目を逸らさないで 手を離さないで

ひせみ 綾

第1話

 とても綺麗なものを見た。

 バスを待っていた。バス停の名前は、T総合病院前。T病院は、この地域ではいちばん大きな急性期病院で、私は、入院している知人を見舞った帰りだった。

 病院の正面玄関を出るとすぐに大きなロータリーがあり、送迎のタクシーが次々に入っては出て行く。私が立っているバス亭は、そこから数メートルもないが、道路を渡ったところだ。

 バス通りは、道の両脇に満開の桜を飾らせている。その桜並木は、角を曲がったところの公園内多目的広場まで続いている。

 次のバスが来るまで5分以上あり、スマホをいじるのにも飽きた私は、見るともなしに桜を眺めていた。

 3月の末とはいえ、上着がないと少し肌寒い。風が少し出て来て、枝を揺らし、桜の花びらを舞い散らせた。

 ふと視線を上げると、その先に、舞い落ちる桜の花の向こうから現れた人影が二つ。

 一人は、入院患者なのだろう、病院が提供するピンク色の格子柄のパジャマを着ている。真っ白な髪を長く延ばし、三つ編みのお下げにしたお婆さんだ。そのお婆さんを支えるように隣に寄り添っている小柄な若い女性に見覚えがあった。白い半袖の上着とズボンは、病院のスタッフが身に着けるユニフォームだ。

 伊都子。いっちゃん。

 もう15年も会っていなかったというのに、突然、名前を思い出した。思い出すと同時に、その名前と、甘酸っぱい想いが胸を満たす。

 いっちゃんは、お婆さんの肩を抱くようにして、お婆さんの歩調に合わせ、ゆっくり、ゆっくりと歩いて来る。お婆さんの白い髪にも、いっちゃんの肩にも、桜の花びらが何枚も載っている。入院患者に桜を見せてあげに行っていたのだと分かった。囁くようにお婆さんの耳に何かを語り掛け、それを受けてお婆さんが微笑する。肌寒いのに、心がぽうっと温かくなるような、そんな、とても綺麗な光景。

 歩いて来る二人と私の距離は、もう数メートルしかなくて、いっちゃんが私に気づいてくれるかどうか、胸が高鳴った。と同時に、とても怖くなった。

 そのとき、バスがゆっくりと滑り込んで来た。私は、慌ててステップに足を掛けた。振り返らなかった。すぐ横を、いっちゃんとお婆さんが通り過ぎて行った。

 走り出したバスの窓から、病院の正面玄関へ吸い込まれて行く二人の背中を見送った。涙が出そうになった。

 いっちゃん。好きだった。私、貴女のことが本当に、大好きだったんだよ。



 いっちゃん、こと、祠堂伊都子(しどう・いつこ)と出会ったのは、小学校五年生のとき。いっちゃんは名古屋から来た転校生だった。

 地方から東京に転校してきた子供というのは、多くの場合、訛りや方言を揶揄われたり、それが苛めの原因となったりするものだが、いっちゃんは初めから綺麗な標準語を話した。以前の小学校のほうが勉強が進んでいたのか、算数も国語もとてもよく出来た。足はそんなに速くもなかったけれど遅くもなくて、私のように体育が苦手なわけでは決してなかった。跳び箱も6段を跳べたし、クラスの子の半分が出来なかった逆上がりを華麗に披露してくれた。

 跳び箱や逆上がりが出来るというそれだけでも一目置かれて、すぐにクラスの人気者になっておかしくないのだが、残念なことに、言葉の問題ではなく、別の面で、いっちゃんは「浮いた」存在だった。

 暗い子供という印象ではなかったが、口数が極端に少なかった。人見知りで引っ込み思案、というのではない。どこか超然としていて、群れることを好まない、という感じだった。休み時間は大概の場合、一人で本を読んでいた。

 私がよく一緒にいた奈々緒ちゃんと理名ちゃんは、いっちゃんのことが好きじゃなくて「気取った済まし屋」だと陰で悪口を言っていた。 

「だから、まりやも、祠堂さんと口をきいたらダメだからね」

 リーダーの奈々緒ちゃんにそう命令されて、私は頷くしかなかった。


 初めていっちゃんと話した日のことは、いまでも忘れていない。

 放課後、一旦は校門を出たものの、忘れ物に気づいて取りに教室に戻ると、もうほかに誰も残っていないというのに、いっちゃんは自分の机に座って、熱心に本を読んでいた。戻って来た私に気がついてもいないようだった。

 こちらも同じように無視するのは少し気不味くて、何か声を掛けたかったが、奈々緒ちゃんにダメだと言われたことが心に重く圧し掛かっていて、そそくさと自分の机から忘れた筆箱を抜き取り、ランドセルにしまおうとした。そのとき、手が滑って、ランドセルは口を下にした状態で床に転がり落ち、教科書もノートも定規も、中身が全部、教室の床に散らばってしまった。

 いっちゃんが、初めて顔を上げた。立ち上がると、黙って、教科書やノートを一緒に拾ってくれた。

「有難う、祠堂さん。ごめんね、本を読んでいるところを邪魔しちゃって」

 俯いたまま、どぎまぎしながら呟くように言うと、いっちゃんは微笑した。普段は大人びていて、どちらかというと無表情なのに、微笑うと片頬にエクボが出来て、びっくりするくらい可愛い。

「いいの。むしろ、助かった。あたしって、本を読んでいると、時間の感覚が無くなっちゃって。もうとっくに帰らなくちゃいけないのにね。このあいだも、先生に叱られたの」

 こんなに気さくに話をしてくれる子だとは思っていなかった。何となく、違う世界の住人みたいに思っていたから。少しホッとして、何をそんなに熱心に読んでいたのか訊いてみたら、昆虫図鑑だという。

 色鮮やかな写真がたくさん載った大型の本を、いっちゃんは私の前に示してくれた。蜂のページだった。

 思わず絶句する私を見て、いっちゃんは宥めるように言った。

「気持ち悪い?」

 気持ち悪い、とは、虫のことか、それとも、昆虫の図鑑を熱心に読んでいたいっちゃん自身のことを指しているのか分からなかったが、私は大概の女子の例に洩れず、虫と名前がつくものは全部キライで生理的に受け付けなかったので、申し訳ないと思いながらも頷いてしまった。

「そっかあ」

 嫌な気持ちにさせたのではと思ったが、いっちゃんは、気にするふうもなかった。

「祠堂さんは、虫、平気なの?」

 幾ら相手が平気な様子でも、自分が気になってしまって、場を取り繕うような問いが出てしまった。うん、まあね、と適当に流されると思った。ところが。

「あたしは、蜜蜂が大好き。蜜を一生懸命集めて、女王様を護って一生を終える。なんだか、素敵じゃない?」

 予想とは全然違う反応だったので、ちょっと驚いた。虫が素敵だなんて、そんなことを言う女の子は、私の周りには今まで一人もいなかった。

「蜜蜂の天敵でオオスズメバチっていう怖い蜂がいて、たったの数十匹で数万匹の蜜蜂をアッと言う間に皆殺しにして、巣を占領しちゃうんだって」

 みなごろし、だなんて、怖くて残酷な話をしているのに、いっちゃんは楽しそうで、どこか熱っぽかった。

「そんな強い、とてもじゃないけれど敵わない相手なのに、蜜蜂には唯一の対抗手段があるの。100匹以上もの蜜蜂が集まって、1匹のスズメバチを、おしくらまんじゅうみたいにぐるっと取り囲んで、自分たちの体熱で敵を蒸し殺すんだって」

 窓から差し込んで来た西日が、いっちゃんの姿を照らしていた。薄暗くなっていく教室で、そこだけがスポットライトを当てられているみたいだった。

「それを知ったとき、泣きたくなるくらい感動したの。どんなに弱い生き物でも、強い生き物と闘える武器を与えられてる。そういうふうに生命を創った神様って、スゴイなあ、って、心の底から思った」

 そのときはそういう表現を知らなかったけれど、知っていたらその言葉を使った筈だ。そう、いっちゃんは「キラキラして」いた。

 見回りの先生がやって来る足音がして、二人で慌てて教室を走り出た。家の方向は反対だったから、校門を出たら手だけ振って右と左に別れたけれど、私は家に帰る道すがら、ずっといっちゃんのこと、祠堂伊都子という変わった女の子のことを考え続けていた。

 変わった子。ヘンな子。面白い子。普通の女の子なら絶対に興味を持たないだろう話を、感動した、って言って、あんなにキラキラした目をして話す子。

 そんなふうにいっちゃんのことを考え続けて、家に着いて、待っていたお母さんに、ただいま、と声をかけたときには、私はもう、いっちゃんに恋をしていた。

 だからと言って、翌日からいっちゃんと私の距離が縮まったわけではなくて。私は相変わらず奈々緒ちゃんや理名ちゃんと一緒で、いっちゃんはやっぱり独りだった。

 いっちゃんは、浮いてはいたけれど、別に嫌われているわけではなかったし、担任の先生が厳しくて、苛めとか差別を許さないクラスだったこともあって、上履きを隠すとか、教科書に落書きだとか、そんな定石通りの嫌がらせをいっちゃんに対してするようなクラスメイトはいなかった。ただ、奈々緒ちゃんをリーダーとする一部の女子生徒はいっちゃんを無視し続けていて、学校の連絡事項などでどうしても話しかけなければならないときは、ワザと顔を背けて話しかけていた。そういうのを見ていると、すごくイヤで腹立たしかったけれど、発言力が皆無の私にはどうすることも出来なかった。

