死者の沼

朝陽遥

第1話

 広大な砂漠地帯を北に抜けて、街道沿いに半月ばかりも歩けば、それまでの荒涼たる風景とは打って変わって、緑あふれる湖沼地帯が姿をあらわす。

 大陸南岸に広がる灼熱の海からはいささか距離があるのだが、それにもかかわらず彼の地が豊かな水に恵まれているのは、雲の生まれるところオブラク・ノイ・ロジエナと呼ばれる山嶺さんれいを、北に臨んでいるためだ。

 山肌にぶつかる風から絶え間なく吹き散らされても、雲は尽きることなど知らぬげに湧きいでて、湖沼地帯へと雨をもたらす。砂漠を通ってこの地域にたどり着いた旅人ははじめ、その豊富な水量に圧倒され、惜しげもなく水を使うことのできるこの地方を、何と恵まれた土地かと思うものだ。だがそんな感動も最初のうちだけのことで、長く留まれば、いずれは水が多すぎるがゆえの苦労を、いやでも骨身に染みて理解することになる。

 風はのぼせ上がるような湿り気をはらんで重く、人や獣の息をふさぐように押し包む。ものが腐りやすく、すぐに虫が湧く。そのせいでひとたび怪我をすれば治りは遅く、傷が腐って手足を落とすものも少なくない。

 虫や草花にはやたらに毒のあるものが多く、散在する湖沼の中には、水そのものが毒気を帯びている場所さえある。水気の多い土はやわらかく、すぐに崩れ、住処を構えるのに向く土地は、広大なこの一帯のうちでも、ほんの片隅の一部にすぎない。

 だが、そうした人の世の都合をひとまず脇に置き、ただ無心に眺めるならば、湿地帯の景観は美しい。

 湖畔に広がる葦原が風に波打ち、水上には淡い色合いをした花々が咲き乱れ、水鳥たちが優美に首を曲げている。その隙間からのぞく水面には、高く澄んだ空が映り込んで、立ち止まってふと見入れば、天地の境が不確かに思えてくる。

 その美しい湿地帯の中ほどに、死んだ者と言葉を交わすことのできるという沼がある。

 死者のゆく先についての人々の言い伝えは、地方によってさまざまだ。天高く上った先にある星々の世界だという土地もあれば、地の底深くの暗闇の国だと言い伝える部族もある。海のはるか向こうだとか、あの山を越えた先だとか、ところによってまるで違った話が出てくるものだが、それでもたいていの場合、人の足ではとうていたどり着くことのできないはるか彼方の場所を、死者の安息の地と捉える向きがあるようだ。

 それがこの湖沼地帯の人々にかぎっては、死者の声を聞きたいのならば、あの湿原にあるどこそこの沼へゆけと、指さして言う。初めて聞いたときには、ずいぶんと手近な冥界への入り口もあったものだと、いささか呆れたものだ。

 その話を真に受けたというわけでもなかったが、私は死者の沼を、訪ねてみることにした。ひとつには、変わった風物のことを耳に挟めばこの目で確かめてみたくなる、持ち前の好奇心のためでもあったし、何より本当に死者と言葉を交わすことができるのならば、私には、話をしたい相手がいた。



 見知らぬ土地で人里離れた場所を歩き回ろうとするのならば、案内人は欠かせない。死者の沼にいたるその道は、最寄りの町からたいした距離があるわけではなかったが、なにせ湿地のまっただ中のことで、大小様々の池や沼の隙間を縫うようにして歩かねばならなかった。街道を旅するときのような、わかりやすい道標があるわけでもない。

 それで私は現地の男に、道案内を頼むことにした。このあたりの人々が皆そうであるように、くせのある黒い髪と、がっしりとした小柄な体躯を持つ、中年の男だった。人好きのする笑顔を浮かべてよく喋り、十歩ごとに冗談を飛ばしてこちらをからかってくる。

 町を出てたいして歩きもしないうちから、道はすぐに、歩くのにも苦労するような泥濘(ぬかるみ)になった。ところどころに地を低く這うような灌木や草が繁り、その張り巡らされた根の上を踏んで歩けば、ともかく泥に沈まずにはすんだが、その代わりに何度も足を取られてつまずいた。

