その375 七裂里留
それが、かつての里留の肩書きである。
とはいえ、それが自分の人生に深い意味を与えたことはなかった。
誰もが思ったとおりのタイミングで産まれることができるわけではない。自分は少し運が悪かった。それだけの話だと。
実の父は昔から、逃げ癖のある人だったという。
祖父の厳しい鍛錬から逃げ。
受験から逃げ、就職から逃げ、祖母のお小言から逃げ。
そして、間違って産まれてしまった自らの子供から、母と、その家族からも逃げた。
ただ、そんな父でも、家族は家族である。
勘当寸前まで関係が悪化していた父と祖父の仲を繋いだのは、まだ赤子だった里留であった……らしい。
利害が一致したのだ。祖父は、自分の技を受け継ぐ男の子を欲していた。
その事実を思うだけで、七裂里留は誇らしい気持ちになる。
――血のつながりは、大切にしなければ。
誰かにそう教わったわけではない。
ただ、何となく昔からそうすべきだと思い込んでいる。きっと人間の本能のようなものなのだろう。
だから、自分の存在が縁切りを防いだのであれば、それはとても意義深いことだと思っていた。
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自分に妹がいる事実を知ったのは、まだ中学二年の頃。
妹モノのアニメに嵌まっていた当時、育ての親であった父方の祖父が口を滑らせたことによる。
「こんモン観てるようじゃ、とても本人に会わせられんなァ」
と。
それがきっかけ。
今ではちょっとした笑い話だ。
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大阪。阿倍野。商店街の片隅にひっそりと佇むコンビニの一つ。
決して儲かっているとはいえないその店の経営者として、里留の本当の家族は、いた。
中二の冬休み。
七裂里留が訊ねた父は、今では別の女性と結ばれているという。
義母は優しい人で、不器用な父を支えながらも幸せに暮らしているらしい。
妹に会いたいと願ったのは、実を言うと思春期特有の好奇心だった。
里留にとっての”妹”とは、アニメに登場するキャラクターの一属性に他ならなかったのである。
現実に彼女と顔を合わせた時、どういう気持ちになるだろうか。
それを確かめる行為は、自分の中でもきっと重要な意味を持つと考えていた。
「やあ。こんにちは。兄です」
「あら。あんたが、にいやん?」
「ああ」
「思ったよりも根性足らん顔しとるねえ。本当にお父ちゃんと血、繋がってるん」
「ああ。……一応、戸籍の写しなら持ってきたけど」
「いらん、いらんて。そんなん必要ないくらい、――うちら、そっくりやし」
離れていた兄妹が、最初に交わした言葉である。
くすくすと笑う彼女を、里留はクラスに居るどの女子よりも魅力的だと思った。
ただ、クラスの女子に自分が抱くモノとは根本的に異なる、――一回り小さな自分の分身を眺めているような感覚。
ただ、その後の会合は順調に進まなかった。
父がこちらを疎ましく思っていることを隠さなかったためだ。
無理もなかった。彼にとって自分は、今の幸福な生活のために切り捨てた”過去”なのだから。
父は、自分の感情を隠すのが苦手な性分らしく、はっきりと里留にこう言ってのけた。
「ホテル代は払おう。悪いが、ここには泊まってくれるな」と。
ここはお前の居場所ではないから。
そして、父は逃げるように自室に閉じこもってしまう。
正直、里留にはそれがショックだった。
自分が、まるで他人の子供のように追い払われること、――その事実よりも、父と祖父の仲が今、決定的に引き裂かれたことに。
部屋数の足りない狭い家とはいえ、祖父の使いで来た自分を寒空に下へ追い出すということは、つまりそういうことで。
――じゃあ、俺はいったい、何のために産まれてきたんだ?
人生の一部を削り取られたような気持ちでいると、妹がふと、こう訊ねた。
「ねえ」
「?」
「にいやんは、おじいちゃんの家で、修行してるって本当ですか」
「ああ。そうだよ」
「けんか、つよいん?」
「試したことはないけど、何もしてない人よりはきっとね」
「では、お願いがあります」
「?」
「お父ちゃんを、なぐってください」
血の繋がらない母は、それが冗談だと思ったらしい。少し笑った。
だが里留にはそれが、とても冗談には聞こえなかった。
「どうして? 父さんに何か、酷いことでも……?」
「いいえ。お父ちゃんは、うちにとってはいいお父ちゃんです」
「じゃあ、なんで」
「だってそうしないと、……こう……つりあいが、とれんっちゅうか……」
そこで、義母の表情から笑みが消えた。里留も妹の意図を察することができた。
捨てられた子供は、捨てた親を殴るべきだ、と。
妹はそう言っている。本気で。
「今のままだったら、みんながみんな、モヤモヤを抱えたまま生活することになるやろ。それってきっと、不幸なことやと思う。
でも、ウチが命令して、にいやんがお父ちゃんを殴れば、悪いのはぜんぶウチってことになるっしょ。
そしたら、にいやんのモヤモヤはきっとスッキリするし、お父ちゃんはお父ちゃんで罰を受けることになるから。お父ちゃんのためにもなる」
「父さんの……ために?」
「うん」
妹は穏やかに笑う。
「罰って、悪いことをした人に対する、救いにもなるやろ。『ああ、これで自分は赦されたんだ』って。
それに、ウチはふだんからエエ子やから、ちょっとくらい悪ぅなっても気にせぇへんし」
当時、小学四年。たどたどしいが、蘭なりの言葉だった。
「ふむ。なるほど」
里留は、そっと自分に出された、来客用のショートケーキを妹に捧げる。
「気を遣ってくれて、ありがとう。これ食べて」
「うん。食べる」
「じゃあ、ちょっとぶん殴ってくるよ。父さんを」
「うん。いってらっしゃい」
その時に義理の母がした表情こそ見物だった。漫画のように、ぶっと紅茶を吹き出したのである。
里留はハンカチで義母の服を拭いてやったあと、まるでトイレに行くかのような足取りで父の部屋を訪ね、彼を六十八回ほど殴った。
意外だったのは、父もなかなかやる男だったということ。
途中退場したとは言え、彼もまた祖父から厳しい鍛錬を受けた身の上だった。
父を殴ったのと同じくらい自分も殴られた結果、いつしか二人は別離していた時間など忘れていたように笑い合っていた。
それが、武道に青春を捧げた二人が、唯一わかり合う方法だったことに気付かされたのは、――ずいぶん経った後のこと。
「また、いつでも来なさい」
不器用で愚かな父は別れ際、普通の会合のまま終わっていれば、きっと言わなかったであろう言葉を述べた。
妹はそれを、まるで当然のことだと言わんばかりに受け入れている。
彼女にはわかっていたのだ。
こうでもしなければ家族は、きっと再び、離ればなれになってしまうだろう、と。
「血のつながりは、――大切にせんとね」
妹もまた、里留と同じ考え方の持ち主だった。
お互い、誰かにそう教わったわけではなかったのに。
その日から、七裂里留は決めていることがある。
妹が繋いだ家族の仲を、引き裂くものがいるのであれば。
その時こそ、自身の学んだ武術を使うときだ。
――怪物との戦いでは、きっと”名無し”さんには敵わないだろう。
しかし、祖父から教わった技は、対人戦では決して負けない。
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