 クラスの女子の誰かが、いっちゃんが昆虫図鑑を読んでいて、蜂のページに栞が挟まっていたのを偶然に見たらしい。

「ええ、虫が好きなのかな?」

「やだあ、キモチワルい」

「だって、アレでしょ、祠堂さんて、名古屋から来たんでしょ。ホラ、あの蜂の子の佃煮とか食べる地域」

「うっわ、やめてー。マジにキショい」

 奈々緒ちゃんと理名ちゃんを中心に、ほかにも数人が、そんな低俗な陰口を叩いているとき、私は黙って聞き流しながら、心のなかではこう叫んでいた。

 バカじゃないの?蜂の子の佃煮って、それ名古屋じゃなくて長野県の話なのに。

 こんな、頭の良くない、陰でひとを悪く言ったり嗤ったりするような人たちとじゃなく、いっちゃんと仲良く出来たら。色々な、自分の知らない話を聞けたら。

 そして、一年と数ヶ月後、その願いは叶えられた。

 私が通っていた小学校は、五年生と六年生は、クラスメイトが変わらない決まりだったので、六年生になってもやっぱりいっちゃんに近づくことは出来なかった。でも、中学に上がったとき、突然、環境が動いた。

 住んでいた地域では、受け入れ人数の兼ね合いからか、小学校と中学校の学区分けが少し異なった。奈々緒ちゃんは別の学区の中学に通うこととなり、理名ちゃんは私立の中学に進学した。奈々緒ちゃんも理名ちゃんも、排他的で考えの浅いところはあったけれど、根はそんなに悪い子たちではなかったので、別れが寂しくなかったといえば嘘になる。でも、それ以上に、この二人と離れて、初めて自由になれたと思った。これでようやく私はいっちゃんに、いや、そのときはまだ心のなかでも「祠堂さん」と呼んでいたけれど、人目を気にせず話しかけることが出来るのだ。

 それでも、最初は迷っていた。私が、自分の悪口を言っていた奈々緒ちゃんグループの下っ端だったことをいっちゃんは当然知っていた。奈々緒ちゃんに命令されていたとはいえ、蜂の話をして貰った翌日からも一度も「おはよう」の挨拶すらしなかった私と、いっちゃんは友達になんてなってはくれないかもしれない。

 でも、そんなのは杞憂だった。中学校の入学式の日、いっちゃんのほうから、先に微笑みかけてくれた。

「中学でも同じクラスになれたね。秋月さん。これから宜しくね」

 名前を呼んで貰えたことで、私は有頂天になった。そのとき分かった。いっちゃんは、私の弱さを、保身にかまけていたズルさを、意気地の無さを、全て見なかったことにして、私を受け容れてくれたことを。そして、強く思った。いっちゃんの隣にいても見劣りしない、しっかりした人間になりたい、このひとに相応しい強さを身に着けたい、と。


「東京の中学校って、完全給食制なんだね。最初びっくりした」

 いっちゃんが突然そんなことを言うので、私のほうがびっくりした。

 中学に上がって一ヶ月程だったろうか。算数が数学に変わって、ランドセルがスクールバッグになって、セーラー服のリボンの結び方がようやくなんとかサマになってき始めた頃。私たちは、祠堂さん、秋月さん、ではなく、いっちゃん、まりや、とファーストネームで呼び合う間柄になっていた。

「え?だって、義務教育だよ。公立なんだから日本全国、どこの中学校だって給食に決まってるじゃない」

「それ、思い込みだよ」

 いっちゃんは苦笑した。無知な私を馬鹿にした笑いではない。なんというか、愛しい、というか、可愛い、とでも思ってくれている。そんな笑み。これは、私がいっちゃんを好きだから、そう妄想しているだけなのだろうか。

「名古屋の中学は給食じゃないの。スクールランチ」

 なに、そのスクールランチって。訊いたら、詳しく教えてくれた。全員が同じものを食べるのではなく、数種類のメニューから食べたいものを選べるシステムだそうで、勿論お弁当を持参してもいい。

「へえ、そうなんだ。初めて知った。スゴイね、なんか、画期的っていうか。小中学校は給食だって思い込んでた。いっちゃんに教えて貰わなかったら、多分、一生知らなかった」

 画期的だと思ったのは勿論、本心だ。同時に、羨ましい、とも。

 幼い頃から偏食がある私には、給食の時間は決して楽しいものではなかった。特に、先生の目を盗んで嫌いなおかずをこっそり捨てたり周りの子に食べて貰ったりなどの悪知恵が発達していない小学校低学年の頃などは、苦手なものでも完食することを強いられる学校給食は苦痛だった。大体、よく考えれば、刑務所でもあるまいし学校中の全員が同じものを食べなければならないというルールそのものがおかしいような気がする。

 少し興奮気味の私に、いっちゃんは、別に一生知らなくたって困らないことだよ、こんなの、と呟いて微笑った。

「それにしても。お兄ちゃんもお姉ちゃんもスクールランチだったから、自分だけ家族と離れて東京の中学に通って、一年生から三年生どころか、先生まで、学校中の皆と同じメニューを毎日食べるなんて、ヘンな感じ」

 いっちゃんはそう言うと、両腕を高く揚げて伸びをした。さり気ない口調だったけれど、少し引っかかった。兄弟、姉妹がいるという話も初耳だったけど、家族と離れていっちゃん一人が東京、というのはどういうことなのだろう。家族揃って引っ越してきたのではないのだろうか。でも、それについて尋ねることはしなかった。話したければいっちゃんのほうから話してくれるだろうし、そうじゃないのなら、敢えてほじくる必要はない。

 いっちゃんは、読書家で博識で、記憶力もすごくよくて、先生や大人の言ったこととかも、とてもよく覚えている。大人に教わったことを、もっと分かりやすく噛み砕いて私に教えてくれたりもする。

 反対に、自分自身のことに関してはあんまり話すのが好きじゃないみたいで、家族のことや前の学校での友達のことなどは話題にしなかった。いっちゃんは一度、私に『まりや』ではなく『まーちゃん』と呼びかけたことがある。親戚の伯母さんや従姉弟にその呼び方をされることがあるので、私は別に違和感を持たなかったけれど、いっちゃんはハッとしたみたいに両手を口に当てた。もしかしたら名古屋時代の友達の名前で、それをうっかり口にしたのかもしれない。

 でも、突っ込んでは訊かなかった。詮索することをいっちゃんが喜ばないと知っていたから。私は、いっちゃんが心地良いと感じていられるだろう距離を、少しずつだが覚え始めていた。

「まりやは、頭がいいよね」

 私の内心を知ってか知らずか、いっちゃんが急に話題を変えた。

「なに言ってるの?頭がいいのは、いっちゃんじゃん」

 それだけは間違い無い。いっちゃんは博識で、私なんかの知らないことをたくさん知っている。何より凄いと思うのは、そういう知識を知ったかぶりや自慢するのではなく、まるで飴玉でも取り出すように、折に触れてサラリと見せてくれるところだ。

「さっきの、名古屋の給食の話もそうだけど、いっちゃんが教えてくれることって、すごく面白いし興味深い。私はおバカだから、話題も少ないし、いっちゃんの話に、うわあ、スゴい、って相槌打つばっかりで、いつも私ばっかりが得してごめんね、って思ってる」

「だから、ね。まりやは、頭がいいって言ってるの」

 だから、の意味が分からず、首を傾げると、いっちゃんが私の顔を覗き込む。

「それまで関心がなかったこと、自分にほとんど関係の無いような話題でも、まりやは、面白い、すごいって興味を持って受け容れる柔軟性を持ってる。それって、すごい才能だし、頭がいい証拠だよ」

 いっちゃんはまだ私の目を見つめている。いっちゃんは小柄で、私よりも頭一つ分くらい背が低い。細かな段を入れたショートカットの髪は真っ黒でサラサラで、少し近視気味だからか、目が潤んでいて、こんなに至近距離で見つめられると、心臓がドキドキ脈打ち始めて止まらなくなる。何か私のことを褒めてくれているみたいだけど、言葉が意味を伴って頭に入って来ない。

「まりやは、たくさん本を読むといいよ。自分でも気づいていないと思うけど、知識欲が旺盛で、好奇心がとても強いから、色んなジャンルの本を読んで、いろいろ吸収して。それは全部、まりやの武器になるから」

 頬がすごく、すごく熱い。いっちゃんの瞳が、初めて言葉を交わしたときと同じくらいキラキラ輝いているのしか分からない。

 いっちゃん、好き。ただの友達としてなんかじゃなく、もっと好き。

 そう言ってしまいそうになるのを、必死に堪えた。

 そのとき私は、熱に浮かされたぼうっとした頭で、ただいっちゃんの瞳に魅入られたように、何度も頷き返すだけだった。


 いっちゃんは小柄だったけれど、すばしこかった。部活は、始めから運動部と決めいていて、テニス部と迷った末で、バドミントン部に入部した。一方の私は上背だけはあるものの運動は苦手だったので、出来れば帰宅部を選びたかったが、基本的には全校生徒が何らかの部活に所属するというのが学校の定めたルールだったこと、帰宅部だといっちゃんと一緒に下校出来なくなるので、已む無く美術部に入った。ちゃんと勉強したことはなかったが、絵を描くこと自体はもともと嫌いではなかった。