 湖沼地帯の天候は変わりやすい。その日も町を出たときには晴れ間がのぞいていたというのに、歩くうちに細かな雨が降り始め、気がつけば空の低いところを一面に覆うように、重苦しい雲が垂れ込めていた。ただでさえ悪い足場がますます滑り、視界はおぼろげに霞んで、油断すれば連れの背中も見失いそうだった。もっとも、これくらいの雨は雨のうちにも入らないと、案内人は笑ってみせたのだったが。

 かそけき雨の音が地面を打つのに混じって、水辺で何かが跳ねる音や、鳥たちの羽をふるって水気を切る音が、どこか一枚布を越しているかのように、遠く響いていた。

 足元の悪さについては噂に聞いていたので、蝋引きをした靴をしつらえていたのだが、その程度では気休めにもならず、歩くごとに生ぬるい泥水が、容赦なく足指のあいだまで染みいってくる。比べて案内人の足元はといえば、ほとんど素足と大差ないような頼りない草鞋で、しかしそのほうがかえって手間が少ないのかもしれなかった。

 いっそ彼に習って、私も裸足になろうかとも考えたのだが、湿地にはしばしば蛇や毒のある虫がいると聞かされていたので、踏ん切りがつかなかった。とはいえ湿地帯に入ってからのこの半月ばかりで、すでに手だの首だの何度となく虫に食われていて、いまさら足元だけを庇ったところで、どれほどの意味があるかは疑わしかったのだが。

 さして歩かぬうちに、案内人は唐突に足を止めて、犬かなにかのようにぶるぶると雨粒を振り飛ばすと、前方を指さした。

 ――着いたぞ。

 目の前に広がる光景を見て、正直なところ、私は拍子抜けした。死者の沼というくらいだから、よほどおどろおどろしい光景が広がっているのかと思いきや、そこは緑あふれる水辺だった。

 深い緑色をした水面を、奇妙な形をした浮き草が覆っている。そのせいで、どこまでが岸でどこからが水上なのか見ただけでは判りづらいが、沼と呼ぶか池と呼ぶか、ちょうど迷うくらいの水量だった。浮き草はところどころに白い花を咲かせ、そのせいか、かすかに甘いような匂いがする。向こう側の岸辺には青みがかった大きな鳥が、彫像のように佇んでいた。

 ――美しいものだな。

 思わず呟いて、引き寄せられるように沼に近づいたとたん、足を滑らせた。

 泥に、靴底がのめりこんだと思うが早いか、私は体勢を崩して尻をついた。見れば地面だと思っていた場所は、浮き草のみっしりと繁茂する、沼の縁だった。

 それでも跳ね上げた泥で顔を汚したそのときには、まだ驚きと、幼い子供のようにすっ転んだことへの気恥ずかしさのほうが、焦りよりも勝っていたのだ。だが立ち上がろうとして体重を掛けた足が、思いがけず深くまで沈みこんだ。

 ――落ち着け。むやみにもがいてはならない。

 案内人の鋭い声音に、慌てて動きを止めた。じっとしているあいだにも、少しずつ体が沈み込んでいくような気がする。いや、それは錯覚ではなかった。左足は臑から下が、すっかり泥に埋もれている。それを引き上げようとして、右足に力を込めようとすると、反動でかえって体が沈む。

 ――そこの草を、つかむんだ。そう、葉の丸いほうではなく、蔓の絡み合っているほう、そう、それだ。

 言いながら、案内人は足場を確かめて、慎重に近づいてきた。ようようその手に引き上げられながら、振り返ってぞっとした。沼は何食わぬ顔で元通りに静まりかえっていた。

 ――もう大丈夫だな。その蔓を覚えて、目印にするといい。それがあるところは、だいたい地面だから。

 そう言って、案内人が手を離したときには、私はすっかり泥まみれだった。案内人もまた、私のはね飛ばした泥に頬を汚して、けれど気を悪くしたようすもなく、朗らかに笑って見せた。

 ――済んだら、呼んでくれ。向こうにいるから。

 案内人は手振りで方向を示すと、背を向けて、さっさと歩いて行った。

 それは前もって決めておいた手はずだった。死者との対話を果たすためには、ひとりきりでなければならないのだという。

 姿が見えなくなる直前、思い出したように、声が追いかけてきた。

 ――このあたりの泥は、深い。足元にはくれぐれも、気をつけろ。

 わかった、と答えながら、自分の声が霧雨に吸い取られていくような錯覚を覚えて、私はひとつ、身震いをした。



 連れの姿がすっかり見えなくなると、私はようやく踏ん切りをつけて、沼のほうに向き直った。今度こそ慎重に足元をさぐって、蔓の絡まり合っているところを踏みしめる。それから、そっと、弟の名を呼んだ。

