その100 ハク

 沖田凛音おきたりんねが処女を散らさずに済んでいるのは、ほとんど奇跡に近かった。


 もちろんそれは、彼女の祖父であり、このコミュニティのリーダーでもある沖田隆史たかしの保護下にあった、というところも大きい。

 だがそれ以上に、男どもが互いを牽制し合った結果だとも言えた。


――凛音に手を出した者は、それ以外の者から袋叩きに合う。


 そういう暗黙のルールが、そのコミュニティ全体を覆っていたのだ。



 凛音は美しい娘であった。

 凛音自身、自分の魅力に気付かずにはいられないほどに。

 多くの男子が、自分を前にすると舌足らずになる。

 時には、かなり歳の離れた男でさえ。

 いっとき、男とは基本的に知性の足りないものだと考えていたこともあった。


 そしてそれは、彼女の人格形成に多大な影響を与える。


 いつしか彼女は、自分を女王だと思うようになっていた。



 凛音の住まうコミュニティ、――それは、彼女の祖父が経営していた自転車屋のすぐ前。高架下にあった。

 頑強なフェンスに囲われた、元は自転車置き場であった場所である。

 ”終末”が訪れて以降の祖父の行動は素早く、そして人道的だった。

 自転車を解体し、まず自身の住処である自転車屋にバリケードを構築。そのまま自転車置き場と店を繋ぎ、多くの人が避難してこられる安全地帯を作り上げた。

 その上で、都心では珍しい自家用の浅井戸を、みんなが使えるよう解放したのである。


 凛音は、密かにこれを愚策だと考えていた。


 人間は甘い汁に群がる生き物である。

 そして、無思慮な人々が一箇所に集まった結果、悲劇が生まれるのだ。



 結局のところ。

 こういう状況になってわかったのは、思ったよりも多くの人が暴力に耐性がないという事実だった。

 むやみに他人を傷つけてはいけない、だとか。

 鈍器や刃物を振り回してはいけない、だとか。

 これまでの社会で構築された”常識”という壁は大きい。


 バリケードに張り付く”ゾンビ”を処理する行為ですら多くの人は嫌がり、”ゾンビ”殺しは忌むべき仕事とされた。

 そうした仕事をさせられるのは、――知性とモラルが低く、他者の感情を平気で無視できるような、……元の世界であれば、「空気が読めない」とされていた者ばかりで。


「股ぐらおさえりゃ、素直になるさ。だろ?」


 バリケードごしに”ゾンビ”を始末しながら、ふと、男の一人が漏らしていた言葉を思い出す。

 その時から嫌な予感がしていたのだ。


 凛音が強姦されかけたのは、その二日後のことである。


 今でも夢に見るような、最低最悪の経験だ。

 救われたのは、常日頃から仲良くしていた小学生連中が、事態をいち早く察知してくれたからに他ならない。

 彼らの仕打ちに、多くの人は怒りを露わにした。


 「許せん」とか。

 「殺す」とか。

 「やっつけてやる」とか。


 そんな言葉を口にする人が多くいた。


 だが。

 それでも。

 結局、その救い難く愚かな男たちは、コミュニティを追放されるだけの処分に終わる。

 誰一人として、死刑執行の役目を請け負いたがらなかったためだ。


 凛音は、今でもその男たちを殺してしまうべきだったと考えている。



 残酷な結末が、すぐそこにまで迫りつつあった。


 バリケードに張り付く”ゾンビ”が、続々と集まってきているのである。

 本来であれば、奴らを見かけたら片っ端から始末しなければならないのだが、凛音のコミュニティはそれを怠っていた。

 追放した男たちの代わりを用意できなかったためだ。


 凛音は、時折こう考えることがある。


――あの男たちに身体を許していれば、このコミュニティはずっと安泰でいられたのではないか、と。


 そう考えると、この場所が”ゾンビ”に囲われつつあるのは、自分にも責任があるわけで……。


 凛音はそれから、食べ物を口に入れるたび、反吐を吐くようになってしまった。



 最後の希望でもあった物資調達班が戻らない。


 途中で“ゾンビ”に襲われ、息絶えたのか。

 それともこのコミュニティを見限ったのか。


 いずれにせよ、いま、その場所に残されているのは老人と女子供だけになった。


「睡眠薬がある」


 祖父が、疲れ果てた表情でそう言ったのは、今朝のこと。


「これを一瓶、まるごと使うんだ。……いいか。最後まで取っておいたこのヨーグルトに混ぜて、一気にかっこむ。朝食でコーンフレークを食べるのと一緒だ。それで楽になれる」


