第8話
早朝は霧のような細かい雨が草原を湿らせ、短い夏の終わりが近いことを告げていた。
俺はマーリカと二人で、アリーを乗せた馬が出立するのを見送った。
このような天候に行かせるのはどうかとも思ったのだが、アリーは自分が行くと決めたのだからお前は気にするなと言って、予定を変更しなかった。
彼が向かうのは北の方角、山裾にある街だ。貴重な資源がまだ採れる鉱山を中心とし、各地から様々な行商人や旅人達が集う活発な地域で、天星石の結晶も多く取引されているだろうから、俺が必要とする品も間違いなく揃うはずだ。
馬には小さな荷車が繋がれている。アリーはその御者台に乗り込み、手綱を取った。
「じゃぁ、行ってくる」
「気をつけるのよ」
「ああ」
隊商のルートを使うし、アリーの馬は脚が早い。何事もなければ、数日で戻って来られるだろう。
厚手の外套に水滴をまとわり付かせながら往く後姿を、マーリカは暫くの間心配そうに見守っていたが、やがてそれも見えなくなると、ようやく宿の中へと戻った。代わり映えはなくとも、それなりに忙しい一日をはじめるために。
俺も作業部屋へと戻り、昨日描いた設計図を見直す。所々は実際に作ってみながら調整をしなくてはいけないが、なんとかなりそうだと考えていると、小さなノック音がした。
その方向へと目を向けると、開いた戸口にナジがいた。まだ眠そうな顔つきで、きょろきょろと室内を見回している。
「おはよう、ナジ」
「おはよう、ジウ。アリーとニューランは?」
「アリーは、俺がおつかいを頼んだから、ちょっと買い出しに行ってもらったんだ。ニューの奴は、まだ寝てると思うぞ」
昨晩、俺が部屋に戻ると、そこには作業の途中で力尽きているニューランの姿があった。
夕食の時間になっても下りてこなかったので、マーリカがまた気を揉んでいたが、俺は再度、心配は要らないと言っておいた。
とりあえず、俺のベッドの上にまで散らかっていたものを適当に片付け、風邪をひかないようにと毛布だけはかけてやったのだが、結局、今の今まで眠り続けて一向に起き出す気配はなかった。無理もない。いくら見た目が若かろうと、中身は爺なのだから。
俺が運んでやった食事はもちろん、荷物に残っていた携帯食料も口にしていたようだから、栄養自体は足りている。とはいえ、物理的な空腹には耐えられるはずがない。放っておいてもそのうち目が覚めるだろうが、ナジの方はそれまで待ちきれないようだった。
ナジは、昨夜できなかったことをやるつもりでいるのだろう。つまり、彼が覚えているというウタをニューランに教えて、ラバーブを弾いてもらうのだ。
「部屋へ行って、起こしてやりな」
俺が促すと、ナジは欠伸を噛み殺しながら「わかった」と頷き、小走りでニューランのもとへ向かった。
窓を開けて、外の空気を吸う。
雨はまだ降り続いていた。久しく嗅ぐことのなかった湿った土の匂いを楽しみながら、俺は村の様子を窺う。
こんな天気だから、今日はとても静かだった。皆、めいめいの家の中でそれぞれの手仕事をしているのだろう。
普段は放牧に行く羊たちも、厩舎――というほど立派なものではないが、風雨をしのげる程度の小屋の中に入れられ、大人しく干草を食んでいる。
山盛りのそれを順番に小屋の中へと放り込んでいるのは、ワリードとハムザの二人だけのようだった。アリーが俺の使いで出かけたから、羊の番をする人手が欠けてしまっているのだ。
「――あ、しまった」
思わず声がでる。
羊は、村の総人口の倍以上。やることは沢山あるはずだ。
必要だったとはいえ、後先考えずに大変なことをしてしまったかもしれない。俺は慌てて、羊小屋にいるワリードとハムザに会いにいった。
何か手伝えることは無いかとたずねてみたものの、しかし出立前にアリーから事情を聞いていたらしい二人は、気を使わなくてもいい、それよりも、ナジの為の義手制作に専念してくれ、と笑いながら言うだけだった。
結局、体よく追い返されてしまった俺は、作業部屋に戻るしかなかった。そのかわり、彼らの期待に応えるべく、制作に専念しようと心に決めた。
その日の午前は、設計図とケマルの義手の構造を入念にチェックするのに集中し、そして、午後からいよいよ仮組みに取り掛かった。
まだ弦は出来ていない、骨組みを揃えるだけだが、形が見えるようになるだけで随分と違ってくるものだ。
