その332 肉の手応え
悪党の開かれた口腔に、鋭く加工された石の剣を突っ込む。
彼が手に持つ剣は、ひどく切れ味が悪い。
生きた肉を斬る感触が、犬咬に強烈な生理的嫌悪感をもたらしていた。
『が、ぼ……ッ!』
手応えから喉の奥まで得物が到達したことを理解し、犬咬蓮爾はさらに剣を押し込む。
奥歯が割れそうなほど食いしばり、正義だ、正義だ、自分は正義を執行している、と、頭の中で幾度となく繰り返していた。
「く、た、ば、れ……」
『が、ご、ぼ……』
浜田健介と目が合って、つん、と、鼻の奥が痛む。
気持ちが溢れて、涙が出そうになるときのあの感覚だ。
指が震える。この期に及んで、何もかも実は間違いなのではないかという恐怖が生まれている。
この不快感に比べれば、”ゾンビ”を殺すことなど人形を虐待するのと同じだった。
人間には、感情移入という能力がある。
他者の傷みを、己のモノとして感じる力が。
傷みを与えている人間が他ならぬ自分なのだから、犬咬のような凡人は血に酔うしかない。
『ご……ほ…………』
一瞬、浜田健介が眉をひそめた。
剣を通して肉体に触れている犬咬には、不思議と彼の気持ちがわかる気がする。
――やれやれ。こちらも死んでしまうわけにはいかないし、仕方ないか。
そして健介は、思い切り上体を引く形で背中から倒れ、その右足を支え棒のように使って犬咬の身体を真後ろに投げる。
「――っ!?」
一瞬、何をされたか検討もつかなかった。
柔道で言うところの巴投げを受けた犬咬は、一軒家の玄関から、廊下の方へひっくり返されて背を強かに打つ。
思わず剣を放してしまったが、復帰は素早かった。”革”系の装備は柔能く剛を制するタイプの性能だ。むしろ組み手は望むところである。
「来いっ」
身を起こしつつ、そう叫んだ、その時だった。
――やッば……! 蓮爾! 背後だ!
光音の警告に振り向くと、
『ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!』
室内に潜伏していたらしい”ゾンビ”が四匹ほど飛び出し、犬咬の両肩を掴む。
「わあっ!」
ビックリ系のホラー映画ですらここまで唐突な演出はしないだろうという状況に、悲鳴を上げる犬咬。
慌てて身を解こうとするも、右足のふくらはぎと肩に”ゾンビ”がむしゃぶりつくのを止めようがない。
この時、”白銀”装備であればなんともなかったが、”革”装備であったことが災いした。
”ゾンビ”の穢れた歯は革の鎧を破ることはなかったが……その強力な咬む力で、彼の身体を、万力のように潰していったのである。
「ぐ、がああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
目を剥き、悲鳴を上げる。
視界がちかちかするほどの痛みに、今度こそ犬咬は狂乱状態に陥った。
空いた左足で”ゾンビ”を一匹、蹴り飛ばすが、連中のしつこさはわかっている。
四匹の”ゾンビ”はそれぞれ犬咬の身体をまさぐり、それぞれの力で彼を引き裂こうとした。
久しぶりに、犬咬はこいつらが恐ろしい存在であったことを思い出す。
彼らを恐れて、地下にある小さなコンビニでずっと引きこもっていた日々のことを。
――やばいやばいやばい……っ。こういう時は……えーっと、えーっと!
光音が、頼りにならない猫型ロボットのように混乱している。
「”スケープゴート”を!」
聞こえたのは、七裂蘭の声だ。
――そうそう、それだ!
同時に、蓮爾の目の前に山羊を模した木の人形が出現した。
――それをどっかに投げて!
もはや藁にすがるような気持ちで、犬咬は空中にあるそれを引っつかみ、一軒家の奥、居間がある方へと投げる。
すると、それまで自分に夢中だった”ゾンビ”たちが突如、物わかりの良い犬に変化したようにそちらに注意を向け、よたよたと歩き去っていった。
「た、助かっ……」
――ってないでしょ! 浜田を!
叱責を受けて、犬咬は辺りを見回す。
辺りには、血で濡れた石の剣が転がっているだけで、奴の姿はない。
”ゾンビ”は”飢人”をも攻撃対象とするため、三つ巴にならないように逃げたのだろうか。
開けっぱなしの玄関から扉の外を見ると、蘭が重傷のナナミに《治癒魔法》をかけているのがみえた。
犬咬もそれに習って、負傷した箇所を治しながら、
「……浜田は、浜田の野郎は、どこに行った!?」
助っ人に現れて取り逃がすとは。
内心、忸怩たる想いでいると、蘭は首を横にふるふると振って、家の前にある穴を指さした。
どうやら、例の力を使って床に穴を空け、そちらに逃げたらしい。
「君は怪我、大丈夫か? ……ですか?」
「ええ」
関西弁の彼女は、すっかり意気消沈している。
もう片方の女の子は意識を失っているようだった。
「では、俺は浜田を追います」
「うん。……あっ、でも!」
蘭は、大きく声を張り上げて、
「そっちの方には、――”名無し”さんもいるんで。危ないかも」
「危ない?」
首を傾げる。
「彼女は、仲間なのに?」
その脳裏には、かつて彼女にぶん殴られた時のことが浮かんでいた。
あと、「痴れ者」という不名誉な台詞も。
「ええ。たぶんそろそろ”名無し”さん、……《必殺剣》を使う頃合いやって、そう思うから……」
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