第4話

 翌日の昼過ぎ、痩せた若い男がひとり、診療所を訪ねてきた。見るからに足取りがおぼつかなかったその青年は、医師に症状を聞かれると、ぼそぼそと消え入りそうな声で、体の不調を訴えはじめた。

 頭が重く、胸が苦しいのだというようなことを、青年はくぐもった声で繰り返したのだが、その声はどうにも投げやりな調子で、医師に助けを求めているというよりも、どこか空中に言葉を投げつけているかのような響きがあった。

 その日、医師は患者の話を聞くだけ聞いて、何の薬も処方しなかった。ただ青年の脈を取って、喉の奥をのぞき込んだほかには、いくつかの質問をしただけだった。青年の帰り際、医師は相手に向かって、呪いが通り過ぎるまで、ただ耐えるしかないというようなことを言った。

 だが患者はどういうわけだか、そんな言葉でも、最後にはいくらか気が軽くなったような顔をして、大人しく帰って行った。

 青年が出て行っていっとき経ってから、とうとう我慢できなくなって、私は医師に話しかけた。

 ――さっきの男は、あれでよかったのか。

 私の声には、非難の色が混じっていただろうか。医師はじっと私の目を見つめ返して、

 ――治る気のない者を、治せるわざは、どこにもない。

 はっきりと、そう言った。

 ――そういうものか。

 ――そういうものだ。

 納得がいかないまま首をかしげた私に、医師は浅くうなずいた。それから椅子に掛けると、窓の外をぼんやりと見上げて、

 ――そういうものなのだ。

 もう一度、静かにくりかえした。



 その晩、恐ろしげなうなり声がして、私は夜更けに飛び起きた。

 声は、どうやら壁越しに聞こえてきたようだった。こんな小さな町で、押し入り強盗でもあるまいがと思いながら、医師の眠る寝室に向かった。足を踏み入れると、妙なもので、診療のために使っている部屋よりも、ここのほうがいっそう薬のにおいが鼻についた。

 寝台で小さく丸まっている背中を、何度か叩いてみても、医師はなかなか目覚めなかった。何度も激しく肩を揺さぶって、耳元で大声を出して呼びかけると、ようやく彼は目を開いた。

 触れた背中は、汗でぐっしょりと濡れていた。細い月明かりが窓の隙間からさすばかりの、薄暗い部屋の中で、彼が激しく瞬きをするたびに、白目の部分だけが爛々と光った。

 ――ずいぶんひどくうなされていた。悪い夢でも見たのか。

 ほかにどう声のかけようもなく、そう訊ねると、医師はしばらく呆然と瞬きを繰り返していたが、

 ――夢? ああ、そうだ。夢だ。

 まるで自分に言い聞かせるかのような口調で、そう言った。

 ――悪い夢は、人に話せば、逆しまになるというが。

 私がためらいがちに水を向けると、医師はいっとき黙っていたが、やがて、まだ半ば悪夢のなかにいるかのような声音で、

 ――酒を、飲んでいたのだ。

 そう囁いた。

 飲めないのではなかったのかと、よほど言いそうになったのだが、ささやかな嘘をあげつらうかのようで気がひけて、私はとっさに言葉をすり替えた。

 ――夢の中で?

 ――そう。夢の中で。

 夢の中で、さらに眠っているなど、おかしな話だろうと医師は言って、それから低い声で続けた。酒を飲んで、ひっくりかえって、呑気に鼾なぞ掻いていたのだと。たしかに眠ってはいるのだが、なぜだか意識はあって、自分の鼾を聞いている。

 ――すぐ近くで、獣のうなり声がした。それで、夢の中で、飛び起きたのだ。そうしたら、妻が……

 ――奥さん? あんた、奥さんがいたのか。

 ――ああ、そうだ……

 そこでふっと口をつぐんで、医師は何度か目をしばたいた。その瞼を、汗がつっと伝うのが見えた。

 医師は悪夢を振り飛ばそうとするように、何度も首を振って、

 ――どうやら、寝ぼけていたようだ。起こして済まなかった。

 それだけを言うと、また背中を丸めて、毛布にくるまってしまった。

 話の途中で取り残された私は、不安の切れ端に首根っこを掴まれたような気分のまま、しばらくそこに突っ立っていた。だが、わざわざ医師をふたたび叩き起こして続きを話させるというわけにもいかず、結局はおとなしく客間に戻って、自分も寝直そうとした。