ケマルの義手と、自分が描き上げた設計図とを何度も見比べながら、細部を詰めてゆく。
ナジはニューランを叩き起こした後、共にラバーブの練習をしていたが、俺の制作具合も気になるようで、時々この部屋を覗きにやってきた。
そうして来るたびに組みあがってゆくものを見ては、目を輝かせてまだかだまかと急かすものだから、マーリカが邪魔をしてすまないと連れ戻しに来る。
それが頻繁に続いたので、俺は必要な道具と材料を持って、ナジとニューランたちのいる部屋で制作の続きをすることにした。
「ジウさん、ごめんなさいね。集中したいでしょうに」
心底申し訳ないという様子で、マーリカが頭を下げる。
「いえ、お構いなく。こっちの部屋の方が明るいから手元もよく見えますし、それに、俺も二人の練習を見ていたいですから」
いくら理屈だけわかっていても、どんなふうに左手を使って音を出すのか、どんな指使いで弦を押さえるのか、どのくらいの力加減が必要なのか――それを確認しながらでないと、本来の目的を果たせない。
ナジとニューランは、マーリカ達が居住スペースとして使っている大部屋の、居間にあたる場所にいた。
床に敷いた厚手の敷物の上にあぐらをかいて、小型のラバーブを抱えているのはニューランだ。ナジはその横で、自身の記憶の中にあるものを懸命に伝えようとしていた。
「違うよ、もう少し高く!」
「こうかい?」
「その半分! そんで、そこは伸ばしてから下げるの」
「えぇ? 難しいなぁ……」
ナジは身振りを交えて伝えようとするが、受け取る側のニューランも必死だ。
曲は覚えていても、受け継がれてきた楽譜を読めないナジと、理屈はわかっていても同じく読めないニューランとでは、なかなか意思の疎通ができない。
お世辞にも曲とは言いがたいものがしばらくつづき、聞いているだけの俺も、随分と忍耐を試されたものだ。
が、何度も中断しては調整を繰り返すうち、それは徐々に旋律らしい形をとりはじめた。
「ああ、なるほど。この蔦のラインは、こういう調子になるんだな」
昨日ラナーから聞きかじった話と、それまでに自身で集めた知識とを総動員したのもあってか、ニューランの方は楽譜の読み方を習得しつつあった。
天性ともいえる音感と、ラバーブ本体に埋め込まれた天星石の輝きの助けもあり、それは想像していたよりも早いペースで、ナジの記憶から汲み出され、曲としての体裁を整えてゆく。
どうやらケマルが作った義手の外装に描かれていた模様は、ナジが俺に語ってくれた古唄を描いたものだったらしい。流れる旋律と、その強弱の具合から、ニューランはいち早くその関連性を見抜いた。
「伊達に研究者を自称しているわけじゃなかったんだな」
「ジウ、うるさいよ。邪魔しないで」
俺の茶々に、ニューランが唇を尖らす。まだ目の下に多少疲労の色は残るものの、頭の方は冴え渡っているようだ。
「ニューランずるい。ぼくにも教えて」
「はいはい、ちょっと待っててね」
ニューランは一フレーズが出来上がる度、それをノートに書き取り、テレプシコーラにも録音をした。
昨日今日の二日間だけで、彼は高価なカートリッジを一体いくつ消費したのだろうか。しかしニューランににとっては、これは生涯をかけて追い求めてきたものなのだ。今更ここで渋るのは、
ナジはナジで、ニューランが弾く音と記憶が一致しているかを確認しながら、その指運びを少しも見落とすまいと凝視していた。
「懐かしいわね……」
ぶっつづけで聞き取りと稽古を続ける彼らと、そして俺の分の茶も煎れながら、マーリカは呟いた。
いつになく白熱し、活気のある様子を前に、心なしかマーリカの目も潤んでいるように見える。
彼女が今思い描いているのは、どの光景だろう。夫が生きていた頃なのか、それとも自分達がまだ子供の頃なのか。
かといって、それを直接聞くのはいささか野暮な気がして、俺は出された茶に口をつけるだけに留めた。
煎れたての甘い茶は、当然ながら熱かった。吹いて冷ましていると、小さな足音がして、ナジがまた俺の手元を覗きにやって来た。
「ねぇ、ねぇ。どこまで出来た?」
「もう、またこの子は」
お決まりのやりとりに苦笑しつつ、俺はナジに向き直って言った。
「ナジ。お父さんの手、着けて弾いてみるかい?」
「うん!」
ナジは顔をぱっと輝かせて大きく頷いた。
ケマル氏がこれを制作したのは二年程前らしく、現在のナジが左腕に装着させるには、少し器具を緩める必要があった。