 それは、祖父の優しさだった。

 美しい孫を、美しい姿のまま逝かせたい、と。


 だが、凛音は知っていた。

 死は決して美しくない。

 腐り果て、酷い臭いを辺りに撒き散らす、蝿と蛆まみれの肉の塊に成り果てるだけだ。

 この世に存在する美しいものは、生きた人間によってのみ生み出される。


 この期に及んでなお、彼女は生き抜くつもりでいた。



 日が沈むころ。


あねさん、今にもバリケードが破られそうですぜ」


 そんなふうに声をかけてきたのは、青山良二あおやまりょうじという少年だ。

 歳は十一。いがぐり頭で、なかなか可愛らしい子である。


「しゃーないわね」


 深い嘆息。覚悟は、とっくの昔に固まっていた。


「武器を持ちな。戦うよ」

「戦うって……俺たちだけで?」

「当たり前だろ。他に誰がいる? スーパーヒーローが駆けつけてくれるとでも?」

「実を言うと、ちょっとだけ期待してます」

「奇跡にすがるのもいいさ。でもね、そういうのはきっと、努力して努力して、もうダメだって思っても努力して、……そうした人にだけ訪れるもんさ」

「はあ」


 良二の表情は懐疑的だった。彼の伯父に、二十年親元ですねをかじった末に宝くじを当てて、その金で悠々自適の生活を送っている者がいたためである。


 凛音は祖父の自転車屋を後にして、バリケードを通り、みんなの元に戻った。


 刀(祖父が趣味で収集していた模造刀だが)を掲げ、


「さあ、みんな! 戦いの時だ!」


 ジャンヌ・ダルクのように叫ぶ。


 反応する声はだった。

 みんな、全て諦め、死を受け入れつつある。

 戦える者はほとんど残っていない。


 彼女の前に集まったのは、物資調達班から外されていたオタクっぽい中学生男子二人と、青山良二を始めとする、八人の小学生たち。

 そして、気骨だけは一人前の老人が一人。


「まず、バリケードの反対側をわざと破壊する。そこから”ゾンビ”たちが入ってくるだろうから、頃合いを見て中央突破するんだ。目的地は雅ヶ丘の方面。運が良けりゃ、一人二人は助かるだろ」

「でも、……うまく突破できたとして、雅ヶ丘に人がいる保証はどこにも……」

「ずいぶん前に花火が上がったの、見たやつがいたろ。きっと生きてる人がいる。信じるんだ」

「しかし……」

「”でも”も、”しかし”も止めにしよう。最期まで自分の意志を貫く。生き残った者は、死んだものの遺志を引き継ぐんだ」


 辺りは暗くなり始めていた。

 バリケードは軋み、今にも押し潰されそうになっている。


 若かろうと、老いていようと。

 男だろうと、女だろうと。

 美しかろうと、醜かろうと。

 全ての者にとって平等な”死”が、すぐそこまで迫っていた。


「あっあの……凛音さん……」


 腫れぼったいメガネをかけた男子が、前に歩み出る。


「ん? どうかした?」

「これ……受け取って下さい」


 差し出されたのは、金のロザリオだ。


「うち、仏教徒なんだけど」

「わかってます。でも俺、あげられるものがこれしかなくて……」


 これは、彼の気持ちなのだと思った。

 凛音はそれを受け取って、


「ありがとね」


 言いながらも、神なんかには意地でも祈ってやるものかと考えている。

 そして、今の自分にできる最大の礼として、明るい笑みを浮かべた。


「は、はい……!」


 同時に、バリケードが軋む音が、一際大きくなる。

 遂に防御が破られたかと思うほどに。


「……! 時間はなさそうだ。……すぐにでも……」


 覚悟を決めた、その時だった。


 どっごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!