 中学二年生になった。醒めているようで努力家のいっちゃんは、バドミントン部の副キャプテンに選ばれていた。同じ頃、私にも、初めての、事件と言う程ではない事件が起きた。

 部活を終え、いつものように昇降口でいっちゃんを待つことにした。靴を履き替えようと靴箱を開けると、タッセルつきの革靴の上に、白い封筒が載っていた。不審に思いながら開封する。中身のカードに目を通した次の瞬間、私はそのカードを封筒ごと足元に叩きつけていた。

「どうしたの、まりや」

 丁度、部活と着替えを終えて其処へやって来たいっちゃんが、驚いたような声をあげる。多分、私の顔が嫌悪感で蒼白になり引き攣っていたのを目にしたせいだろう。

「なにこれ。手紙?」

 いっちゃんが拾い上げる前に、私はそれを足で踏みつけて渡すまいとした。でも、いっちゃんの手のほうが速かった。

 秋月まりやさま。

 一年の頃から可愛いと思っていました。来週の月曜日、昼休みに、校舎裏まで来てください。

 カードの文面をいっちゃんが読み上げる。決して上手いとは言えない、角ばった乱暴な文字。

「バカみたい。気持ち悪い。なんなのこれ。イタズラ?嫌がらせ?こんなことするヤツ、死ねばいい」

 歯を喰い縛って唸る私の背中を宥めるようにさすりながら、いっちゃんが言う。

「なんで嫌がらせだって思うの?」

「嫌がらせに決まってるでしょう。私のこと可愛いとか、有り得ない」

 いっちゃんは目を丸くして私を見た。

「まりや、まさか気づいてないの?」

 なにが、って思った。揶揄いの標的にされたことが口惜しくて、腹立たしくて、目に涙が浮かんだ。

「まりや、まりや。落ち着いて。まりやは綺麗だし、可愛いよ。それが分からないの?」

 首を激しく横に振る。

 そんなの嘘だ。私は背ばかり高くて痩せていて、色白どころか半病人みたいな青白い肌の色をしていて、可愛いとか綺麗だなんて言われたことはない。小さい頃から自分くらい醜い女の子はいないと思っていて、だから、いつもきびきびと活動的な小麦色の肌のいっちゃんが内面だけではなく外面だって憧れの存在なのに。

「まりや。今日、家に帰ったら、鏡で自分の姿をちゃんと見て御覧。すらっと背が高くて、足が長くて色が白くて、目がぱっちり二重で大きくて、鼻が高くて、まりやくらい日本人離れした綺麗な子って、そうはいないから」

「そんなの、嘘だ」

 我慢していた涙が、とうとう零れ落ちてしまった。

「だって、街を歩いていると時々、振り返って見る人がいるの。私があんまりにも不細工だから珍しがって見てるに決まってる」

 いっちゃんは、優しく私の肩を撫でた。

「そうじゃないって。まりやが綺麗だから思わず二度見してるんだよ。自信を持たなきゃダメ」

 まさか、私が言っていることも全部信じられない?

 穏やかな口調が、ゆっくりだけれど胸に沁み込んでくる。多分、両親にそう言われても、先生に言われても、信じなかっただろう。でも、いっちゃんの言葉なら。

「分かった」

 喉から掠れた声が出た。私は涙を拭いた。いつもおどおどしていて自分に自信がなくて、奈々緒ちゃんや理名ちゃん以前も、常に誰かの背後に隠れようとばかりしていた。思ったことの半分どころか三分の一さえ言えなかった。そんな自分が本当は嫌いだった。


 私は変わっていった。

 髪を切り、目を隠すくらい長く伸ばしていた前髪を揃えた。背が高いことを誤魔化そうと猫背気味に歩いていたけれど、立っているときも座っているときも、意識して背筋を真っ直ぐに保った。いつも俯き加減だった顔を、真っ直ぐ上げた。 

 私が変わって、周りの私への態度も変わった。

 なんの気紛れか分からないけれど、お母さんが初めて、少しかかとの高いお洒落なパンプスを買ってくれた。それを履いて、まだ化粧なんて知らないけれど、少し色のついたリップクリームをつけて繁華街を歩くと、驚いたことに、何人もの男の人に声を掛けられた。ナンパだけじゃなくて、モデル事務所のスカウトだという男性もいた。全然知らない小母さんに通りすがりいきなり「まあ、貴女、綺麗ね」と言われたりもした。自分でもずっと知らなかったけれど、いっちゃんに教えられた通り、私は、客観的に見て綺麗な少女だったのだ。

 いっちゃんはまるで魔法使いだった。

 例の、ラブラターもどきのカードの送り主が誰かは分からない。あの呼び出しを私は完全に無視したから。やっぱり悪戯に思えたし、例えそうではなかったとしても、男子に興味は無かった。

 ふと、不安になった。それまでは一度も考えたことなんかなかったのに。

 私なんかよりもずっと自信に満ちて、毅然としていて可愛くてカッコイイいっちゃんに、男子の目が向かない筈はない。いっちゃんと男の子の話をしたことはなかったけれど、私の知らないところで、告白とかされているんじゃないだろうか。まさか、私に隠れて付き合っている相手がいたりするんじゃないか。好きな男の子がいたりするんじゃ。

 口に出せない思いは胸のなかを堂々巡りするばかりで、一巡するたびにそれは重くなった。

 そしてその不安は、高校生になって、現実になった。


 中学での三年間は、ひたすらいっちゃんの後を追いかけて過ごしていた。

 いっちゃんに貰ったアドヴァイスを無駄にしないように、本もたくさん読んだ。新聞や雑誌の書評にまめに目を通して、人気の新刊をお小遣いの許す限り買って読んだ。古典の名作と呼ばれるものは図書館で借りた。

 自分は醜いのだから、と、最初から諦念に縛られて、影へ影へとばかり引き籠ろうとしていた私はもういない。私は近所でも評判の美少女で、成績もあがった。誰も私を軽んじなくなった。いっちゃん以外にも親しい友達が何人か出来たし、男の子に告白めいた台詞を言われたことも一度や二度じゃない。

 それでもまだ、私の心の奥、誰にも明かさない祭壇のいちばん上にいるのはいっちゃんで、それが怖くて、苦しかった。

 こんなに好きでも、どんなに大切でも、同じ想いをいっちゃんが感じていてくれるとは限らないから。むしろ、その可能性は低いから。


 成績が上がったとはいえ、いっちゃんと私の学力差はやっぱりあって、どんなに努力しても同じになることはなくて、同じ高校に進学することは出来なかった。いっちゃんは、英語と数学を中心に、時間の許す限り私の勉強を見てくれていたので、判定結果で一緒の学校に行くのはやっぱり無理だと結論が出たときは、とても悲しそうな顔をした。

 いっちゃんは公立校としてはかなり上のレベルの進学校に通い始めた。私が選んだのは、自分の学力と通学の利便性を足して2で割って、自宅の最寄り駅から電車で二駅先の新設校。

 当時、まだスマホなんて便利なものはなかったけれど、高校入学祝いに携帯電話を買って貰っていたので、別の学校に通い始めても毎日メールで連絡を取り合っていたし、週末は、電話で長いこと話をした。といっても、もっぱら勢い込んで話すのは私で、いっちゃんは聞き役に回ってくれることが多かった。

 会える機会は、少なかった。

 運命に嫌がらせでもされてるんじゃないの?って思うくらい、いっちゃんの都合のいい日は私が先約が入っていたり、反対に、私がフリーの日は、いっちゃんが忙しかったりした。どちらも同じ町に住んでいるのに、行動範囲はまるっきり以前とは違ってしまって、まるで遠距離恋愛でもしている気分だった。

 私は、自分の気持ちをずっと持て余していた。いっちゃんと初めて会話を交わしたときに、恋に落ちた、と思ったけれど、そもそも恋なんて一度もしたことがなかったのだから、それが恋かどうかなんて分かるわけがない。初めから間違いだったのかも、憧憬を、恋愛と勘違いしただけなのかもしれない。私は自分が女性同性愛者、いわゆるレズビアンだなんて思ったことはない。小さい頃、アニメやドラマを観て、可愛い、或いはカッコいい女性キャラクターに胸をときめかせたりしたことは何度もあるけれど、それは小さな女の子ならごく自然な、当り前なことだ。

 そんな私の目を覚まさせる出来事があった。


 ある日、通学途中の電車のなかだった。

 私が乗るのはたったの二駅なので、わざわざ座席に座る必要はないのだけれど、目の前の席が偶然空いたので、なんとなく腰を降ろしてしまった。スクールバッグから単語帳を取り出して眺めていたら、数分もしないうちに、隣に座っているひとが寄りかかって来た。私じゃなくたって同じだろうけれど、そういうのは、すごくきらいだ。寝るのは勝手だけれど、アカの他人の肩や腕を枕代わりにしないでほしい。相手がサラリーマンの小父さんだったら、躊躇なく肘を入れる。