義手をつけること自体に不慣れなのと、外したままの外装のせいで、奇怪な異形にしか見えないその姿に、ナジは最初の内は、少し戸惑っていたようだった。
それもあってか、義手はぎこちなく痙攣するばかりだったが、すぐに使い方を思い出したようで、徐々に本来の動作をしはじめた。
下腕だけでなく、上腕の中ほどまで覆う形となっているそれは、細部に埋め込まれた結晶回路を通して筋肉の動きを指先に伝える構造となっている。
手首、手のひら、五本の指の先々までをひとしきり動かしたあと、ナジはいそいそとニューランのもとへと戻った。
教えてもらった姿勢をとり、ラバーブを抱えるようにして座り直す。
――しかし、ナジは思った通りの音を出せなかった。
左手の指使いを意識すれば、弓を持つ右手がおろそかになる。逆に、弓の角度と力加減を気にすれば、今度は左指が動かない。
暫く粘ってはみたものの、ニューランのような張りのある音は出せず、楽器本体に埋め込まれた結晶も光らず、そのうちナジは表情を曇らせ、俯いてしまった。
「最初のうちは、誰だってそういうものだよ」
意気消沈して肩を落とすその頭を、ニューランが優しく撫でる。
「そうとも。心配するな、ナジ」
俺も、作業台として使わせてもらっているテーブルから身を乗り出して、声をかけた。
「この間試してみたけど、俺も全然だめだった。泣くことなんかないぞ」
「な、泣いてなんかないよ!」
「本当かぁ? ほら、鼻が垂れてるぞ?」
「垂れてないってば! ジウのいじわる!」
ナジは目尻に浮ぶものを慌てて袖でぬぐうと、顔を赤くして抗議した。
しかし、この俺の茶化しが功を奏したおかげなのか、暗い表情はどこかへと消え去った。
「大丈夫。焦らずに、じっくり練習すればいいさ」
「うん」
ナジはニューランに諭されて、落ち着きを取り戻す。それから小一時間ほど頑張って練習を続けた末、ようやく一音だけ、かすかに結晶が光るのを確認できるまでになった。
「今日はここまでにしておこうか」
頃合を見計らって、ニューランが練習を打ち切る。
ナジはまだ続けたそうにしていたが、俺がナジの左腕から義手を取り外すと、露になったそこは、装着箇所と接する部分の皮膚が擦れ、赤くなっていた。これ以上続ければ、擦り切れて、血が滲んでしまうところだ。
「また明日から頑張ればいいさ。ゆっくり練習をしていこう。君が腕を痛めてしまっては元も子もないから……ね?」
「うん……」
不承不承といったふうだったが、ひとまずナジは納得したようだった。
皮膚が擦れたのは、体格が変わったせいもあるが、一番の原因としては、ナジがまだ操作に慣れていないという点が挙げられる。指を動かそうと意識しすぎて、無駄に力んでしまっているのだ。
もっとも、これは俺が装着しやすいようにと少し緩めたせいもあるだろう。全体のバランスが崩れれば、その分余計な負荷は必ずどこかに蓄積されてしまうからだ。
さりとて、俺が新しい義手を完成させるまでの間、変わりのものがなければ、ナジはラバーブの練習ができない。
「どうしたものか……」
俺は冷めた茶をすすりながら、諸々を考える。
新しい義手の制作と、古い義手の改良。ナジの腕前も、上達するにはもう少し時間がかかる。
ニューランは勿論まだこの村に長居するつもりでいるし、先を急ぐ理由は、俺にも無い。当分はここに滞在して、それを見守りながら、のんびり過ごしてみるのもいいかもしれない――だが、思惑通りにいかないのが世の常だ。
結局、俺の予定は思いがけない方向から破られ、義手の制作を急かされることとなるのだった。
夕餉の時間が近づき、今日もぽつりぽつりと村人が階下の食堂に集まってきた。いつもより少ないような気がするのは、一日降り続く雨のせいだろう。
マーリカとナジはとうに階下に降りていて、食事の支度に取り掛かっていた。
ニューランはまた部屋に篭っている。今日の成果を、今日のうちにまとめておきたいらしい。
俺も作業を続けていたかったが、いかんせん階下からやってくる匂いが敵だった。集中力を削ぎ落としてくれるものだから、俺は早々に諦め、適当なところで切り上げることにした。
最初に俺に気付いたのは、ハサンだった。食堂へと入った途端、声をかけられる。
「おお、あんたか。この間は世話になったな」
こっちへ来いと手招きをするので、俺は言われるままに歩み寄り、彼の隣に座った。