 だが結局は寝付かれず、寝台の中で寝返りを繰り返しながら、ひと晩を明かすことになった。



 ものの腐りやすい湿地帯だからか、この町で出される食べ物には、保存のきくよう、手を加えられたものが多かった。砂漠地帯から交易で手に入れるらしい塩は、このあたりでは高価なもので、そのためか塩漬けよりも、醸して食べるもののほうが多かった。これには非常に閉口した。とにかくにおいがきついのだ。慣れれば味わい深いと思えないこともなかったが、とにかく初めのうちは何を食べても妙な味しかしないので、腐っているとしか思えず、いつ自分が腹を下すかと、戦々恐々としていた。

 その夜も酒場で、酸っぱいような匂いのする山草の漬け物をつついていた。珍しく客の少ない夜だった。いつもだったら常連客らしい近所の面々が、誰かしら顔を出して騒がしくしているのに、この日にはどういうわけだか、なかなか人がやって来ない。あてが外れはしたものの、小銭も残っていないというわけでもなかったから、値の張らない料理を少しばかり頼んで、酒場の主人相手に話をしていた。

 相手が猟師でもあることだから、遠い異国の、珍しい猟のやりかたなどを話せば喜ばれるだろうと思って、中央の草原地帯で、巨大な犀を狩る部族の話だの、北部の深い針葉樹の森で、四ツ脚鳥を生け捕りにして飼い慣らす連中の話だのを、いっとき脈絡もなく語っていたのだが、ふと話題の途切れた拍子に店主は、

 ――この頃、奴の様子はどうだ。

 そんなふうに話を切り出してきた。奴というのが医師のことを指しているというのは、聞かずともわかったが、それにしても、意図の汲めない質問だった。

 ――どうだとは、やけに漠然とした訊ねごとだな。

 そんなふうに私が混ぜっ返すと、店主は曖昧に首を振って、

 ――何もないのなら、それでいいんだ。

 そんなふうにごまかした。

 私は言葉に迷った。何も変わったことはないと言えば嘘になってしまうのかもしれないが、医師のおかしな夢歩きやうなされていた夜のことを、勝手に話してよいものか、とっさに判断をつけかねたのは、彼が異国の人間だということを、どうしても思い出してしまうからだった。

 長くこの町に住んで、人々に尊敬されているのだとしても、彼は異邦人だ。遠い土地で生まれ育った人間に対して人々が見せる、心の深いところでの拒絶というものを、けして軽く見てはならない。自分が放浪の身の上だからこそ、そのことは身に染みてわかっているつもりだった。不用意な私の言葉のせいで、医師が孤立することにでもなれば、恩を仇で返すことになる。

 私のためらいをどう受け取ったのか、店主は気まずげに首を掻いて、言い訳をしてきた。

 ――いや、誰か家族が傍にいるのなら安心なのだが。いまはそら、あいつも独りだろう。

 その言葉がひっかかったのは、寝ぼけた医師の言葉が、まだ記憶に新しかったからだ。

 ――いまはということは、以前は違っていたのか。

 何気ないふうを装ってそう聞き返すと、店主はああとかまあとか、あいまいに相づちを打って、気まずげに鼻を掻いた。

 最初のうちこそ歯切れ悪く、どこまで話したものかと迷っていたようすだったが、酒が入っていることもあってか、やがて店主は、こちらが訊いてもいないことまで話し出した。

 かつて医師の妻だったという女は、ずいぶん前に一悶着あって、あの家を出て行ってしまったのだという。女の父親、医師にとっては義父にあたる人物も、あの診療所で一緒に暮らしていたのだが、そちらはもっと前に亡くなっている。夫婦の間に子はなかったから、医師は以来、長いことひとりであの家に暮らしているのだそうだ。

 もともとは流れ者だった医師を、その義父という人物が気に入って、入り婿のような形で迎えたということらしい。このあたりでは一般的に、夫は生家に暮らしたままで妻の家に通うことが多いから、珍しい形には違いなかった。ほかの地方から流れてきた医師に、住む家がなかったからこそのことだろう。

 その話を聞いて、私は医師のことを気の毒に思った。彼の出身である砂漠地方では、女のほうが男のもとに嫁ぐのだし、妻は厳しく貞節を求められ、夫に従順に尽くすことを望まれる。そういう土地で生まれ育った男が、入り婿として、義父や妻に頭の上がらない状況で暮らすというのは、何かと気苦労の多いことだっただろう。

 私の同情になど気づかない様子で、店主は遠い目をして、

 ――ずいぶん、いい女だった。アダーシャに気のある男は、山ほどいたが……

 そこまで言って、不意に、言葉を詰まらせた。それから何かをごまかすように、咳払いをした。

 もしかするとこの男自身も、医師の妻に気があったのかもしれないなと、そんなことを思いながら、私は口を挟みそびれて、おかしな味の漬け物をかじった。

 どうにも話の弾まない、陰気な夜だった。いつも酔っ払いたちが騒々しく騒いでいるのと同じ店内なだけに、籠もったような沈黙が気まずく、落ち着かない。

 いっとき黙って酒をなめていた店主は、手元をのぞき込んだまま、コップに話しかけでもするかのように、ぼそりと呟いた。

 ――あいつは、いいエトゥキになったな。

 その口調に何か含みを感じて、私は眉を上げた。

 ――昔は、違った?