 いつものように肘で突いて無言の抗議をしようとし、相手の顔を覗き込んで思いとどまった。私の肩に頭を載せているのはOL風の若い女の人で、白い上品なスーツを着ていた。目を閉じていたけれど、顔もなかなかの美人さんで、サラサラのボブヘアからはふわりといい匂いがした。

 私はそのまま、じっとしていた。眠っているその女性の目を覚まさせたくなかった。カーブで電車が揺れて、体がもっと密着すると、お腹の辺がかあっと熱くなって、ドキドキして、おかしな話、もっと電車が揺れてくれればいいのに、とまで思ってしまった。

 程なく自分の降りる駅に着いてしまったときには、惜しい気持ちにまでなった。

 バカみたい。バカみたい。

 女の人に身体をくっつけられてドキドキして喜ぶなんて、そんなの、エッチな男の人の発想だ。女子高生がそんなんじゃ、まるで病気だ。

 私は、唇を噛み締めた。その、病気みたいな女子高生が、私なのだ。


 高校に入学してから一度もいっちゃんと会わなかったわけではない。偶然に顔を合わせることはあった。一度は駅前の本屋で、二度目はファーストフード店で。でも、ちゃんと話をする程の時間はなかった。本屋のときは、いっちゃんはバイトの面接があると時間に追われていたし、ファーストフード店のときは、別々の友達と一緒だったから。

 最後にちゃんとしたデートをしたのは、高校入学を控えた中学三年の春休み。いっちゃんと二人で映画を観に行った。二人ともいつもよりちょっとお洒落して、映画が終わったあとはクレープを手にふざけ合いながら街を歩いて、少し背伸びしてカフェで食事した。手を繋ぎたかったけど、どうしても出来なかった。そのときはまだ自分の気持ちがちゃんと分かっていなかったのもあるし、それに多分、拒絶されるのが怖かったからだ。

 自分がいっちゃんに抱いている想いが恋愛感情なのだとはっきりと分かってからは、余計に連絡しづらくなった。相変わらずメール交換はしていたけれど、毎日ではなくて、三日に一度くらい。週末の電話もなくなった。月並みな表現だけれど、なんだか胸にぽっかり穴が空いたような気がして、毎日が詰まらなくなっていた。

 高校生になって半年近く経って、いっちゃんからお誘いのメールが届いた。週末、いっちゃんの学校の文化祭に来ないか、という内容だった。

 そのメールが届いた日、私は風邪をひいて寝込んでいた。いつにも増してバイオリズムが低下していたので、ようやくちゃんと会えるのが嬉しい、という感情と、何を今さら、ずっと私のことを放っておいて、みたいな拗ねた想いが胸のなかで喧嘩して、返信は「じゃあ行く」なんていう、愛想も何もないものだった。

 そして、日曜日。

 なんとか熱も下がって、乗ったことのない路線の電車に乗って、降りたことのない名前の駅で降りて、いっちゃんの通う学校へ向かうと、校門の前でいっちゃんが待っていてくれた。駆け寄って抱き合う、なんてアメリカの青春ドラマみたいなわけには勿論いかない。

「久し振り。元気だった?」

「髪、延びたね」

 なんていう在り来りな挨拶。

 久し振りに会ういっちゃんは、記憶のなかの姿よりも少し大人っぽく、女らしくなっていて、以前は男の子みたいなショートヘアだったのが肩まで髪が延びていて、それがまたよく似合って、前よりいっそう素敵で、私はいっちゃんに見惚れていた。だから、いっちゃんがこう言ったとき、何が起こったのかすぐに分からなかった。

「まりや、紹介するね。狩野くん」

 背の高い男の子がいっちゃんの傍らに立っていたことなんて気づかなかった。

 来るんじゃなかった、と瞬時に思った。

 いっちゃんの制服の襟についているのと同じ校章、学年章がブレザーについていたから、その男の子がいっちゃんと同じ学校の生徒で同級生であることは分かった。背の高い狩野くんと、小柄ないっちゃんが、どちらからともなくふっと目線を合わせて微笑みあう。いきなり視界から光を奪われたみたいに、そのとき本当に目の前が真っ暗になった。

 いっちゃんは、彼氏を紹介するために、私を文化祭に呼んだんだ。

 立っているのがやっとだった。狩野くんに、こんにちは、と言われた気がするけど、何て答えたのかは覚えていない。

 いっちゃんのクラスが甘味処を出店しているので、そこの教室に行こう、という流れになったが、私は一刻も早くその場から立ち去りたかった。

 実際、そうすべきだったのだ。

 治った筈の風邪が一気にぶり返したみたいな悪寒に襲われて、私はその場にしゃがみこんでしまった。ちょっと立眩みがした、と誤魔化したら、いっちゃんと狩野くんが、私を、校舎裏の日陰に連れて行ってくれた。初秋とはいえ、日差しの厳しい日だった。

 いっちゃんは飲み物を買いに行ってくれて、私と狩野くんは二人きりでその場に取り残された。祭りの賑やかな喧騒は校舎の向こうから聞こえてくる。

 売店が混んでいるのか、いっちゃんはなかなか戻って来なくて、知らない男の子と二人で黙って座っているのも気づまりで、私はずっと頭を抱えて項垂れてた。冗談抜きで、気分がかなり悪かった。

「秋月さん、大丈夫ですか?」

 心配そうに覗き込まれて、目線をあげる。名前を名乗った覚えはないのだけれど。いっちゃんから事前に聞いていたのだろうか。

「僕のこと、覚えてないですよね。同じ中学だったんだけど」

 覚えていない、どころか、私は貴方なんて知らない。

 狩野くんはいい人そうだった。柔和な感じで、イケメンというのとはまた違う、品のいい顔立ちをしていた。見た目通りのいい人だからこそ、体調の悪い私を気遣い、場の雰囲気を和らげようと話をしてくれたのだと思う。

「中二のとき、身の程知らずにも、秋月さんに手紙を送ったんだけど、あんな、自分の名前も書かないような呼び出しじゃ、やっぱり落第ですよね。あのときはすみません。あ、それとも読んでも貰えてなかったかな」

 あんな内容じゃ、告白したいのか、果たし状か分かりゃしない、って伊都子ちゃんに突っ込まれました。

 笑いを誘うために自分を卑下してネタにしている。優しい人だからだ、いい人だからなのだ、と内心では分かっていながら、それを聞いて、私は頭が沸騰しそうになった。

「いっちゃんとは」

 絞り出そうとした声が、喉に閊えた。

「いっちゃんとは、どこで、どんなふうに知り合ったの?」

 狩野くんが怪訝な顔をする番だった。

「って、あれ?伊都子ちゃんから聞いてると思ってたんだけど」

 そのときの私の形相は余程のものだったに違いない。狼狽しながらも、狩野くんは答えてくれた。

 あの日、私はカードに書かれていた呼び出しには応じなかったが、いっちゃんは一人でその場に行ったらしい。いっちゃんと狩野くんはそのときが初対面で、会話を交わしたのもそれが最初だった。それからすぐに交際に発展、ということはなかったけれど、一年半後、再会した。偶然に同じ高校に入って同じクラスになったのだ。私宛てのカードの一件が会話の切っ掛けになったのはいうまでもない。それから少しずつ親密になり、付き合い出したのは、つい最近だ、とも。

 それで十分だった。それ以上、何も聞きたくなかった。いっちゃんは、私を裏切った。

 気が付いたら、学校を飛び出していた。

「まりや。待って」

 背後からいっちゃんの声。駅の改札をくぐる前に、いっちゃんに捕まった。

「どうしたの、まりや。逃げないで、なにか気に障ることがあったの?ちゃんと話して」

「話すことなんかない。文化祭に戻りなよ」

 掴まれた腕を振りほどこうとしたら、意外なくらい強い力でしっかりと掴みなおされた。

「どうして怒ってるの?私、悪いことした?」

 頭の回転が速いくせに、今日に限って、恍(とぼ)けているとしか思えない。

「全部聞いた。あのカードの送り主、狩野くんだったんでしょう」

 ただでさえ走って息が切れていたのと、激情で言葉がもつれて、ちゃんとした台詞になっているのかすら分からない。

「なんで、なんで私に黙って会いに行ったの?その後のことも一言だって聞いてないよ。私だけ爪弾きなんて、酷いよ」

 どうして怒っているのか。そんなの、分かっている。これは、嫉妬だ。自分が理不尽で無茶苦茶なことを言っているのも知っている。

 いっちゃんも、困惑した表情で私を見つめている。無理もなかった。これが、私が以前から狩野くんのことを好きで、それを横から騙し討ちみたいに、いっちゃんが奪った、みたいな古典的な三角関係ならば私の怒りも筋が通るが、状況が違う。相手を確かめるどころか気にもかけなかった昔の手紙の送り主と、親友が付き合い始めただけなのだ。その手紙だって、再会した二人が互いを確認するちょっとした切っ掛けになっただけで、恋に落ちた直接の原因、とか、魔法の小道具なんかじゃあない。