 ここからそう離れていないビルから、轟音。


 見上げると、すぐそこにあるビルに、ゴジラがワンパンしたみたいな大穴が空いている。


「なっ……なんだあれ?」


 暫定的にこの場を取り仕切る身としては、その異常がどういうものか、見極める必要があった。

 新たなる脅威か。

 あるいは、――奇跡に恵まれたか。


 続けて、何かが“ゾンビ”を蹴散らしているとわかる。


「戦車だ! きっと自衛隊が助けにきたんですよ!」


 良二が叫んだ。


「伯父さんの言ってたとおりだ! テキトーに生きてても、わりとなんとかなるって! 自分の運を信じろって!」


 なんだろう。

 あまり教育に良くない前例を与えてしまった気がする。


「安心するのは早いよ。ここいらに集まった”ゾンビ”の数を見な。負けてしまう可能性だってある」


 ただ、その懸念はいつしか、煙のようにかき消えていた。

 少なくとも、”ゾンビ”と戦っている何者かが押されている様子はない。


「すげえっ。どんどん”ゾンビ”が減ってく!」


 その場にいた者たち全員の顔に、しばらくぶりの感情が芽生えていた。

 恐らくそれは、“生きる希望”と呼ばれる類のものだ。


 やがて彼らは、”ゾンビ”を相手にしているのが、たった二人の人間……しかも、年端のいかない女の子だと気づく。


 一人は、凛音と同じくらいの歳。

 そしてもう一人は、中学生くらいの小柄な娘。


「あれって……」


 以前、食料調達班の男たちが言っていた言葉を思い出す。

 鬼のように強い女剣士を見かけた、と。


 最初は悪い冗談だと思った。


 悲惨なニュースが続く中で、希望をみんなに植え付けようとしたのだと。


 だが、そうではなかった訳だ。


「……”勇者”……」


 良二が興奮気味に口走る。


「ん?」

「ほら、以前、噂になったでしょ? “勇者”を名乗る女の人が現れたって。きっとあの人達がそうですよ」


 やれやれ。

 ”ゾンビ”ってだけで物語めいているのに、今度は”勇者”か。


「うおおりゃぁああああああああああああああああああああああああッ!」


 女剣士の叫び声は、もはや聴こえる位置にまで近づいていた。

 目を細めて、その姿を確認する。


「――ッ!」

「どーしたんです? 姐さん」

「あのジャージ、見たことあるよ……はは! 何が”勇者”だ、ありゃ、あたしの同級生の誰かだ」

「同級生? ……ってことは、”雅ヶ丘高校”の生徒さんで?」

「ああ……ッ」


 “ゾンビ”に阻まれて、その顔まではわからない。


――知ってる娘だろうか?


 凛音は、思わずバリケードに飛び乗って、顔を見ようと試みる。


「ちょ、姐さん! 危険ですよう!」


 制止する声も聞かず。

 ふと、数匹の”ゾンビ”が、彼女を取り囲むのが見えた。


「ああ……っ!」


 もはやここまでかという、みんなの落胆した声。

 だが次の瞬間、一匹の“ゾンビ”を足場に、女剣士が空高く飛び上がる。


 月を背に。

 全身をどす黒い血で染めた少女と、目が合った気がした。


 ぽかんと口を開ける。

 目を疑う。

 決意に満ちていた気持ちが、大きく揺らぐ。


――


「どうしました? 姐さん?」

「……あたし、あの子のこと、知ってる」


 呆然として、呟く。


「同じクラスの子だよ。名前は……」


 本名は思い出せない。

 ただ、あだ名の方は有名だった。


「“ハク”って呼ばれてた娘だ」


 着地と同時に、彼女を取り囲んでいた”ゾンビ”の首が一斉に跳ねる。

 目にも止まらぬ早業だ。


 なるほど化物めいている。”ゾンビ”など、問題にならないほどに。


 きっと自分たちは助かるのだろう。


 だが不思議なことに、凛音の心は、どんよりと曇り始めていた。

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