ハサンは隣人たちと共に、同じ卓を囲んでいた。
「あんたに直してもらったやつ、どれもこれも調子が良いよ。ありがとうな」
「そいつはどうも」
「本当に、あんたが来てくれて助かった。今、皆でそう話してたところなんじゃ」
ハサンの言葉に、同席している者達が頷きあう。あまりに気恥ずかしいので、ハサンが皿に取り分けてくれた豆の煮込みを黙々と口に放り込んでいると、
「あら、ジウさん」
厨房からの声に振り向くと、ニコニコと上機嫌のラナーがそこにいた。マーリカと共に調理をしていたらしい。
「弦、いい具合になってきているわよ。今日は生憎の雨だからあまり乾かなかったけど、予定通り、明日には仕上げが出来ると思うから、もうちょっと待っててちょうだいね」
「弦? 弦がどうかしたんか?」
ハサンが耳ざとく聞きつけ、身を乗り出す。
「実はね」
「ほう! そうじゃったのか!」
「何なに? どうした?」
別に隠し事をしているつもりはなかったのだが、こうして次々と村人の間に伝播してゆくのを目の当たりにすると、段々と気まずくなってくる。
義手の制作と、ナジのラバーブの練習の話は、瞬く間に知れ渡り、そしてこれらの話は、一同に別の期待も抱かせることとなった。
「そうかそうか。なら、師匠の喪明けもなんとかなりそうじゃな」
ハサンが顎鬚を撫でながら目を細める。
「喪明け?」
俺は、思わず聞き返した。そういえば、先日もそんなことを言っていた。
「うむ。普通は、その人が土に還った日から三日の間、まずは身内だけで喪に服す。とはいっても、ここは全員が親族みたいなもんじゃからな。何日かの区切りごとに、皆で集まって法要をするんじゃ。一週間後、四十日後、百日後、という具合にな。そんで、あんたらが来た日がちょうど一週間じゃったんじゃが、いろいろあったから、そのときはわしらで簡単に済ましたんじゃよ」
「はぁ……」
この地方の風習に明るくないせいもあって、要領を得ない返答しかできなかったが、ハサンは気にせず言葉を続けた。
「まぁ、法要自体はありきたりのものじゃ。祈りを捧げ、食事をし、故人の思い出などを語りあったりする。じゃが、わしらには、もうひとつ、やることがある」
「それは一体」
「古唄だね」
突然割り込んできた声に、一同が振り向く。
ニューランだ。
一仕事を終えて疲れたのか、盛大な欠伸をしながら俺の隣に座った。そして、さも当然のように、俺の皿を自分の方へと手繰り寄せる。
「古い時代から受け継いだ、この村にだけある儀式だよ。演奏者は楽器を演奏しながら唄って、亡くなった祖霊と一体となる……とでも言えばいいのかな?」
「……つまり、シャーマン的な役割を担っているってことか?」
「まぁ、平たく言うとそうなるね。ここの村の住人は、旧き時代の大崩壊を生き延びて、世界へ散った人々の祖に近いんだ。言葉は時代と共に変化するけど、そこに込められたものは変わらない。それを、
そうやって喋りながらも、ニューランはひょいひょいと軽快に豆を口へ運び続ける。その食べっぷりに、俺は呆れるのも通り越して感心した。
「それでお前、どうしてもこの村に行きたいって言ってたのか」
「そういうこと」
「あんた、よぉ知っとるなぁ」
ハサンが驚いたようにまじまじとニューランを見つめると、ニューランは匙をくわえたまま、得意げに胸を張ってみせた。
「そうは言っても、今ではそのことを知っておるのはわしらの世代くらいまでじゃからなぁ」
口を挟んだのは、ハサンの隣人で、彼の幼馴染のナーセルだ。
「こんな時代じゃから、若い者らは生きるのに必死じゃし、それに、わしらも忘れてしまったことも多い。ケマルの百日目のときはまだカリムがおったから良かったが、当のカリムが死んでしまってはなぁ……」
「そうさなぁ。アーダムは、あんなことになってしもうたし……」
小さな溜息につられたのか、同席している者達は一様に同じ思いを抱いたようだった。
いつもは陽気な
ニューランと出会わなければ、俺はこの村のことは何も知らないままだったろう。旅の途中に立ち寄ったとしても、古唄の存在も、全く触れることなく通り過ぎていたに違いない。
ふと、俺は一昨日の夜にマーリカが呟いた一言を思い出す。
古唄の唄い手であったカリムは死に、後継者アーダムもその手段を失ってしまった。マーリカが言うように、このまま何もかもが消えてしまうのか――?
