掛けだ。
しかし、益美は空手を習い始めるやいなや、その才覚を遺憾無く発揮。
あれよあれよと言う間に、益美は世界選手権で優勝する程の実力者へと成長。
両親にとって益美は、掛け替えのない自慢の娘なのであった。
そんな愛娘が…触手拳などに傾倒し…空手を捨て…できちゃった婚…両親の憤慨は誰の目にも明らかである。
憤慨する益美の両親を説得させるのは困難と判断した岸は、あろうことか触手拳で益美の両親をねじ伏せ、駆け落ち同然で益美と結婚。
誰にも祝福されず籍を入れた二人ではあったが、後悔はしていない。たとえ世界を敵に回しても、二人の触手拳があれば怖いものなど、何も無いのだから。
触手拳が最強であることを信じて止まない二人の行く手を阻む障害など、触手拳でねじ伏せればイイ。ただ、それだけだ。
二人にしてみれば、愛と触手さえあればもう、他には何も要らないと言うのが本音であった。
そして二人の愛と触手の結晶が、益美の中に宿っている。
二人は確信していた。まだ見ぬ我が子は最強の遺伝子を持つ、最強の格闘家になるであろうと。
妻である益美が最強の遺伝子を持つ我が子を宿し、母となる者の役目を全うしようとしている。
では旦那であり、父となる岸ベシローの役目とは?
そんな事は決まっている。
最強の遺伝子を持つ我が子に、最強の奥義の伝授。それこそ触手拳の使い手であり、父としての役目!
その為にも触手拳最強の奥義の開発が急がれる。しかし、岸は思い悩んでいた。
妻である益美の奥義「
1000本もの触手を前に、たった1本の触手で立ち向かうのは、余りにも無謀と言えよう。
益美の奥義を超える程の奥義を編み出さなければ、最強の奥義とは言えない。
だが益美の奥義の凄まじさを、岸は身をもって知っている。故にそれを超えることの難解さに、頭を悩ませていたのだ。
「たった1本の触手で1000本もの触手を相手にするなど…どだい、無理な話なのか?」
思いつめた岸は諦めかけていた。
武人として生きてきた岸が勝利を諦めるのは、まさに腸が細切れにならん程の思い。所謂、断腸の思い。
だが、現実は甘くはない。どんな奥義を試みたところで、益美の奥義には到底及ばないのだから。
「歴史上、たった1人で1000人を相手にする武人だって居るわけが無いんだし…」
諦めかけていた岸が、そこで言葉を止めた。
本当に居なかったのか?たった1人で1000人を相手にした武人は?
否!
歴史上、たった一騎で千人に立ち向かう武人は確かに存在した!
その武人はこう呼ばれていた…そう、「一騎当千」と!
岸の中に一筋の光明が射し込んだ。1000本の触手に対抗する最強の奥義への糸口が、ついに見つかったのだ。
だがそれは余りにも過酷なる特訓を要する事が予想された。
一騎当千とは万夫不当の豪傑が持てる称号。
現代で言うところの、超人と呼べる程の者で無ければ成し得ぬ程の証。それが一騎当千。
たとえ天賦の才を持つ岸ベシローでも、一騎当千とはそれ程までに過酷なる道をもって到達する領域。
だが、道が険しいからと言って諦めるわけにはいかない。
最強の遺伝子を持つ我が子の父として、益美の夫として、触手拳の使い手として、最強の奥義を極めなければならないのだから!
その日から始まった岸の荒行。益美は止めることはせず、木の陰からそっと見守るのであった。
二人は信じていたのだ。
最強の遺伝子を持つ我が子の誕生と、最強の奥義と呼べる一子相伝の技の誕生を!
◆
岸が常軌を逸した荒行を始めてから数ヶ月の時が経った頃、産気づいた益美が麓の町で産婆と共に出産の準備を始めていた。
部屋の前を先程からウロウロと、岸が落ち着き無く行ったり来たりを繰り返す。
部屋の中から聞こえるのは、益美の呻き声と産婆の励ましの声。既に一時間を経過している。
いつまで経っても産まれない我が子と妻への不安。
母子共々無事に出産を終えることが出来るのか、岸はただ指を咥えて待つしかない事への苛立ちを募らせていた。
そんな岸の心配を裏切らんと、聞こえて来たのが赤ちゃんの元気な産声。
慌てて部屋に入ると部屋の真ん中には憔悴しながらも、遣り遂げた顔をする益美。
その腕の中には元気な赤ちゃんの姿が。女の子である。
岸は益美に良く頑張ったと、出産を遣り遂げた事への労いの言葉を。
そして我が子にもよく産まれて来てくれたと、労いの言葉を。
岸は娘を益美から受け取ると、二人で前もって用意しておいた、産まれてくる我が子への初めてのプレゼントを贈った。
「父さんと母さんが必死になって考えたんだ。誰にも恥じることの無い、立派な名前を…それがショクシュ子、お前の名前だ!」
岸ショクシュ子と、なんとも愛らしい名前を付けられた愛娘は、その意味を理解しているのか、先程までの泣き声が嘘の様にキャッキャと笑っていた。
のちに世界最強の格闘家と称される、岸ショクシュ子。
この大いなる愛に包まれた生誕こそ、ショクシュ子を最強の格闘家へと成長させる要因となるのだが、それはまだ先の話である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます