フェイス

宇治田紅葉

就職後3年目 - 11月

 東西線日本橋駅の地下深いホームへの階段を下りきると同時に、西船橋行きの各駅停車が静止し、ドアが開いた。並んでいた人々に続いて電車に乗った。発車メロディが車内にまで響き、開閉音とともにゆっくりと扉が閉じられた。

 動き出す車体の振動を、遠い意識で感じた。今日は会社で致命的なミスをして、上司から散々に叱責されたというのに、それも上の空でしか捉えられなかった。今日一日が、僕とは関係ないところで滑っていくように思われた。

 住まいの最寄り駅までの十五分間、いつもなら何とはなしにスマートフォンに指を滑らせ益のない情報に脳を浸すところ、今日はそれに触ることすら……頭にその存在を思い浮かべるだけで嘔吐感、動悸、冷や汗が襲ってきた。それは、僕の今日のこの現実感のなさが、まさに朝の通勤電車の中でそこに届いたメールによりもたらされたからだった。その瞬間は、それを粉々にしたい衝動に駆られ、そして強く涙腺を衝かれ反射的に目を押さえた。今日、絶対に遅刻や欠勤が許されない仕事が入っていなければ、きっとそのまま上司に休むとの電話を入れ、家に引き返していたに違いない。そして、今日の僕の失態からすると、むしろそうしておくべきだったのかもしれない。

 早く家に帰りたかった。早く、自分の中に溜まりすぎたあらゆるものを、すべて吐き出してしまいたかった。そうでなければ、この電車の中で何か不快を感じた瞬間に、その原因となった人や物を壊してしまうかもしれないくらい、精神が歪んでいた。

 東京に来てから、電車が臭いものだと知った。たかが二、三分の差で、ここまで腹立たしくなれるものだと知った。日々の人身事故に何の感情も抱かなくなれるものだと知った。それらは、本当は僕の人生で知る必要のないことだったのかもしれないが、今更遅いのだった。

 南砂町駅を過ぎて、電車が地上に顔を出し、灯りの少ない夜景が車窓を占めた。広大すぎる荒川の向こうはひたすら暗がりが続いており、その隣で小さくなったスカイツリーがちゃちなライトをぐるぐる回していた。足から伝わる鉄橋の振動が、僕の脳に少し遅れて伝わってきた。

 荒川から東側に入ると、何とも没個性な風景が車外に展開されていく。しばらくして到着した西葛西駅で、他の人の流れに無意識に従ってしまいそうになり、扉が閉まる寸前で我に返って慌てて飛び乗った。葛西駅の直前で電車が大きく揺れ、隣の女性がよろけてぶつかってきた。彼女は一瞬僕の目を見たが、すぐに顔を背け、同時に奥の男性——おそらく彼氏——が、その手首を掴み元のポジションに引き戻した。

 大丈夫?

 彼の優しげな囁きに、僕への謝罪もなく、僕など存在しないかのように、彼女はその全存在を恋人へと向けた。頭に血が上った。今僕の肩を締め付けている重い鞄で、その後頭部を殴打してやりたい衝動が脳を貫いたが、ちょうど葛西駅に到着したこともあり、思いとどまることに成功した。

 ドアが開くと同時に、大量の人がホームへと流出した。にもかかわらず、僕が電車を降りた直後、黒のウインドブレーカーと黒のキャップを身につけた汚らしい身なりの男が、まるで自分だけがここにいるかのような速度で人垣の間をすり抜け、下り階段の前で僕の肩に強く接触し、人だかりの先頭で階段を駆け下りていった。この世に刑罰が存在しなければ、そいつを後ろから蹴り落としてやりたいところだった。

 鞄からPASMOを取り出し読取機にかざす動作を機械的に行い改札を出ると、11月の肌寒さが際立った。駅から放出されたたくさんの人々は、いずれも実に滑らかな足取りで各々の帰路を急いでいた。住処まで歩いて十五分以上かかることの負担が脳裏をよぎり、終バスも既にない十一時半、自然とタクシー乗り場に足が向きかけたものの、その方向に僕と同じ思考だろう長蛇の列を認めて嫌気が差し、大人しくひたすら環七沿いを南下することにした。

 このあまりに長大で殺伐とした道程を、均等に並べられた街灯の下多くの人々が黙々と進んでいる光景は、現代における巡礼のようにも思える——Wikipediaを通じてしか巡礼を知らない人間が、そのような感想を抱くべきではないかもしれないが。東西方向を貫く巨大な道路との交差点、その南東の角のコンビニの前では、茶髪の女が粘ついた声色で楽しそうに電話をしていた。一瞬風が強く吹き、街灯と並べて配置された街路樹の葉を鳴らした。空には雲が少なく、半分くらいの月の白い輝きが際立っていた。帰り着くまでに、五台ほどの自転車が、いずれも歩行者への配慮を感じさせない速さで僕を追い抜いていった。

 自分の部屋へと帰り着き、乱暴に鍵を開け中に入ると、急激な疲労が全身を捉え、抗えずベッドへと倒れ込んだ。常習的に胸ポケットからスマートフォンを取り出したところで、電車に乗り込んだあの時の心持ち、最初にメールに目が触れた時の心持ちが一気に甦り、肌に触れているシーツが温かい液体で濡れ、自らの声にならない叫びが朦朧とした頭に響いた。


 おはよう!!たまです!!*^_^*

 元気してますか??

 東京で身体壊してないか、ちょっと心配>_<


 私、けいちゃんと結婚します!!

 一番大事な友達のともくんに真っ先に知らせたくて、

 朝早くメールしちゃいました(笑)

 後で結婚式の招待状送るから、絶対!!出席してね!!!*^_^*

 

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フェイス 宇治田紅葉 @koyo_ujita

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