「大丈夫だよ」
沈黙を破ったのはニューランだった。
どういう根拠でその言葉が出るのかと思うよりも先に、ニューランは空になった皿に匙を置き、続けた。
「そういえばさ、カリムさんが亡くなったのって、僕らが来る一週間くらい前だったんでしょう? じゃぁ、次の四十日目の法要って、もうすぐじゃない?」
「おお、そうじゃ、そうじゃった。確か、ええと……?」
指折り数えはじめるハサンに、ラナーが答える。
「
「そうか。じゃったら、尚更だの。そろそろ支度を考えんといかん」
老人達が頷きあう。
「犠牲祭?」
「お祭りだよ」
俺の疑問に答えたのはニューランだ。
「皆で羊を食べるんだ。で、もちろん、やっぱりここでも古唄が披露される……だよね?」
「うむ」
ハサンが深く頷いた。
「でも、古唄は? 唄い手は……」
もう誰もいないはず、と言いかけて、俺ははたと気付いた。
「まさか」
「ナジ」
俺の言葉を無視するように、ニューランはいつものように皆にパンを配っていたナジを呼んだ。
皆の視線が一斉に注がれたせいか、ナジは驚いたようにその場で立ち尽くす。
「お父さんの法要のときのウタ、覚えてる?」
「うん……一応だけど……」
ニューランの質問に、ナジはおずおずと自信なさげに答える。しかし、ニューランたちにはそれで十分だった。
「よし、じゃぁ決まりだ」
「何がだよ」
俺は慌てて突っ込みを入れる。
しかし、ニューランは聞いてない。否、端から聞く気がないのがニューランだ。
「次の法要までの間に、ジウが新しい義手を作る。ナジは、僕に記憶しているウタを教える。で、僕がナジに弾き方を教えて、練習させる。バッチリじゃないか」
何がバッチリなんだコノヤロウ。お前はついさっきまで「ゆっくり時間をかけて練習しよう」と言っていたではないか。
それに、義手を完成制作させるのに何日かかるのか、ナジがそれを使いこなすまでにどれだけ日数が必要になるのか。アリーに買出しを頼んだ件もまだ試せていないのにと、必死になって考えをめぐらすが、もはや誰も俺の都合など気にしていない。
おまけに、ニューランが俺の肩を叩きながら、「大丈夫、大丈夫。ジウならできるよ」などとお気楽なことを言うものだから、村人の期待も否が応にも高まってゆく。
「心配せんでええ。少しくらいなら、わしらも覚えとることもある」
「そうじゃそうじゃ、皆で一緒に練習したらええ」
「あら素敵。だったら、私もまぜてもらえるかしら?」
「もちろんじゃ。ラナーはカリムのウタをいつも聞いておったんじゃからな」
勝手に盛り上がって騒ぎだす老人たちに、厨房のマーリカが何事かと顔を覗かせたときだった。
パンの籠を抱えたまま俯いていたナジが、口を開いた。
「ぼく、やるよ」
再び皆の視線を受けたナジは、しかし今度は怯まなかった。
「ナジ」
慌てる俺に、しかしナジは真っ直ぐ俺を見返しながら、言った。
「大丈夫だよ。きっとうまくできる……よくわからないけど、そんな気がするんだ。だから、ジウ。ぼくの新しい手、よろしくね」
幼い少年から、迷いのない目でそんなふうに言われてしまっては、もう逃げ道はない。
「で……、出来る限りの努力はする……」
俺は声を搾り出して、そう答えるのが精一杯だった。
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