 彼氏が出来た親友を祝福こそすれ、それを怒ったり機嫌を損ねてヒステリックに騒ぐなどと、誰が見たって正気の沙汰じゃない。

「久し振りに会えるの楽しみにしていたのに、それなのに。あんな、彼氏と仲良さげにしているところを見せつけなくたっていいじゃない」

 ああもう、ますます支離滅裂だ。でも、感情が裂けたように、コントロールが効かない。

「ごめん、まりや」

 いっちゃんの表情が、悲しそうだ。

「何に対して、ごめん、よ。何にも分かっていないくせに」

 裂けてギザギザの気持ちが産み出すのは同じようにギザギザの言葉で、目の前の大事なひとに斬りつけようとする。

「うん。何にも分かってないのは認める。でも、まりやが傷ついてることだけは分かる。だから、傷つけてごめん」

 いっちゃんの声。こんな、駄々っ子みたいに意味不明な暴言を吐いている私を、優しく抱き寄せてあやしてくれる、そんな声。いま、私に取って意味があるのは、世界中でたった一つ、この両手で掬いあげたいのは、目の前にいるいっちゃんの声だけだ。

 突然、涙腺が壊れた。涙がぽろぽろ零れて頬を伝う。

「いっちゃん、好き」

 言うつもりのなかった言葉が、涙と一緒に零れた。

「まりや?」

 いま、なんて言ったの?と訊き返してくれているような、幼い子供を前にしているような、穏やかで優しい、そして不思議そうな表情で首を傾げるいっちゃんを、この手で抱き締めたい。

「いっちゃんのことが好き。愛してる。誰にも渡したくない」

 いっちゃんは、いっそう不思議そうな顔で私を見つめて、それから微笑んだ。慈愛に満ちた、というのは、きっと、こういう表情のことを言うのだろう。

「ダメだよ、まりや」

 すごくすごく優しい声で言って、それから私の手を取った。初めて手を握ってくれた。止まらない涙を何度も拭ったせいでびしょ濡れになった私の指先を、それでも厭わずに。

「まりやは、私の大事な作品だもん。私が発見した原石。磨いたら絶対に素敵な女の子になる、って、初めて会ったときから分かってた。私の目に狂いはなかったでしょう?自分でも分かってるよね」

 分からなかった。いっちゃんが何を言っているのか、まるで分からなかった。

 私は、好き、って言ったの。愛してる、って。告白したの。それなのに、その返事が、にこって笑って、胸に突き刺さるみたいな優しい声で『私の大事な作品』って。

 作品?なに、それ。

「だから、そんなおかしな、普通じゃないことを言ったりしたらダメ。まりやも、彼氏を作って。ほかのみんなと同じように、普通に高校生活を楽しんで」

 何も感じなかった。辛いとも、悲しいとも。手を握ってくれているいっちゃんの指先の暖かささえ。心が破れて、その亀裂が一秒ごとに大きく大きく広がっていって、その空洞に自分の存在がすべて吸い込まれていくような感覚だった。

 家まで送ろうか、と言われたけれど、断った。どういうわけか、いっちゃんのほうが傷ついたみたいに、ひどく悲しそうに見えた。そして、心配そうな顔をしていたけど、もうどうでもよかった。

 いっちゃんと別れて、電車に乗って、その後、どこをどうやって歩いて自宅まで帰ったのか覚えていない。玄関で靴を脱いだ途端、吐き気が込み上げて来て、その場で吐いた。すぐにお母さんが飛んできた。

 私は高熱を出し、翌朝、運び込まれた救急病院で点滴治療を受けた。左手の甲に太い点滴の針を打ち込まれ、痛かったけれど、いっちゃんから受けた仕打ちに比べたら、余程ましだった。

 愛しいひとが初めて握ってくれた指先は、あっさりと解かれた。ときめきも、喜びも感じるいとますらなく。

 その晩と次の晩、次の次の晩も、私は泣いた。泣いて、泣いて、ティッシュボックスを何箱も空にして、小学5年生からの想いに、初恋に自ら幕を下ろした。

 いっちゃんとはそれきり、二度と会わず、連絡も取らなかった。



 バスに揺られている半時間程の間に、痛みと一緒に甦る、過去の思い出。

 いま振り返ると、子供だったし、同時に、愚かだったな、と思う。女の子に、同性相手に恋だなんて、やっぱり、多感な時期のただの気の迷いで、きっぱりと拒絶したいっちゃんが正しかったのだ。

 あの時期、私は、いっちゃんからのメールも電話も一切をシャットアウトした。それでいて、同じ町に住んでいながら、家まで会いに来てくれないことを恨んで、また、泣いた。

 いつしか、いっちゃんからの連絡は途絶え、私は髪を染めたり煙草を吸ったり親や先生に極端に反抗したり、とちょっと荒れたりもしたけれど、それは一過性のもので、卒業するころにはもとの自分を取り戻していた。

 中学も高校も美術部に所属し、大学は、短大ではあったけれど、美大を選んだ。油絵は得意ではなかったけれど、パステルや水彩の柔らかな質感が好きで、学校の課題で描いたパステル画を創作絵本のコンクールに駄目元で出品したら、佳作入賞した。

 男の子とは、何人か、交際した。というより、交際の真似事をした。高校でも言い寄って来る男子はいたし、短大では、月に一、二度はコンパがあって、強引な友達に引っ張り出されていたから、出会う機会には事欠かなかった。

 決して男の子が嫌いなわけではなく、人並みに、運動部の先輩に憧れたり、サークルの同級生に心をときめかせてみたりしたこともあったけれど、大抵の男性は、こちらが少しでも興味を示すと、途端に目をぎらつかせて距離を詰めてくる。そうされると、私は一瞬で醒めた。

 だから、誰とも続かなかった。せいぜい、三ヶ月。数回映画を観て、ボーリング場に行って、カフェでお茶をして、それで終わり。私に近づいて来る男の子なんて皆、私の見た目にのぼせているだけで、内面なんて興味は無いんだ。だから、本気になる値打なんか、無かった。

 女の子と交際したことはない。ときめいたこともない。いっちゃんとの交流を断ってからは、不思議なことに、電車のなかで綺麗な女性と体が触れても、どきどきすることはまったくなくなった。

 初体験は短大のときのバイト先の店長で、20歳も上のバツイチ男だった。昔はバンドマンだったそうで、それなりに雰囲気のあるイケメンで、性格も悪くはない人だった。真剣交際を申し込まれたけれど、本気になれなかった。別れるとき「きみは醒めてるね。若い女の子とは思えないくらい」と憐れむように言われたことが、いちばん強く記憶に残っている。そんなことも全て、過去の話だ。

 いま、三十路を迎えた私は、結婚もしていなければ、彼氏もいない。相変わらず実家暮らしのフリーターだ。職業はイラストレーターだと名乗りたいけれど、ときどき、知人のツテを通して絵本の挿絵の仕事を貰えることがある程度で、それ一本ではとても食べていけないので、デパートの地下食品売り場で、コスプレみたいな絣(かすり)の着物を着て和菓子店の売り子をしている。

 いっちゃんは、どんな時間を過ごしていたのだろう。どこの大学に進んだのかも知らない。ずっと東京に居たのか、そうじゃなかったのかすら、分からない。たった今、目にしたばかりの、白のユニフォームを思い描く。

 あの制服は、医師でも看護師でもない。レントゲン技師?それとも薬剤師だろうか。まさか、違うだろう。レントゲン技師や薬剤師が、普通、患者を病院外に連れ出したりはしない。

 私が知っているいっちゃんは、15歳で時間を止めてしまったけれど、私が知らないいっちゃんは、大人に、素敵な女性になっていて、大きな病院に勤めて、病気や怪我をしたひとを助けている。結婚はしているのだろうか。もう、就学年齢の子供がいたっておかしくない年齢だ。

 考えても仕方ないのに、別のことを考えようとすればするほど、感情は理性を裏切って、いっちゃんに向かって走る。

 バスを降りて家路につく。ほんの一瞬の邂逅だったというのに、胸は、まだ苦しい程に昂ぶっていて、私は、いっちゃんに会いたくて仕方がなかった。


 翌朝は、お母さんに叩き起こされた。いつもなら自分のタブレットの目覚ましで起きるのに。

「遅番だからって、寝過ぎでしょう、まりや」

 淹れてくれたコーヒーと一緒に嫌味もしっかり頂いて、髪を整え、化粧をする。

「あんたが自分で起きて来ないなんて珍しいわね。昨夜、遅かったの?」

 確かに、夜更かしをした。眠れなかったのだ。だから、眠れないついでに、久し振りに画材を一式取り出して机に向かった。気がついたら、明け方になっていた。

「うん、まあね。ちょっと、描きたいモチーフが浮かんだから」

 お母さんが呆れ顔で溜め息をつく。顔を合わせる度に、嫁に行け、と脅すように言われていたのは20代の後半までで、私がオーバーサーティになったのと同じタイミングで、お母さんも諦めの境地に辿り着いたようだ。とはいえ「もういい歳なんだから、まともな仕事に就くか、家を出てくれないもんかしらねえ」なんてお決まりの嫌味は、お母さんも忘れない。

 玄関の扉を開け、一歩外へ出ようとすると、大雨だった。大雨、なんて表現は生易しい、さながら台風並みの暴風雨だ。

 こんな悪天候の日にデパ地下に和菓子を買いにくるような物好きな客などそうはいないだろうが、仕事は仕事、シフトはシフトだ。行きたくないからといって休むわけにはいかない。強風に吹き飛ばされそうになりながら、傘をさして駅に向かった。

 駅のコンコースは水浸しで、スニーカーを履いていても、うっかりすると靴底が滑りそうになる。電車に乗り遅れたくなかったので、用心しつつも足早に階段を駆け上がっていた、その矢先だった。

