(4)
祝杯を上げたあと、お弁当を食べながら明日の予定表に目を通す。
製品サンプルが出たから、テナントで村井さんと最終チェックをして、と。ああ、パッケージを見たら感激百倍だろうなあ。おっとっと、コスト計算をやり直しておかないと。社長が当面の主力製品にするつもりみたいだから、予定出荷数を変更して売価の設定を変えないとならない。それも、急いでミーティングで詰めないとね。
食べ終えたお弁当の容器を片付けて。これからわたしにとってマニュアル代わりになる大事な業務日誌に、要検討項目を次々書き込む。ありゃ。残りページが二、三枚しかないや。
「次のを用意しないとなあ」
たった二か月半の間に、業務日誌はもう五冊目だ。テレオペの時のすっかすかな日誌と違って、びっしり書き込まれた文章にも、それに付けた赤字の注釈にも、無意味なものなんか一文字もない。それを見回していて、ふと思い立った。
「よっと」
わたしはバッグの中から一冊のノートを出して、畳んだ業務日誌の横に開いた。それは、わたしがテレオペをしてた時にずっと書き綴ってた思考整理用の暗号ノート。ぐっしゃぐしゃに書き込まれた暗号をじっと見下ろしながら、腕を組む。
暗号の書き込みは決戦前夜が最後で、それ以降途切れてる。利き手を怪我したし、社員でないわたしにはもう書くことがなかったから。でもわたしは、もう要らなくなったはずのノートをバッグに入れて、復職した後ずっと持ち歩いてたんだ。まるで、お守りみたいにね。
ノートにぎっしり書き込まれた暗号の羅列は、わたしが新米兵士として訳も分からず戦った時の弾痕だ。あの戦いは、今のわたしを作ったと同時にたくさんの傷を残
した。それは、わたしが戦い続ける限り避けられないこと。ああ、わたしは。戦士として、ちゃんと戦えるようになったんだろうか? 本当に強くなったんだろうか? 付けられた傷跡を自慢出来るほど、強くなったんだろうか?
今はすっごく充実してる。だって言いたいことはちゃんと言ってるし、出来ることは残らずしてるから。でも。それでも。今のわたしが本当に『わたし』なんだろうかと、首を傾げながらおっかなびっくり足を送っているわたしもどこかにいる。
わたしは羊だ。こわごわ周りを見回しながら、よろよろ迷いながら、めぇめぇ鳴きながら、とことこ歩き続けてる。そして、もし狼が来たら……わたしは戦わずに一目散に逃げるだろう。だって、それが羊が生き残れる唯一の手段だから。逃げること。それはいけないこと? わたしはずっと、自分の生命を懸けて戦わないとならない? そこまで戦わないとならない?
わたしは今、アドレナリンを絞り出してる。戦闘力を自力で高めるためのガッツを絞り出してる。でも、それは無限には出て来ない。社長を見たら分かるよね。一人の人間が作れるもの、背負えることは小さい。それは、社長だろうがわたしだろうが同じこと。だからこそ、わたしがどつぼったように、社長もどつぼったんだもん。どんなに勇気を振り絞っても、気持ちを奮い立たせても、アドレナリンが涸れてしまうことは必ずある。そして、それが自分にとっての命取りになるのなら、迷わず逃げなければならない。
ただ。わたしは、自分にだけは負けたくない。退却は、終焉や死なんかじゃない。それは、再起のための休息だ。自分を立て直し、傷を癒し、覇気を取り戻し、武器を握り直して、再び進軍する。そのための退却なんだ。
そして自分に負けないようにするには、旗だけはいつも高々と掲げておかないとならない。刀が折れ矢が尽きても、それでも旗は掲げることが出来る。削れない、取りこぼせない自分を、いつも高々と掲げておかないとならない。誰も信用出来ず、全ての真実が濃霧の中に隠れていたあの時。もし完全に自分を見失っていたら。わたしは、自分であることをもう諦めていたかもしれない。だけどわたしは負けたくなかった。今度こそ、絶対に負けたくなかったんだ。
ノートにぎっしり書き込まれたのは、自分の弱さへのレジスタンスの軌跡。そして、抵抗運動はちゃんと実を結んだ。わたしは独立を勝ち取った。誰かに導かれるだけの弱い羊ではなく。戦って自分を作る、強い羊になるための独立。
「うん! Yは、YOU(あなた)みたいじゃん。人任せみたいじゃん! もう、いつでもI(わたし)にしなきゃね!」
わたしは、これからもいっぱい迷うだろう。いっぱい失敗し、いっぱい逃亡するだろう。でも。もう二度と、こんな自分は要らないとは言わない。わたしが旗を降ろすのは、この命が天に還る時。そして、わたしが自分の手で旗を降ろすことはない。もし旗を降ろしたくなったら、わたしは全力で戦おう。わたしの中のY……弱さと。
ちゃんと分かる言葉で、見えるように旗を掲げる。それが、いつでも使えて最後まで失われることのないわたしの武器だ。そして。わたしが旗を降ろさない限り、こんなノートを書く必要はない。疑心暗鬼でぎっしり埋め尽くされた暗号ノートを二度と記さないよう、わたしは自分をしっかり戒めないとならない。
「よおしっ!」
出口のない心の闇。わたしを暖かく受け入れてくれるように見えて、本当は退路
がなくなる袋小路の地下シェルター。わたしは、そこに繋がる橋をきっぱり焼き落とすことにしよう。ボールペンをぎゅうっと握り締め、ノートの最後のページに、でっかく、くっきりと書いた。
『¥ I NVR DIE!』(わたしはもう弱い羊なんかじゃない! わたしは決してくたばらないぞ!)
それは、古いわたしへのピリオド。新しいわたしにはもう意味がない。
「明日、シュレッダーにかけようっと」
ノートを閉じてバッグに放り込み、もう一度シャワーを浴びることにする。
「後から来た水沢さんに、おいしいところを全部持って行かれてたまるか! わたしも、ちゃんと女磨かないとね!」
わたしのパンツ見たくらいで鼻血吹いてるようじゃ、社長もこれから前途多難だよなあと妙な心配をしながら。そして、あんな色気のないパンツは超恥ずかったよなあと反省しながら。ユニットバスの扉をばたんと閉めた。
◇ ◇ ◇
ざああああああっ! シャワーの水流を強くして、思い切り顔に当てる。
目を開けても瞑っても、前は見えない。でも、見えないことを恐れたら旗は取れない。だから進めっ! 進軍だ! 進軍あるのみだ!
「ぶふううっ!」
ぶるぶるっと頭を振り、カランをぱんと叩いてシャワーを止める。湯気がさあっと散って、戻ってきた視界の向こう。無数の水滴で飾られた鏡に、不敵に笑っている自分の顔がくっきりと映った。
うん。わたしって、今最っ高にいい顔してるじゃん! 嬉しくて嬉しくて、思わず鏡の向こうの自分に指を突き付けて挑発した。
「腰抜けめぇめぇ戦士め! 戦いはこれからだぞ! ひるむなよ! 明日からもがんがん行くぞーっ!」
<<< FIN >>>
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