 早くに死なせた弟のことを、私は長年、悔やみつづけていた。死者に向かって詫びたところで、何もかもが今さらにすぎることはわかっていたのだが、一言でも言葉を聞くことができれば、あるいは面と向かって詫びることが出来るならば、自分の中で、何かしらの踏ん切りがつけられるのではないかと思ったのだ。

 己の声がかすかに反響するような気配がしたが、返事らしい声は聞こえない。耳を澄ませていっとき待ったが、遠くで鳥が寂しげに鳴いているばかりだった。

 やはり冥界に繋がる沼などというのは、ただの迷信だったのだろうか。あるいは、弟の魂の眠る故郷とこの沼が、あまりに離れすぎていて、私の声が届かないのか。

 いや――かすかに、何か音がする。そう思って水面に目を凝らした。魚影は見えなかったが、その代わりに、沼の表面でぶくぶくと泡のはじけるのが見えた。

 藻に覆われてしかとは見通せない水面の下に、何か大きな生きものが潜んでいるのかとはじめは思った。だが、じっと息を詰めて見ていると、どうやらそういうことではないようだった。それにしては泡の出る位置は動かなさすぎたし、その間隔は一定にすぎた。ここではなくもっと東の火山地帯で聞いた話だが、水底の泥から、空気が湧き出しつづける場所があるという。何かそういうものと同類の、生きたものの仕業ではないことがらのように思われた。

 こうした物音や、あるいは鳥の声か何かを、死者の声と聞き違えた人々がいたのかもしれない。それが噂話として交わされるうちに、誇張されて伝承となったのではないか。そんなふうに推測してはみたものの、なかなかふっきることができず、迷い迷い、今度は少し声を張り上げて、もう一度弟の名を呼んだ。

 ふいに風が吹き付けて、雲が大きく流される。いつの間にか雨は止んでいたが、その代わりのように、風によって吹き倒される葦が、雨のような音を立てた。

 返事はついに、帰ってこなかった。



 ――死者の声は、聞けたのか。

 合図に答えて戻ってきた案内人は、さっきまでの陽気さをどこかに置き忘れてきたような神妙な表情で、そう訊ねてきた。

 ――いいや。残念ながら。

 私が首を振ると、男はわずかに目を細めて、

 ――そうか。そりゃあよかった。

 そんなことを言った。目的を果たせなかった相手に向かってかける言葉としては、それはおかしなものだったが、男の表情に皮肉の色はなく、むしろ声の調子には、どこかほっとしたような響きさえあった。

 ――よかった、のだろうか。

 私はほとんど独り言のように呟いた。返事を期待したわけでもなかったのだが、案内人は小さく肩を揺すって、真面目な顔でうなずいた。

 ――そう思うよ。

 道中はうるさいほどよく喋った男が、このときだけは言葉少なにそう言ったきり、黙りこんだ。

 もとより死者の声を聞けると、頭から信じていたわけでもなかった。そう考えて自分を慰める一方で、同じ頭の反対の隅では、何が足りなかったのだろう、何の条件が揃っていれば成功したのだろうと、そんなことばかり考えていた。

 黙りこんでいたのはほんのいっときのことで、いくらも歩かないうちに案内人はもとの饒舌を取り戻したのだが、私は彼の軽口を、途中からほとんど聞いていなかった。物思いにふけっていたせいではない。しだいに意識が朦朧としてきたのだ。

 霧の中の、単調な道行きのせいだろう、あるいは雨に打たれたのが悪かったのかもしれないと、霞む思考の中で、そんなことを考えた。疲労でぼうっとしているのだと。

 これは異常だと気がついたのは、帰路も半ば以上を過ぎてからだった。小川を渡り終えて、体勢を崩しかけ、近くに生えていた低木の枝を掴んだ瞬間、急激に息が苦しくなった。

 間髪入れず、強烈な悪寒に苛まれた。視界が揺れて、足がふらつく。震えるほど寒いのにも関わらず、肺腑のあたりだけが、異様に熱い。連れに助けを求めようとした声が、その熱に灼かれて掠れた。

 そのせいで案内人はひとりで喋りながら、ずいぶん先に進んで、それからようやく私がついてきていないことに気がついたようだった。彼が振り返り、驚いて引き返してくる気配を遠くに感じながら、私は冷たい泥のなかに倒れ込んだ。

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