 私のすぐ目の前にいた太り気味の中年女性が、足首を捻った。ヒールが滑ったのだろう。そのまま、バランスを崩して後ろ向きに倒れて来た、私の方へ。

 声をあげる間もなく、私はその女性とともに階段を転げ落ちていた。といっても、高い処から落ちたわけではなく、四、五段程だけれど。背中と肩を強く打ち付けた。

「ごめんなさい、大丈夫ですか」

 かなり体重のありそうな肉体にクッション代わりにされて大丈夫なわけはなかったが、意識はあるし、頭も打っていない。しきりに謝る中年女性の足元を見ると、ストッキングが破れ、膝からひどく血が出ている。私は立ち上がることは出来なかったが、なんとか体を捻って上体を起こすと、その女性に、問題ないことを告げた。というより、周りにひとが集まって来て恥ずかしかったので、大仰に謝罪するのをやめて、早く立ち去って欲しかった。

 足を引き摺りながら去って行く女性の後姿を見ながら、今日は遅刻だ、と溜め息が漏れる。どうせ遅刻なら、一度家に戻って着替えるのがいいかもしれない。職場に行けば制服があるものの、着ていたシャツもチノパンも濡れて、おまけに泥までついている。

 立ち上がろうとして、おや、と思った。立てない。足に異常はない。右手も動く、首も回る。動かないのは、左手だ。指の先にまで、まったく力が入らない。

 結局、私は駅員さんが呼んでくれた救急車で病院に運ばれた。30分程その場に蹲っていたが、最初は感じていなかった疼くような痛みがだんだん強くなってきて、左手、というより左肩から腕全体、そしてそこを中心に足の先まで痛みが放射状に広がっていくようで、耐えられなくなったのだ。ストレッチャーに載せられ、生まれて初めて救急車に乗った。

 救急車は駅のロータリーから中へは入って来られないので、距離は然程でもないけれど土砂降りのなかをストレッチャーで運ばれるのか、と思ったら、ブルーのビニールシートを被せられた。丁度、顔にあたるところだけが四角い透明なビニールになっていて、状況を知らない駅の利用客から見たら、私はまるで出来立ての死体だな、と思うと、少し可笑しくなった。

 どこの病院に向かうのかと思ったら、行き先はT総合病院だった。いっちゃんの勤務先だ。安心した、というわけではないのだが、痛みで少し気が遠くなりかけた。

 問診、血液採取、レントゲン。その他、幾種類かの検査。結果は、左上腕骨外科頚骨折。それも、粉砕骨折に近い状態。入院して手術が必要。歩けない程の苦痛はそのせいだったのか。笑い話のようだ。貰い事故同然の形で階段から数段落ちただけで、それで入院、手術だなんて。


 入院初日。

 両親には不注意と運の悪さを呆れられ、長期の休暇取得でバイト先もクビになるかも知れず、余計なお金はかけられないので、個室になどは入れない。大部屋の、プライベートを護るのはパステルピンクのカーテンたった一枚だけの空間を、そのひとは訪ねてきた。

「退院後のリハビリを担当させて頂きます、理学療法士の祠堂です」

 いっちゃんだった。

 桜の日に見た、白いユニフォーム。凛とした佇まい。甘さなんてどこにもないのに、私の耳には優しく響く、忘れられない声。そう、ずっと忘れられなかった。

 でも、この再会のシチュエーションは何の冗談なのだろう。

 いっちゃんは、にこりともせず、リハビリテーション科のパンフレットを私に手渡すと、淡々とその内容を説明していく。私は、アームホルダーで首から吊るした左腕を、さらにバンドで体に固定した、お世辞にも綺麗とも素敵とも言えない状態で、病室のベッドに転がっている。

 私が分からないのだろうか。そんな筈はない。

 いっちゃん、私を見て。私のこと、忘れてしまったの?

 その言葉は、形になる前に、喉の奥で砕けて消えた。

 いっちゃんは、一度も私と目を合わせることもなく、事務的な事柄だけを一通り告げると病室を出て行った。

 ピンク色のカーテンをきっちり閉めて、声を殺して、私は泣いた。


 私に取って生まれて初めての手術は滞りなく終わった。手術した日の夜は激痛で悶絶、文字通り七転八倒したけれど、予定通り、翌々日には退院した。入院日数は僅か5日間だったが、私の怪我は、全治半年という診断だった。リハビリの開始予定は退院2週間後。でも、術後の痛みがどうしても退かず、鎮痛剤も利かなかったので、リハビリ開始をもう2週間延ばして貰った。また、いっちゃんと会うのだということは、良いほうにも悪いほうにも考えないようにした。


 リハビリ初日。リハビリテーション科は、病院の地下1Fの広い空間で、ベッドのほかに、スポーツクラブにあるような器具が幾つも置いてある。それに、ボールやバトン。

 いっちゃんが居た。

 ベッドに横になった、見たところ大学生くらいだろうか、足にテーピングした女の子の屈伸運動の補助をしていた。いっちゃんのほかにも何人か、同じユニフォームの男性、女性がそれぞれ患者さんのケアをしている。なかには一人で複数の患者の相手をしている療法士もおり、いっちゃんもとても忙しそうだった。

 アシスタントスタッフらしい中年の女性に促され、空いているベッドに横になる。バンドとアームホルダーを外し、患部を温めるための、湯たんぽかカイロみたいな器具を肩につけられた。

 寝返りを打つことは勿論、頭をあげることも出来ない状態で、10分、いや、20分が経ち、じんわりと温められた肩の熱が全身に回ったような心地よい感覚に捉われて、私はそのまま眠りそうになった。というより、半ば眠っていた。

「秋月さん」

 どこか冷たい、懐かしい声が降る。

「大丈夫ですか、秋月さん。リハビリを始めますよ」

 目を開けると、いっちゃんが私の顔を覗き込んでいた。

 仰向けになった状態で、いっちゃんに指示されるまま、左腕を天井に向けて突き出そうとする。ところが、驚いたことにまったく腕が上がらない。これが本当に自分の身体の一部かと疑いたくなるくらい、意思の命令をきかないのだ。

「嘘。なんで?たった4週間固定していただけで、ぜんぜん動かなくなっちゃうの?」

 ショックというより、意外だった。このまま左腕が使えなければ、バイトなんて当然出来ない。片手だけで和菓子の包装なんて不可能だ。右利きなので、箸は持てる。絵筆だって持てるから、その辺はなんとかなるだろうが、それだって随分と不便だろう。そんなことを思いながら、それでもショックで打ちのめされるよりも先に、人間の身体って面白いなあ、とどこか他人事のように考えている自分がいて、こういう思考パターンはいっちゃんが私に教えてくれた強さだ、とも思った。そのいっちゃんは、私の上体を起こさせ、背後に回って背中と肩甲骨をマッサージしてくれている。いっちゃんの手が、私の身体に触れている。でもそれはあくまで運動機能回復のためで、おかしな含みとか、甘酸っぱい幻想なんてものが入り込む余地はない。いっちゃんの手は機械的に、力強く動き、私は促されるまま、腕や肩の筋肉に意識を集中するだけだ。

 リハビリは週一回、一時間半程で、毎回必ずいっちゃんが施術してくれるわけではなかった。いっちゃんはチームのなかで役職を持っているらしく、患者のケアだけではなく、若い療法士たちにきびきびと指示を出したりもしていた。

 いっちゃんと私の関係は、理学療法士とリハビリ患者、ただそれだけで、他には何もない。お互いに領域をきっちり守って踏み込まない、どちらが言い出したわけでもないのに、申し合せたように双方がそのルールをきっちり守っていた。だからいっちゃんであってもほかの療法士であっても、別に何も変わりはないのだが、それでも、担当がいっちゃんでなかった日は、籤で辺りを引き損ねたような、少しがっかりした気持ちになった。

 リハビリを始めて三ヶ月経っても私の左腕は動かなかった。持ち上がらない腕というのは、こんなにも重いものかと驚かされる。自力では上がらないが、物みたいに右手で持って、机に肘を載せてやれば、肘から先は使えるので、作業は出来る。無論、稼働領域が著しく狭いので不便はあるが、少しずつそれにも慣れて行った。

 私は、机に向かい、描きかけだった絵の続きに取り組み始めた。


 リハビリテーション科の幅の狭いベッドに横になっている私の隣には、いっちゃんがいる。私は体の左側を下にして横向きの体勢で、左腕をベッドの外に出している。いっちゃんはスツールに座って、膝の上に私の左腕を載せ、というより抱き込むようにしてマッサージしてくれている。私はぼんやりといっちゃんの顔を見上げる。顔と顔は妙に近くて、いっちゃんのボブカットの髪の先端がときどき私の頬に触れて、もし私が治療の必要な患者でなければ、恋人同士のような密着度合だ。

「それでは、秋月さん。次は座って、左腕を上げてみてください」

 右手の補助なしで、と言い添え、私が上体を起こすのを手伝ってくれる。それまでも何度も何度も試して、頑ななくらいに言うことを聞いてくれなかった私の左腕。今度は、どうなのだろう。

