その401 みやま山荘事件
無限に続くかと思われるような、単調な階段。
それをゆっくりと昇りながら、私は彼女の話に耳を傾けています。
みやま山荘事件と呼ばれる、長野県山奥で行われた凄惨なリンチ殺人に関して、私は極めて貴重な知見を得ていました。
事件の当事者である、志津川麗華さん。
彼女の口から、忌憚ない意見を聞くことができたためです。
話を聞きながら、私はぼんやりと考えていました。
志を持つ人々が、――いかにして互いを憎み始めたか。
「あれは大学二年の夏。ずいぶんと暑い時期だったわ。
みんながみんな、どろどろに汗をかいて。臭くて。不快で。虫がたかってきて、最低だった。
あの頃の私たちはね、夢を見ていたの。素晴らしい夢。
自分たちには無限の才覚と万能のエネルギーが宿っていて、その力で万物の問題を解決できるって。
そういう夢。
私とその仲間たち、とある芸術系の大学に通ってた。
専攻はいろいろ。演劇とか、映画とか、放送とか。
私は演劇学科だった。さもありなん、って感じでしょ?
私、台本を読むのが大好きだった。今もそう。
話が逸れたわね。
我々が望んでいたのは、――まあ、有り体に言うと、”革命”だったのかもしれない。一昔前の、連合赤軍がやった学生闘争。あれにも少し似ていた。
けど、考え方は真逆だった。あの人たちはストイックすぎたからね。
”愉しませぬもの、喰うべからず”。
当時から我々は、そういうスローガンを掲げていたわ。
そして、そのスローガンに酔ってさえいた。
私たち、信じていたのね。人は”楽しいモノ”に引き寄せられるって。その”楽しさ”を無限に感じることができれば、きっと世界を変えられるって。
まあ、といってもそれは、名目に過ぎない。
私たちが感じていた不満は、もっと具体的だった。
わかるかな? ……きっといまの若い子には、わからないでしょうね。
あの時代の
あの頃は、演劇も、映画も、放送も、写真も、文芸も、美術も、音楽も、デザインも、すべてがみんな、才能の涸れた老人たちに支配されていた。
実力ではない、――コネクションが全ての時代。
誰一人として実力でのし上がった人はいなかった。
誰一人として、権力者のペニスを咥えずに出世できた者はいなかったわ。
かつての社会においてはあの、福沢諭吉の絵が印刷された紙が何よりも権威を持っていた。
だから本当の実力なんか、これっぽっちも無視されてしまって。
心ある人は皆、搾取を受けていた。
あらゆる創作物が陵辱されていた。
だから我々は、真実を世に伝える必要があったのよ。
このままでは、世界から”楽しさ”が永遠に喪われてしまうって。
まず、最初にやろうとしたことは単純。
テロ、ね。そしてその準備。
とある山荘を占拠して、そこで私たちは訓練を始めた。
人数? 三十人くらいだったかな。でも、それで十分だと思われた。
だって、私たちが真実を伝えればきっと、世界は目を覚ます。
そうすれば、第二、第三と私たちに続く人たちが現れて、世の中は変わるって。
うん、うん。そう。
あなた、よく勉強してるじゃない! 私もあとあと知ったんだけど、かつての学生革命家たちとまったく同じ、見通しの甘さ! インテリ(笑)の考えることなんて、いつの時代も変わらないってこと! 笑えるね。
反省? もちろんしてる。
私だって、十年も刑務所にいたんだもの。当時のことは、すごく愚かだったと思うよ。
そもそも、自分の望みの根っこのところを第三者に託すような真似、しちゃあいけなかったんだ。
私たちがすべきだったのは、武器ではなくペンを持って世界を変えることだった。
でも我々はそれをせず、――あの事件を起こした。
足立克也くんは声優志望。
彼は、仲間たちが順番にアイスピックで刺したわ。
体重が百キロ以上で、ドブに浸かったみたいな声だったからね。
”人を愉しませるに能わず”。
近藤亮平くんは映画監督志望。
力のある男性、複数人での絞殺を指示。
彼の映画でのギャグシーンと言えば、決まって「おならがぷー」ってさ。
だから、”人を愉しませるに能わず”。
木田幸司くん。小説家志望。
彼は、彼の書いた原稿と一緒に焼殺した。
彼の書く小説は、それはそれはもう、悲惨なものだったわ。
会話文の間に、わざわざ改行がはいるの。「その方が読みやすいから」ですって。
そんなの、”人を愉しませるに能わない”でしょ?
坂田敦くん。画家志望。
拘束して外に放置していたら、いつの間にか喉を裂かれていたわ。
彼の絵は、――正直、嫌いじゃなかった。
でもほら、絵の善し悪しってわりと抽象的でしょう? ケチをつけようと思ったら、いくらでもつけられる、というか。
彼は良い絵描きだったけど、女性関係がだらしなくってね。
結果的に仲間の不興を買ってしまった。
家田和子さん。写真家志望。
餓死。
彼女は無難な人だった。無難な写真ばかり撮っていた。
野に咲く一輪の花、とか。雨の雫が落ちる池、とか。
坂田くんほどの人が死んだなら、彼女も死ぬべきだ、ってなった。
今思えば、誰かの個人的な復讐だったのかもしれない。
粕谷りつと、その子供。コメディアン志望。
二人は、その首を刎ねて、針金で顔面を固定させた。
にっこり”笑ってる”ように。
だって二人とも、あの山荘に来てから、ただの一度も笑わなかったんだもの」
私は訊ねました。
その後、どうやって捕まったんですか、と。
「自首したのよ。
自分たちのしでかしたことが、間違っていたことに気付いたからね。
そんな我々が”人を愉しませる”ためには、贖罪が必要だったの。
まあ結局、死刑判決を受けてしまったけれど。
我々は結局、お互いの才能を妬みあって、あんな事件を起こしてしまった。
若かったから。自分には才能があると信じていたから。
だから、――他人の素晴らしい実力を認められなかったのね。
足立くんは醜かったけど、その演技はすばらしかった。
近藤くんは、シリアスな映画を撮らせれば天才だった。
木田くんは、人を笑わせる小咄が巧みだったわ。
坂田くんの才能は言わずもがなだったし、家田さんも粕谷さんも、……赤ちゃんも、きっとすばらしい未来が待ち受けていた。
でも、我々にはそれを判断する能力がなかったの。
誰よりも才能があると信じていたのに」
なるほど、と、私は嘆息します。
だからか。
だからそうして、この”非現実の王国”のルールが出来上がった。
しかし同時に、私は「憐れだ」とも思います。
彼女が巧くやっていると信じているそのシステム、――”非現実の王国”においても、コネと身内びいきは存在し続けていましたから。
彼女が私を、ほんの一面的にしか知らなかったことと同様に……、
「……ねえ、”名無し”さん。
意外に思うかも知れないけれど、私ずっと、覚悟はできていたのよ。
もし私の試練を乗り越えて、私の代わりに女王になる人が現れたら、その人に全てを明け渡しても構わないって」
その時です。
ゆったりとした歩調の彼女が、ふと足を止めたのは。
目立たない、かつては何が保管されていたかすらわからない、”アビエニア城”の高層階にひっそりと存在する倉庫。
どうやら、私たちの目的地はそこのようでした。
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