 ――そうだな。来たばかりのときは……

 言いよどんで、店主は頭を掻きながら、カウンターの奥に引っ込んだ。それから新しいコップをふたつ持ってきて、自分と私の前に置くと、酒を注いだ。さっきまで彼が舐めていた、いつもの安酒とは違う、果物から作るという赤い酒だった。自分用にとっておいたのだろう。

 ――いや、最初から、腕はよかったんだ。人間だって、悪くはなかった。あれで、酒癖さえ悪くなけりゃ……

 その言葉は意外なものではあったが、同時に、腑に落ちるような気もした。酒の失敗で問題を起こして、それから飲まなくなったのだとすれば、先日からのつじつまのあわない医師の言動も、納得がいく。出て行った彼の妻というのも、何か、そのあたりに事情があるのだろう。

 店主は瓶を傾けながら、やはりコップの底に言葉を落とし込むかのように、呟いた。

 ――ずっと、居てくれりゃいいんだが。

 その言葉が意外で、私は眉を上げた。医師は彼の貧しい患者たちに責任を感じているように、私の目には見えていた。

 ――彼は、この町を出て行くつもりなのか。

 ――いや……

 あいまいに否定して、店主は目を逸らした。何かを言いかけて迷うような間があって、しかし結局は、酒と一緒に言葉を飲みくだしてしまう。コップが空になるころになって、店主は大きな溜め息を落とし、

 ――今日はだめだな、誰も来やしねえ。まだ早いが、店じまいさせてもらう。

 そう言うなり、さっさと立ち上がって、酒瓶と食器を片付け始めた。私が面食らいながらも、ともかく料理と酒の代金を置こうとすると、店主は首を振って、

 ――今日はいい。話の代金だ。

 たいした話もしていないのに、そんなことを言った。そして有無を言わさず、私を追い出した。



 あれはいったい、何に対する代金だったのか。そんなことをぼんやりと考えながら、診療所への道を戻った。今夜、話したことの内容を、医師には伝えてくれるなと言う意味だろうか。

 秘密。それが私がこの土地に対して漠然と抱いた印象だった。誰もがいつも、何かの言葉を飲み込んでいる。

 もちろんこの町に限らずとも、人は隠し事をする生き物だが、それがとりわけ鼻につくように感じるのは、夜ごとに町を覆う、この霧のためだろうか。

 まだ夜も早かったが、すでに靄は街路の向こうから、町を押しつつむようにひろがりはじめていた。東の空を振り返れば、満月から少し欠けた月が、朦にかすんで燐光を放っている。

 不意に風が吹いて、霞が渦巻く。この重く湿った夜気のせいで、食べ物には黴が生え、品物は腐り、人の怪我はぐずぐずといつまでも治らない。

 この夜霧が、人の心に抱える秘密をあいまいに包み隠してしまうのではないかという、さっきの益体もない思いつきが、いつまでも去らずに思考の隅をぐるぐると回っている。

 自分の足取りが、わけもなく重いことには気がついていた。店主から聞いた話の断片が、胸の中で浮いたり沈んだりを繰り返していた。

 とりとめのない考えが、頭の隅にひらめいてはかき消え、やがてひとつの疑問が残った。

 美しかったという医師の妻は、どこに行ったのだろう?


 診療所に戻ったとき、医師はどこかぼんやりとした表情で、窓の外を見ていた。話しかければ返事はするのだが、どこかしら反応が鈍いというか、心ここにあらずという風情で、あいまいな相槌ばかりが返ってくる。

 そこで、何か悩み事でもあるのかと、訊けばよかったのだ。そうしなかったのは、酒場の店主との会話が、胸のどこかに引っかかっていたからだ。

 もっと言えば、私は怖かったのだ。いずれ遠からず立ち去る、無責任な旅人の身でありながら、土地の人間の事情に深入りすることへの、引け目もあった。それは私の臆病さでもあり、保身でもあった。

 その臆病さが、私にとっての分かれ道になった。

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