 左腕が、上がった。床と水平に、真っ直ぐ、正面に向かって。

 思わず歓喜の声が出そうになったが、でも呑み込んだ。ここは病院で、騒いでいい場所でない。ちらといっちゃんを見遣ると、いっちゃんは表情すら変えていない。

「では、もう少し、上がるところまでやってみてください」

 床と水平の状態から、天井に向けて腕を持ち上げようとするも、さすがにそれは無理だった。

 その日のリハビリは、それで終了。

 総合受付のカウンターで次回の予約を確認し、帰ろうとしていると、小柄な人影が走り寄って来た。

「頑張ったね、まりや」

 たった一言だけを早口に告げて、またすぐに離れて行った。

 いっちゃんが、微笑っていた。目に、うっすらと涙が光っていたのは、きっと見間違いではなかった。

 いっちゃん、待って。

 呼び止めようとしたが、小さな背中はもう視界から消えていた。


 医師や看護師、病院スタッフへの個人的な謝礼や贈り物は禁止されている。パンフレットに書かれているし、同様のことを書いた張り紙が院内の至る所に貼られている。でも、これは謝礼でもなんでもない、文字は書いていないけれど、想いのたけを籠めた、いっちゃんへの手紙だ。

 その日は、左手を後ろに回す訓練だった。怪我をする前は本当に何気なくやっていた動作、ジーンズの左ヒップポケットに入れた財布や携帯を左手で取り出す。そんなことさえ、いまの私には出来ない。弧を描く動作を、私の左腕は忘れてしまっているのだ。

「忘れているだけなんだから、きっと、思い出す」

 それは私の独り言だったが、反応したみたいにいっちゃんがふと顔をあげ、まともに視線がぶつかった。先に目を逸らしたのは私のほうで、いっちゃんは、相変わらずの無表情だった。まりや、と私の名前を呼んで、涙を浮かべたのなんて、幻だったのだと言わんばかりに。

「今日はこれで終わりです。お疲れさまでした」

 いつものように問診票と鉛筆を渡され、印刷された項目にチェックを入れて行く。内容は、日常生活でどういった不便があるか、服のボタンを留められるか、入浴やトイレで困っていないか、などの簡単なものだ。それと、自分がどれくらい回復してきたと感じているか、などのアンケート欄。

 記入を終えて、用紙とそれを止めたクリップバインダーをいっちゃんに返す。そのとき、持参した封筒を、バインダーの上に載せた。

「これは?」

「何も言わず、受け取って」

 いっちゃんは躊躇っているようだった。患者から個人的に何か受け取るのは禁止されているのだから、無理もない。でも私は、有無を言わせず、B5サイズの封筒をいっちゃんの手に押し付けた。

 その晩、いっちゃんは15年振りに、私に電話をくれた。


 電話を受けたのはお母さんで、少し興奮気味だった。

「まりや、誰から電話だと思う?ほら、覚えてる?あの、伊都子ちゃん。あんた、高校受験のときとかものすごくお世話になったじゃない」

 覚えてる、どころか、いっちゃんは私のリハビリ担当で、週に一度は会っているのだけれど。お母さんにそのことは告げていないし、無論、高校のときに突然交流を断ったことだって、話していない。

 いまから出て来れる?と用件だけを言って電話は切れた。私は、簡単に身支度を整えると、財布とスマホ、それと店の名前を書きつけたメモだけを持って、自宅を飛び出した。

 いっちゃんが私を待っていたのは、決して広くはないが、静かな雰囲気のお洒落なカフェバーだった。ドラマのワンシーンみたいにカウンタースツールに腰掛けて、目の前にはカクテル。これが高校生のときなら、ファミレスかファーストフード店で、テーブルの上にはフライドポテトと、プラスチックカップに入ったシェイクかコーラが載っていた。でも、ここはファーストフード店ではないし、二人とも高校生ではない。

 黙って、いっちゃんの隣に腰をおろした。

「これ」

 いっちゃんが差し出したのは、昼間、私が渡した封筒だ。中身は、怪我をする前から描き始めて、ようやく仕上げたばかりの、私の作品。

「別に、勝手に描いただけだから。気に入らなかったら、捨てていいよ」

 出来るだけ卑屈に聞こえないように最低限の配慮はしながらそれだけ言って、バーテンダーさんにコロナビールを注文した。まだ、店に入ってからは、いっちゃんの顔をまともに見ていない。

「違うの。嬉しかったの」

 いっちゃんは、封筒からケント紙を取り出した。ちょっと恥ずかしくなるくらいに繁々と眺め、そして愛おしそうに表面を指で撫でた。

 不自由な左手を必死に動かして、パステルをちょっとずつナイフで削っては紙の上に載せ、淡い色を重ねて仕上げた絵。

 薄桃色の桜が舞い散るなか、寄り添って歩く、いっちゃんと、お下げ髪のお婆さん。あの日、私が目にした、幻みたいに綺麗に見えた、一場面。

「この患者さん、あれから少しして、亡くなったの」

 いっちゃんは、どこかに感情を置き忘れて来たみたいに、ぽつりと呟いた。指は、相変わらず画の表面を撫でている。

 いっちゃんの横顔は、すごく綺麗で、人形みたいだった。人形みたいで、感情が無いみたいなのに、突然、涙が頬を伝い始めた。

「まりや。ごめんね。あの時あんなふうに傷つけて。許してなんかくれないよね」

 多分、お酒の力も借りて、であったのだろうけれど、いっちゃんは話をしてくれた。自分自身についてはほとんど打ち明けてくれることがなかったいっちゃんの過去を、私は初めて聞いた。


 いっちゃんは、東京に引っ越してくる前は、家族で名古屋に住んでいた。歳の離れたお姉さんとお兄さんがいて、両親との5人家族。いっちゃんだけが、両親がかなり歳をとってからの子供で、家族仲は良かったけれど、お姉さんにもお兄さんにも、ほとんど構っては貰えなかった。

 そんないっちゃんが、実のお姉さんと同じか、或いはそれ以上に慕っていたのが、近所に住んでいた3つ年上の『まーちゃん』だった。まーちゃんは、幼馴染みで親友で姉妹であると同時に、いっちゃんの先生でもあった。とても美しい、繊細な少女であったらしい。いっちゃんはまーちゃんに憧れ、いつも後をついて回り、まーちゃんの真似をした。

 家族皆から甘やかされて、末っ子気質の我儘放題で泣き虫だったいっちゃんを、まーちゃんはいつも根気強く、優しく、難しいことを分かりやすい言葉に置き換えて、諭し、宥め、導いてくれた。

「へえ。いっちゃんが泣き虫で我儘だったなんて、信じられない」

 私は二本目のコロナの瓶に口をつけながら、呟いた。いっちゃんも二杯目のロンググラスだったけれど、あまりアルコールに強くないのか、既に目元をほんのり染めている。

「それはもう。自分で言うのもなんだけど、ヒドかったよ。気に入らないことがあるとすぐ地団太踏んで、泣き喚く子供っているじゃない、あのタイプ」

 私は笑ったけれど、いっちゃんは笑わなかった。もう涙は渇いていたけれど、どこか遠くを見るような目をしていた。

「まーちゃんと出会っていなかったら、ずっとそんなコだっただろうと思う」

 それを聞いて思った。私も、いっちゃんと出会っていなければ、卑屈で、後ろ向きで怠惰で、泣くときも笑うときもいつも隣の人の顔色を窺うような、そんな大人になっていたに違いない。

 昔、何かの本で読んだ。ひとは、一生のうちに何回か、大きな影響を与え、変化を授けてくれる、導師のような存在と出会う、と。いっちゃんが私にとって、まーちゃんがいっちゃんにとって、そうであったように。

「それで、まーちゃんは、今はどうしてるの?」

 そう尋ねる前から、答えは分かっていたような気がしていた。いっちゃんはグラスについた水滴を見つめたまま、小さな声で答えた。

 自殺した、と。


 いっちゃんが小学校の4年生で、まーちゃんは中学生だった。いっちゃんは知らなかったけれど、まーちゃんは、学校で苛めを受けていたらしい。今と違って、子供の自殺や学校での苛めがニュースやワイドショーで大きく取り沙汰される時代ではなかった。当然、学校や教師の責任など追及されることはなく、苛めの主犯各だって、分からずじまいだった。

「まーちゃんが死んじゃったとき、初めて分かった。まーちゃんの居ない世界なんて終わったも同然だ、って。だから、まーちゃんがもうどこにも居ないなんて信じられなくて、信じたくなくて、心が壊れかけた」

 心が壊れかけた。それは、比喩ではなく、いっちゃんは本当に壊れてしまったらしい。何日も、何も食べず、飲まず、着替えもせず、真っ白な壁を向いて座っていた。時々、理由も分からず涙を流した。脱水症状と栄養失調で意識を失い、その度に病院に担ぎ込まれ、点滴で命を繋げた。心療内科でカウンセリングを受け、薬も与えられていた。

「そんな状態が半年続いて、家族も参りかけちゃって。そんなときに、叔父さん夫婦の東京赴任が決まってね。環境を変えるのも治療になるから、って、いうことで、私一人が家族と離れて東京に来たの。何より私が、まーちゃんとの思い出がそこらじゅうに散らばっている土地を離れたかったから」

 ビールを飲み干した私は、ウイスキーのロックを注文した。素面で聴いているには辛過ぎる話だった。

 いっちゃんは、他の誰とも変わらないような、ごく普通の子供だったのだ。その普通の子供が、普通じゃない速さで厭なものを見せられて、周りの子供達より早く大人にならざるを得なかった。

