第五章 開戦

(1)

 いろいろもやもやしたものを抱えて帰って、それでもそんなことは知ったこっちゃないって感じで日が落ちて、日が上った。


「うーん……っふう」


 どうも寝覚めがすっきりしない。ベッドから上体を起こして、そのままぼんやりと昨日のことを思い返す。社長は、始まったか、と言った。それは、何かが動き出しているってこと。だから今日は、昨日以上にわたしが忙しくなる予感がした。


「さて、と」


 さっさと支度しよう。いつもの朝よりもっとてきぱき身支度をこなし、くっきり濃いメークにして自分に気合いを入れる。


「うっしゃああっ!」


 鏡の前でガッツポーズ。たぶん。これからわたしを待っているのは、いいことじゃない。だけど、それを先回りしてぐだぐだ心配してもしょうがない。アパートのドアを音を立てて閉め、鍵をかけて。その鍵を宙に放った。ちゃりん!


「さあ、行くかあ!」


◇ ◇ ◇


 通勤の間、のしのしと大股で歩き続けた。その勢いのまま事務室に入って、大きな声で挨拶した。


「おはようございまーす!」

「おはよう、ようちゃん」


 白田さんがにこにこと返事をする。昨日の極度の緊張状態から開放されたのか、今日の白田さんはいつも通りだった。


「あ、ようちゃん、昨日のお茶の時間、ごめんね。お客さんが来てて、ちょっと席を空けられなかったの」

「そりゃ、しょうがないですね」


 昨日の昼の気まずさが原因てことじゃなかったのかも。これも一安心。


「じゃあ、テレルームに行きますー」

「よろしくねー」


 白田さんから鍵を受け取って階段を上がると、もう扉が開いていた。そして社長が、作業服姿の若い男と一緒に部屋の中をうろうろ歩き回っていた。


「おはようございますー。社長、珍しいですね。どうしたんですか?」

「ああ、ようちゃんおはよう。後でちょっと話がある。事務的な話ね」


 ぽかんと立ち尽くしてるわたしの前で、若い男の人が何か計器を持って急がしそうに作業している。それから、腰に下げていた布の袋をじゃらじゃら言わせながら外して、付箋を付けた。中身、なんなんだろ?


 作業が終わったのか、男の人は作業表に社長のサインを求めた。


「それじゃ、失礼しますー」

「ありがとうございました」


 社長にさっと頭を下げた男の人が、ぱたぱたと小走りに部屋を出て行った。


「えっと。話ってなんですか?」

「ああ。鍵のシステムを変えたから」

「え?」

「今までテレルームは、普通のシリンダー錠だったんだけど、電子錠に変えたの。ホテルとかでおなじみのオートロックね」

「へ?」

「キーは白田さんには渡さない。君が直接管理して。スペアは僕が持ってる。無くしても白田さんには何も出来ないから、絶対になくさないでね」


 ひええー! なんじゃとてーっ? な、なんでいきなり……。


「あ、あの。どうして突然そんな」


 社長が、開いていたドアを閉めた。がちん! 前のドアとは比べ物にならないくらい重い音がして、鍵がかかった。そもそも今までは、わたしが部屋にいる限り鍵は開けっ放しだったんだ。それが、オートロック。常時閉まってる形になっちゃった。


「内側からもカードキーがないと開かない。気を付けてね」


 うげえ。社長から受け取ったカードを持つ手が震える。


「昨日、始まったって話をしたでしょ?」

「あ、はい。でも、何のことだか……」

「予想通り、事態が動き出したんだ」

「??」


 さっぱり分からん。でも社長は、わたしのはてな顔を全く見てくれない。事務的な口調での説明が続いた。


「僕は普段、ここにはいない。だから、僕と連絡を取るには僕の携帯にかけるしかない」

「はい」

「そのラインを、もう一系確保したから」


 そう言って、わたしの使っている電話を指差した。


「さっき工事を入れて、ここの回線を下と分離したの。ここは完全に独立した回線になった。事務室から内線で回せなくなったの。それとワイヤーラインではなくて、無線で外と繋いでる」

「あのー。なんのために、ですか?」

「盗聴を避けるためさ」


 ぐげーーっ! のけぞった勢いで、後ろにひっくり返りそうになった。


 社長が、仏頂面で室内をぐるっと見回す。


「さっき業者に見てもらったら、この部屋に十個以上の盗聴器が仕掛けてあった。安物ばかりだから、仕掛けたやつがプロってわけじゃないみたいだけどね」


 ごくり。


「それって、前からあったんですか?」


 もしや、わたしの恥ずかしい独り言が誰かに聞かれてたんじゃ。


「いや、昨日君が退社してから今までの間に、だよ」

「うそぉ!」

「だから昨日言っただろ? 始まったって」


 なる……ほど。


「予測はしてたから、すぐに手を打った。ここは他の社屋とは切り離された完全に独立した空間になる。そうする必要があるからね」


 社長が言った、わたしはここから出られないというセリフ。それは、こういうことだったのか。でも、わたしはキーを持ってる限り自由に出入りできる。幽閉っていうのとはちょっと違う気がするけどなー。


「で、追加でようちゃんに遵守して欲しいことがある」

「えと。なんでしょう?」

「絶対に、キーを人に貸したり渡したりしないようにね」

「はい」

「それと申し訳ないけど、今後君と僕以外の人物がこの部屋に無断で入ることは一切認めない。社員でもだめ。だから、君はそれを忠実に守り、他のメンバーにも守らせて欲しい」

「う……はい」


 まあ今までだって、誰もこの部屋に入った人なんかいないんだけどさ。お茶に誘いに来る白田さんだって、戸口で声をかけるだけ。ここに足を踏み入れたことなんかないもの。


「でも、社長。盗聴って、誰が、ですか?」

「分からない」


 はえ?


「僕が分かっているのは、敵のアクションがあるってことだけなんだよ」

「敵ぃ?」


 思わず、すっとんきょうな声を出してしまった。


「うちの社って、そんなライバルに狙われるようなごっつい社でしたっけ?」

「ようちゃんも言うねえ」


 社長が苦笑する。


「まあ、敵って言ったって、そんなご大層なもんじゃないよ。でも、僕は自分の夢を懸けてこの社を立ち上げたんだ。それを邪魔するやつがいれば、それは誰だって敵さ!」


 それまでの事務的な口調とは違う、強くて切羽詰まったトーン。

 夢、か……。


「あのー。盗聴してまで敵が欲しがってるのは、どんな情報なんですか?」

「ああ」


 社長が、ぱんと机を叩いた。


「僕に関する情報。特に僕の居場所。だから、それは絶対に漏らさないで欲しい」


 ちょっと待って。漏らすなって言ったって、そんなのわたしは知らないしぃ。知ってるのは、社員のスケジュール管理をしてる白田さんだけやんかー。


 背広のポケットから携帯を出した社長が、そのナンバーをわたしが業務で使ってる電話機に転送して、登録した。


「この携帯は、ようちゃんが使ってるこの電話としか繋がらない。ここ専用だ。非常時には、僕がここを使ってようちゃんに指示を出すかもしれない。覚えといて」


 ひ、非常時じゃとう?


「……はい」

「これまでの携帯にかかってくるのは、それがたとえ社の公用電話からであっても、場合によっては切るからね」


 そう言い残した社長は、胸ポケットからカードキーを出し、ドアを解錠して出て行った。がっちゃん! 再び、重い音を立てて閉まるドア……。


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