 子供の世界は、かつて子供だった大人が忘れてしまって二度と思い出すことが出来ないくらい、小さくて脆い。その小さい世界の中心にいた存在が、或る日突然にもぎ取られ奪われる。それはどれだけ辛いことだったろう。どれだけ苦しかっただろう。

 いっちゃんは言わなかったけれど、まーちゃんへの想いは、間違いなく愛だった。小学生の子供が愛だなんて、と笑うひともいるだろう。でも、愛は、大人だけのものではないし、ましてや、男女間だけのものでもない。

「覚えてるかな、まりや。初めて話をした日。蜂のことを話したよね」

 私は無言で頷いた。忘れるわけがない。

「あの蜜蜂の話は、まーちゃんが教えてくれたんだ。あの図鑑も、まーちゃんに貰ったの」

 子供だったいっちゃんが、それでもありったけの愛を注いだ可憐な女王蜂。でも、その女王蜂は、恐ろしいスズメバチに抵抗する術もなく喰い殺されてしまったのだ。

「まりやって、少しだけ、まーちゃんに似てる」

 私は、顔を上げた。

「といっても、まりやのほうが、100倍くらい強いけど」

 どこが、とは言えないけれど、それまでと口調が変わったような気がした。上手い表現ではないけれど、自分の意思で握り締めていた苦痛を手放したような、動かなかった左腕が初めて動いたときのような。

「そろそろ、出よっか」

 ロンググラスの中身を飲み干し、私が返事をする間もなく、いっちゃんは立ち上がっていた。胸にしっかりと、私の描いたパステル画を抱き締めて。

 

 そのカフェバーは地下にあったので、細い階段を昇って地上に出ると、月が出ていた。満月になる少し前の、ふっくらとした形。

「ああいう月って、なんていうんだっけ」

「ギバウス・ムーンかな」

 私のほうが多く飲んだのだから払う、というのを、呼び出したのは自分だから、と譲らず、会計を済ませたいっちゃんは、見ると、少しだけ晴れやかな顔をしていた。

 表通りに出てもすぐにタクシーを拾わず、少し歩くことにしたのは、どちらが言い出したわけでもなかった。

「いっちゃん、結婚した?」

 近況報告の続きのような、他愛もない話を続ける。

「してない。まりやは?」

「してない。彼氏もいない」

 大切なことに、核心に触れるのを、まだ私たちはどちらも怖がっている。

 月を見上げ、深呼吸する。これから満ちる月。ギバウス・ムーンは、勇気と勢いの象徴だ。意を決して、声を出す。

「いっちゃん。ずっと訊きたかった。高校生のとき、私が、好きだって言ったあのとき。どう思った?」

 いっちゃんは、俯いた。私から離れようとするみたいに、縁石の上を二、三歩進んだ。私は、後ろからいっちゃんの腕を捕まえた。あの日、いっちゃんがそうしたみたいに。そして、言った。

「目を逸らさないで。ちゃんと答えて」

 いっちゃんが振り向く。長い睫毛が、不安そうに揺れる。

「迷惑だった?気持ち悪かった?どんな言葉でもいい、いっちゃんの本当の気持ちが、私は知りたいの」

 いっちゃんの視線と私の視線がぶつかる。私は、今度は、目を逸らさない。

「るく、なんか、ない」

 途切れ途切れの、いまにも消えそうな声。

「気持ち悪いなんて思う筈がない。だって、私のほうが、ずっと前からまりやを好きだったんだから」

 嗚咽を堪えるようにして、いっちゃんは小さく叫んだ。

 私は、息を飲んだ。呼吸どころか、心臓の鼓動まで止まってしまうかと思った。

 いっちゃんが、私を好きって言った?あの、いっちゃんが。

 ああ、神様、これが私の聞き間違いなどではありませんように。夢ではありませんように。

 確かめたい、いっちゃんの真意を。好き、の意味を。

「でも、あのときは私を拒んだ。ボーイフレンドを選んだよね」

 いっちゃんは、激しく首を横に振る。

「選んでない」

 大粒の涙が、頬を伝って落ちた。

「あのとき、まりや、何にも分かってない、って私に言ったよね。だけど、まりやだって分かってなかったよ。まりやが私を好きで、私がまりやを好きで、それでどうなるの?女の子が女の子を好きだなんて、普通のことじゃないんだよ?ハッピーエンドになれるの?」

 怒ったみたいにそれだけ言うと、一瞬の激情に疲れたように、いっちゃんは大きく息をつき、肩を落とした。

 いま、初めて分かったような気がした。いっちゃんが怖れていたものが。ずっと消えていなかった、ごく深いところに隠されていた傷跡が。

 いっちゃんが大好きだったまーちゃんは、ほかの誰とも違っていたのだろう。誰よりも優しくて美しくて繊細だったのだろう。そして、普通と違うということを、普通のひとは許してはくれない。

「自立して、どんどん素敵になっていくまりやを、傍で見ていられるだけで幸せだった。私のせいで、まりやを辛い目に合わせたくなんかなかった。それだけは、絶対に嫌だった」

「だから、突き放したの?」

 いっちゃんは、答えなかった。ただ、泣きじゃくりながら、手の甲で涙を拭う。その手を、私は取った。

「今度は、大丈夫だよ」

 いっちゃんが顔を上げる。幼い子供みたいな優しい、訝し気な表情で私を見る。

「私たちは、もう子供じゃない。傷ついたって、対処の仕方を知ってる。身を護るための武器や知恵だって、たくさん持ってる」

 それに、私は、まーちゃんの100倍くらい強いんだよ?いっちゃんに言われた言葉を、胸のなかで繰り返す。

「だから、この手を離さないで。私も、二度と離さない」

 涙に濡れた指先を握る手に、力を籠める。いっちゃんはまだ泣いていたけれど、静かに、でもはっきりと頷いた。



 とても、綺麗なものを見た。

 引越しの荷物を積み込んで走り出したトラック。

 桜が、舞っていた。

 舞い散る桜の向こうに立ついっちゃんは、両袖を肩まで捲り上げたTシャツにGパン。それと、両手には軍手をして、首にはタオルをひっかけている。

 見つめていた私の視線に気づいたのだろう、いっちゃんが挨拶みたいに片手を上げた。

「やっぱり、その格好はどう見てもドカちゃんだよ」

 見惚れていたことを誤魔化すためにわざと言うと、いっちゃんがお道化てぺろりと舌を出す。

「じゃさ、ついでだからヘルメットも被って、お辞儀しよっか。工事中につき、ご迷惑をお掛けしております、ってキャプション付けて」

 思わず吹き出すと、いっちゃんも笑った。

 4月。私たちは、これから二人で新しい生活を始める。

 お世話になっていた叔父さんご夫婦が名古屋へ戻って以来、いっちゃんはずっと寮で暮らしていたが、その物件も老朽化で建て直しが決定し、丁度よいタイミングだったので、私のほうからルームシェアを持ち掛けたのだ。いつまでもパラサイトの三十路娘を持て余していた私の両親は、勿論、大喜びだった。今日は、私の荷物を運び出す日で、いっちゃんは休みを取って手伝いに来てくれていた。

「まりや、休憩しよう。お母さんが、お茶を淹れてくれたよ。お饅頭もあるって」

「いま、行く」

 掃除道具が入った袋を両手に抱えて運んでいた私の手から、いっちゃんが荷物を奪い取ろうとした。

「ダメダメ、重いものを運んじゃ。まりやはまだ腕が痛いんだから」

「大丈夫だって」

 患者は言うこと聞きなさい、と口を尖らせるいっちゃんが、愛しくて仕方ない。もう患者じゃないのに。

 私は、担当医から「症状固定」(これ以上治療を続けても大幅な回復を認められない状態)を言い渡され、半年間のリハビリを終了した。

 稼働領域不全の後遺症はあるものの、左腕は、痛みを堪えれば、真上に上げられるまでに回復している。それは、公私を超えたいっちゃんの尽力のお陰でもある。

 背中で手を組むストレッチ法があるが、骨折前は、左右の手首を掴めるくらい体が柔らかいのが自慢だったのに、いまは、左手を上にすると、指の先しか届かない。そのことを愚痴るといつも、それだって柔らかいほうだよ、と、いっちゃんは笑う。

 私は、相変わらずイラストを描きながら、デパートの地下で和菓子を販売している。怪我で一度は辞めたバイトだが、リハビリ終了後に再度門を叩いたら、快く再雇用して貰えた。いまは契約社員だが、いずれは正社員を目指すつもりだ。

 それと、いっちゃんには内緒にしているが、近いうちに必ずイラストで大きな賞を取って、賞金でいっちゃんに海外旅行をプレゼントする。それが、いまの私の夢で、目標だ。

「まりや」

 いっちゃんの指先が、私の髪に触れる。

「桜の花びら、ついてる」

「いっちゃんも、ついてるよ」

 いっちゃんがにっこり笑い、私の指先に触れた。その手を、強く握り返す。家のなかから、焦れたようにお母さんが呼ぶ声。

 もう一度顔を見合わせ、私たちは走り出した。子供のようにはしゃぎながら、しっかりと手を繋いで。 



                《FIN》

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目を逸らさないで 手を離さないで ひせみ 綾 @mizua666da

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